このままでは解体を免れない校舎の歴史④旧体育館

旧体育館の建物的特徴

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(写真は昭和11年の校舎落成記念帖より。外観及び内観)

先のプール棟から次に着手された建造物である体育館は、昭和9年に竣工しました。

プール棟と同様、切妻屋根の構成をとり、外観には水平庇や丸窓があしらわれ、両側面には柱型を強調した大きな縦長窓を連続させており、館内は充分な採光が確保されています。

出入り口廻りは屋根を陸屋根として庇を深く張り、壁面に大中小の丸窓を効果的にあけて外観意匠の見せ場としています。内部の階段に備えられた大円形の親柱との意匠的な呼応関係が意図され、デザインの統一性が保たれた空間は、我々在校中にも興味深い建物に感じていました。

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内部には職員室、便所、体操器具置き場、体操場、2階には更衣室、シャワー室、観覧室という構成になっていたとされ、天皇の行幸や皇族の台臨に備え、貴賓室も備えられていたそうです。また、2階バルコニーからは、我々の在校中には文化祭の最大の見せ場である伝統行事「仰げば尊し」パレードの終着が北運動場で、最後のアピールはこのバルコニーから全生徒に向けてそれぞれのクラスのスローガンを発表しました。

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(↑87年度卒業アルバムより。「仰げばアピール」の光景。旧体育館から北運動場を望む。)

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(↑89年度卒業アルバムより。)

ちなみに、現在の鴨沂高校においてはこの旧体育館のフロアーはほんの数年前に全面張り替えを行い、大変美しい体育施設として活用されています。また、こちらの建造物も耐震性は公表されている中でも補修にて充分な耐震化が計れるとされます。加えて建物構造の専門家の見解では、「こちらの建物はいよいよ戦争に舵を切る中、物資不足が予想される中で、鉄骨鉄筋コンクリート造という非常に頑丈な造りで建設されている。その事を考察するに、有事の際の避難場所としても、考えられていたのでは無いか」と言われております。

これら、鉄が貴重な時代にも惜しみなく強固な構造を施し、また、ほんの最近には貴重な血税をもって改修されたばかりの体育館も、北運動場の更地化計画の元、解体プランに加えられています。

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(写真は現在の旧体育館内部の様子)

女学校時代における、体育施設とは

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(↑当時は籠球と言われた、バスケットボール。府一はバスケット、バレーボールなど、全国大会の常連だった。当時の学校配布誌には、運動部へは積極参加が再三に渡って呼びかけられている。)

女学校時代の歴史を紐解き、また当時の方々の証言を拾い集めてゆけばゆくほど、我々がなんとなく、当初描いていた「女学校」という、たおやかで、控え目なイメージとはある意味でかけ離れた校風であったという事がだんだんと分かってきます。

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(↑昭和12年の適応遠足第一班は、東寺集合朝6時半。四條畷まで夕方6時頃着の道のりはおよそ40キロ。個人の体力によってコースは分けられていたが、最長コースの40キロには当時参加者557名とある。)

当時を過ごされた方々から体育行事の様子を聞き取りをしていても、例えば「適応遠足」と呼ばれる、京都~奈良、京都~大阪、京都~滋賀と、大変長い距離を1日かけて歩くという、今から思えば大変骨太な遠足があったり、登山と言っても、近くの大文字山どころではない、今なら基礎体力は勿論、かなりの登山経験者でなければトライする事もないレベルの登山があったり・・・と、高貴な子女がやんわりと通った学校では無い、勉強も体育も、どちらもこなすスーパーウーマンを育てる学校だったんではないか、という事、当時はまだまだ男女同権など夢のような時代にあって、男子並に未来を生きるであろう前衛的な女性が学ぶ教育の場でもあった事が見えてくるのです。実際に当時は様々なスポーツ種目において度々全国大会に出場している事も記録に残されて居り、学業はもちろんの事、「運動の府一女」と称される程、運動能力にも長けた女学生の集団であった事が、記述より見てとれます。

そう言った意味においても、この鴨沂高校に現存する体育施設というのは、教室棟同様、これらの歴史の語り部たる建造物である事が言い当てられるのではないでしょうか。

さて、鴨沂高校にある体育館(旧体育館)が竣工された昭和8年頃とは、いったいどんな時代で、また教育における体育というものはどのような内容だったのでしょう。加えて、鴨沂高校の前身である京都府立京都第一高等女学校とは、どのような校風であったのでしょう。

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全国的な女子高等教育の中に質実剛健の気風が高まる中、女性の体力、体位向上は「よい母」になるためにも、また先進国の女性に伍していくためにも重要という考えのもと、これまでは遊戯的色彩の濃かった体操は、1920年頃を境に近代スポーツへと形を変え、陸上競技にテニス、バスケット、バレーボールなどの球技、水泳が盛んになったとされます。雨天体操場(体育館の意味)もこの頃から全国の女学校で設置され始め、体育振興に一役買ったとされます。各種競技会や運動会、季節によって水泳や登山などの体育行事が加わったのだそうです。

