卒業生インタビュー/建築家・山崎泰孝氏

 

鴨沂高校卒業の建築家・山崎泰孝氏をたずねて。
<母校鴨沂高校・50年代頃の思い出>

僕は兵庫県の芦屋で生まれました。父が仕事で九州に転勤したのをきっかけに、当時名門校として全国的に有名だった鴨沂高校に編入すべく、京都に住む叔父をたよって引っ越し、1年生の途中でこちらに転校してきました。

当時、鴨沂高校は毎年、100人も京大合格者が居ると言われていましたから、それは凄い!自分の通っていた高校は1学年がわずか100人ばかりだったので、どんな学習内容なんだろ、凄いな!ってね。じゃあ、鴨沂高校に入学すれば、みんな、いや、僕だって京大に入れるんじゃないか、って、思ったんです。

ところが、転校してきたら実際は違った(笑)。実際には浪人して京大合格してる者もたくさん居たし、また、京大に合格しているのは、大半が農学部だったりで。僕らの頃は、京大でも比較的受かり易かったのが農学部だったんですよね。それに、いざ高校の授業内容と言えば、実際何か凄い事が教えてもらえる、なんて事は無い。英語なんか、僕が通っていた中学の時に教わった内容を高校で教えてる位のレベルだった。

とにかく、では、鴨沂生で京大合格者はどうしてたかっていうと、学校の授業をさぼっては、府立図書館やなんかへ行って、そこで自分で勉強してたもんです。1学年の人数も500人程居て大所帯だったし、勉強ばっかりじゃない、名門と謳われる一方で、自由な校風でもあり、そんな中で色んなタイプの人間が居ましたね。

同級生には、俳優の田宮二郎、落語家の森乃福郎なんかが居ましたね。卒業後しばらくして、東京で同窓会があった時に、駆け出しだった田宮君と再会した時は、ずいぶんあか抜けた印象だったのを覚えていますよ。

ともあれ、鴨沂高校に転校した頃は、本当にカルチャーショックの連続でした。私服だし、みんなずいぶん大人びてたし。授業のたびに教室を移動するんだけど、先に教室に居る女の子が、どう見ても年上のお姉さんみたいだから、「先生、1年生の教室はどこですか?」って尋ねたら、「ここだよ」って言われるような(笑)。

学生運動も当時は大変盛んな頃で、生徒大会があると言ったら、となりの御所に警察が待機して、鴨沂生だって分かれば、彼らも目の色を変えてましたよ。校舎の屋根裏に火炎瓶が見つかる、とか。そういう風が校内を駆け巡っていた頃でしたね。

<建築家になる事。母校が与えてくれた事>

元々、僕は子供の頃から、飛行機の設計がしたい、というのが夢でした。だから、そうなるにはどういう勉強をすればいいんだろうとか、色々調べていたんです。

が、鴨沂高校に転校すると、周りの雰囲気が、例えば兵器加担するような「飛行機の設計がしたい」だなんて、口が裂けても、とても言えるような雰囲気じゃなかった(笑)。

そんな校風の中に居た頃、東京にル・コルビジェ(近代建築の三大巨匠の一人)が設計の為に来日するのをきっかけに、建築の魅力と出会ったんです。そこで、自分はこれからは、「平和的設計」を考えるんだ、という夢の実現に至りました。そして、当時、建築を学ぶと言えば、早稲田大学が良いだろうという事になって、鴨沂高校から、早稲田を目指し、そして、ル・コルビジェを師事した坂倉準三建築研究所に至りました。

少なからず、今の僕があるのは、当時の鴨沂高校の存在が影響していると思います。

<鴨沂高校の建て替えについて思う事。>

鴨沂高校の校舎建て替え問題が起こった時、僕も府庁に問い合わせをして色々と尋ねてみました。が、質問しても、今後校舎の何を残すとかは「検討していてまだ何も決まっていません」という返事ばかり。が、実際には計画としては、正門は残すようだけれど、校舎は全面解体するという事のようですね。