近代オリンピック草創期の大正15年に開催された第二回万国女子オリンピック大会。単独出場し、個人総合得点で優勝、ついで昭和3年のアムステルダム5輪では800m競争で2位入賞、日本女性初のメダリスト・人見絹枝(1907~31年)は、大阪毎日新聞から声がかかるまで、京都第一高等女学校にて体育教師として奉職していたとのこと。陸上競技に女子が参加する事が出来なかった時代にあって、このような陸上女子の礎とも言われる選手を教員として迎え入れているという事を鑑みても、文武両道という表現は違うのかもしれませんが、この女学校の並々ならぬ前衛振りが推察出来るように思います。多忙の日々を送る中で体調を崩し、僅か24年の命を終えた彼女は「私が死んだら世間の人は何と思うだろう。人見は運動をやり過ぎて死んだ、女の子にスポーツをやらせるのは危険だと言わないだろうか」という最期の言葉を残しているとされます。

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(↑アムステルダム大会で800m走で接戦する仁美選手)

「私が入学して5年生の頃には戦争が激しくなってしまったので、だんだんと部活動が充分に出来なくなってしまったけれど、私たちの先輩の頃には、バスケットボール(当時は『籠球』と言った)が大変強くて、全国大会で優勝したりしたんです。全国大会出場となると、東京の神宮で試合があって・・・と、とても自慢された事を覚えています。」とは、当時のお話をお聞かせ下さった府一出身のご婦人。この体育館で毎日練習をしていたと語られ、「私はお勉強より毎日、授業が終わってバスケットをする事ばかり考えていました」と笑っておられました。また、府一のバスケットボールチームは、当時の女学生の憧れの的であったとも言われています。今の鴨沂高校には男子は勿論、女子バスケットボール部はあって、今もOB・OGの繋がりや交流戦などが行われていると聞きます。つまり、女子バスケットボール部は、この学校において水泳共々、大変伝統ある部活動であったという事になります。

女学校時代の校風にみる、鴨沂高校のルーツ

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京都府立京都第一高等女学校に学んだご婦人のインタビュー(1980年/読賣新聞)に、母校の当時の様子が語られています。当時、どのような校風であったのか、という事がこれら以下の言葉から読み取る事が出来ます。

「五代目大石校長(大正6年から14年)で府一のムードが大きく変わった。『人間は顔かたちで判断するものではない。勉強して中身をみがけば美しくなるものだ』『摘出子の女子が庶子の男子より下位ということは男性上位の法律だ』と旧民法の相続の矛盾を指摘。さらにそれは『男子がつくった法律だからで、男女平等を改めなければだめだ。それには女子も男子と同等の教育を受けねばならん』と教える。『婚姻の話の時、絶対に結婚式と同時に入籍する事、多くは結婚式のあとで嫁の入籍をする風習があるが、それは絶対にいけない』と。これは強く主張して教えて下さった。乙女の私はぼんやりと実感が伴わなかったけれど、先生の熱意ある語調に強い感銘を受けた事を記憶している。大石校長は『法律と経済』と題した自著の教科書を使い、修身は女性の人権の高揚を説いた。補講の時間は、種々の文学をとりあげ、また芸術をとく。特にフランスの文豪ビクトル・ユーゴー。『わしはユーゴーが好きじゃ。』と言いきる。真善美を平易に説明し、人間の生き方を文学作品を通じて生徒に教えようとしたのだ」。

また、昭和10年代にこの学校に学んだご婦人による当方がお聞かせ頂いたインタビューでも、当時の鈴木校長が全生徒の前で語った言葉が印象的であった事を教えて頂きました。「当時の府一には、はっきりとした校則というものが無かったので、入学した時には驚きと戸惑いが正直ありました。戦時中にあって統制強化がますます厳しくなる時代でしたから、そんな学校はまわりに無かったからです。当時の鈴木校長は、私たちに『みんなの自主自立に待つ』と言われました。今でもはっきりと、その言葉を覚えています」。

これらの証言を読み取るに、男女共学となった戦後の鴨沂高校。全国でも有名な「自由な校風」と謳われたその学校の方針は、実は戦前の女学校時代にすでに始まっていた、そのルーツを垣間みる事が出来ます。

「当時、最先端の女子教育の場」という言葉で言われる現在の鴨沂高校校舎群には、こうした時代背景と共に女学生達へと注がれた、運動も勉強も男子と同等に学べる環境づくりという理念の元、未来の女性像の確立のために設備された学校施設であり、これらが現在に至るまで残っているという事はすなわち、貴重な歴史の語り部であるという事が分かってきます。

また言われる所の「これら当時の教育施設が総合的に現在も残され、活用されているという点も貴重である」との専門家評価は、なるほど、そういう事なのだとも理解出来ることでしょう。

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(↑昭和16年に育館で行われた「救護法講習会における担架作業」。非常時局せまる頃には、沿革史に見る限り、こうした有事の訓練なども数多く行われている。)

参考資料/「京都府立鴨沂高等学校既存建築調査報告書」(大場修・京都府立大教授)、「高等女学校の研究~1920年代の教育実態をめぐって」(山本礼子・福田須美子)「学校より家庭へ」(京都府立京都第一高等女学校)