建築物の保存の在り方には、いくつかのパターンがあります。例えば、建造物を全て残す、記念碑的に残す、部分的に残すなど、佇まいやデザインを出来る限り残す、といった方法です。そんな中でも、僕が提唱したいのは、幅広い年代が繋がれるよな、それこそ若い世代から年配の者までが親しみをもてるような、機能性と伝統の継承をミックスさせる方法論は、実際にあるはずだと思えてなりません。例えば、僕が手がけた「善光寺別院願王寺」は、そういう考えのもととなるコンセプト、つまり保存活用のもとに設計したものです。これまで、例えば大阪の中之島公会堂の保存活用プランの設計にも関わりました。耐震性等を計りながら、機能性を向上して今後の利用者も親しめ、かつこれまでの歴史や伝統を継承した建築プランを進める必要が、この鴨沂高校校舎にも当てはめるべきだと考えます。

また、鴨沂高校には、木造床や階段など、木製のものが多用されています。近年、日本建築が見直され、これまでは近代化が計られた日本の建築事情ですが、やはり、木造である事がそこで多くの時間を過ごす人間に、どれだけの影響を与えるかという研究は多くなされています。学校建築に至っても、例えば地産地消の考えのもと、多く木を多用する動きは広まっています。木に囲まれ、触れるという事は、音や匂いなど、体で感じる影響力が大きく、そこで過ごす子供達にきっと素晴らしい環境となるでしょう。

建築には、「スケルトンインフィル」という考えがあります。これは、基盤となる骨組みは耐震性を計るべく取り替え、内装や内部を木造とするなど、その保存活用の方法論は多岐に渡ります。物理的に残せるのか、トータルで残せるのか、いや部分的に残せるのか。しっかりと検討を重ね、人間の愛着を育む環境になる事を願います。

これからも、僕からもそのような考えのもと、提唱を重ねたいと思います。

<鴨沂高校の未来について。鴨沂の風をおこそう。>

鴨沂高校の建て替え問題について、僕も同期達や周囲から「山崎さんは校舎全面解体には反対なんでしょう?」とか、「母校の設計参加したらいいのに」とか、色々に言われました。また、周囲の鴨沂仲間も、校舎の問題については、色々と文句は聞きましたよ。ただ、ではいざ反対運動なんてやろうものなら、京都の人は、これまであれだけ文句言ってたのに、ひいちゃうでしょ(笑)。表に立つ事から逃れる人が、どうも多いですね。それが、あの、鴨沂高校に至ってもそれだから、実に残念に思います。僕なんかは、校舎の問題もそうだけれど、正直、「鴨沂高校の制服化」なんて、最も反対運動を起こしたいと思いますよ。それが世の中の風潮だとしても、それには異議を申したい。

僕も鴨沂に転校した当初は、あの学校の自由には、当時大いに悩まされたものです。しかし、その悩みは、決して無駄では無かった。
今、時々鴨沂出身の様々な年代の人達と出会って話す度に少し残念に思うのは、母校への誇りと、エネルギーが無い、という事。これらの欠如が、そもそも母校の存続の危機を表しているのではと思います。

これからは、もっと積極的に、鴨沂高校の卒業生の上下の繋がりを強固にして、みんなで考えを出し合うことが大切だと思います。そういう交流の場を重ねて、「鴨沂の風」を起こそうではありませんか!僕のアトリエを、そんな交流の場に使ってもらってもいい。僕も様々な年代の鴨沂生の話を、是非とも聞きたいと思います。

出来るだけ多くの人間で、鴨沂の未来の在り方について、話し合える機会を作ってゆきたいと思います。

山崎泰孝(建築家)
1935年兵庫県芦屋市生まれ。鴨沂高校6期生。
1960年早稲田大学第一理工学部建築学科卒。60年~70年坂倉準三建築研究所。
73年~㈱アズ・インスティテュート設立。76年~96年まで福井工業大学教授。
97年~2003年まで近畿大学文芸学部芸術学科教授。
77年「善光寺別院願王寺」で昭和51年度「日本建築学会賞」受賞。
98年「芦屋市民センター・ルナホール」で第二回日本建築家協会25年賞受賞。