このままでは解体を免れない校舎の歴史②通称「和室」

通称「和室」として慕われる平屋木造造りの建物の歴史

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本館校舎東裏側には、通称「和室」と呼ばれる平屋の木造建物があります。

この建物は、当初「行啓記念館」と命名されていました。

元は高等女学校時代に、幕末公家屋敷跡に開校された地(上京区土手町通丸太町下る)に建設された木造校舎の一部で、当初は1階は音楽室、2階に作法室を備えた校舎であったとされます。落成後すぐの明治23年に昭憲皇太后の行啓があり、その際に2階作法室が休憩所として使用された事が、「行啓記念館」という名前の由来とされます。

その後の明治33年に現在の場所に女学校が移転した際、正門と茶室と共にこの建物も移築され、一部増床し、1階を割烹教室、職員食堂、第二作法室として、2階を第一作法室として使用していました。

昭和11年に校舎全面改築を行う際にこちらの建物は平屋として再建され、現在に至ります。内部空間は、下手に6畳の板間の水屋があり、上手に向かって9畳、15畳、15畳と3間続きの和室となっています。

菊菱文様の釘隠し、床柱は杉の磨き丸太、漆塗の床、琵琶床に欅材、千鳥が彫られた欄間など、細部に凝らした意匠があります。

校地が移転されても移築され、また現校舎に改築された時にも平屋に変更されるも残された事を鑑みれば、正門や茶室同様、当時の校舎保存を望んだ願いが垣間みれるように思います。その根拠に、府一の同窓会組織である「鴨沂会」より、昭和10年9月28日、「母校敷地内に行啓記念館を建築せらるるに当り、金3000円を本会に於いて負担。」と、鴨沂会沿革に記載されている事。つまり、この木造校舎は、府一の卒業生による寄付にて全額賄われたという事が読み取れます。(母校創立100年記念沿革誌/鴨沂会・著より)

また、専門家によれば、「明治中期に建てられた高等女学校の今に残る稀少な木造校舎であり、明治の女子教育機関に関わる作法室を伝える校舎遺構としても重要である。同校と皇族との関わりを記念するという意義も含め、今後保存の手だてが求められる」と言われています。

 

「女紅場」を知る。女子教育の中の「作法室」の意義について

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近代日本の女子中等教育(女学校・高等女学校)における「花」「茶」「作法」。明治初中期において、これら教育を規定した高等女学校令の施行前には、「作法」は女子の嗜みとして教えられ、「花」や「茶」についても教えられる事はありました。

その後明治32年の高等女学校令公布以後、「作法」は学科目「修身」の細目として位置づけられ、原則週1回程度教えられるようになったとされます。この翌年には校地が移転され、現在地にて開校された高等女学校には、古写真を確認すると、正面左手の建家が2階建てであった頃の作法室棟(現在の『和室』)が置かれて居り、その教育環境の中でも重要な比重をもった教育環境であった事が伺えるように思います。

明治5年に開校した「新英学校及び女紅場」がかつての高等女学校、のちの鴨沂高校のルーツとされますが、ここで今一度、その開校時の教育内容を紐解く事にしましょう。

まず、「女紅」とは、「女工」または「女功」と同義であり、紡績や裁縫、刺繍など、女の仕事または製品の事を指すとされます。つまり「女紅場」とは明治初期に設けられた女子の教育機関の事を指し、この定義をもって、例えば現在の歌舞練場の前身とも言われる「女紅場」であり、遊里の芸娼妓を対象にした「遊所女紅場」と称された学校も、京都の各所に同時代に設けられました。また、町屋娘対象の市中女紅場も同時代に開校されました。

一方、鴨沂高校の前身である「新英学校及び女紅場」においては、名称が示す通り英学校と女紅場が並列する内容となっており、当初は華士族の子女が通う英学校と女子が手作業の技術を習得する女紅場として、当時の京都府の一大方針として誕生しました。加えて、当時は英学校の生徒も女紅の科目の習得も義務づけられている事から、単に一家の良婦になるために習得する技術ではなく、人を教導する者も習得すべき技術であったと考えられていたとされています。

ちなみに、ここでの教育に関わる教授陣の顔ぶれを考えれば、その教育内容の一端が垣間みれるのでは無いでしょうか?

英語は英学校教師イーヴァンス夫人エメリー。書道は旧会津藩奥右筆の芦沢鳴尾、諸礼作法は梅田雲浜未亡人の千代、細工物はその娘のぬい、挿絵は三井家隠居の三井高福、茶道は裏千家・千玄室、華道には池坊専正、画道は望月玉泉、習字は平井義直、吉竹さた、裁縫は岸岡きし、和洋算術と国語に劉ふみ・・・そして、大河ドラマでもストーリー展開の中でもこの時代頃の事はご存知の方も多いでしょう、新島八重が、権舎長兼教導試補を努めました。女子寮の監督、また小笠原流作法、裁縫、機織りなどの授業も受け持ったとされます。

福沢諭吉はこの上流女紅場を称し、「花の如く、玉の如く、愛すべく、貴むべく、真に児女子の風を備へて」いると称えました。

 

当時集められた多くの寄付金によって、今現在も残った貴重な建造物

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これら学校の運営によって、京都の上流階級や商家では、自身の娘を是非とも入学させたいと願う親が急増し、また教育内容も充実させる事によって、校舎規模はいよいよ大きくなってゆきました。

明治10年には明治天皇・英昭皇太后・昭憲皇太后が臨御、明治天皇より500円、両皇太后よりそれぞれ金25円を下賜、翌年には校舎増改築が行われ、明治20年には大谷派本願寺より莫大な寄付を得て学校運営を支えつつ、再びこの時期に昭憲皇太后より2度に渡り、合計300円が学校に下賜されました。増え続ける生徒の教育環境を整えるべく、校舎増築計画を立て、有志寄付金を募り、その後明治33年に現在地へと移転しました。

現在地に移転する際、正門及び茶室や教室棟であったこちらの木造校舎を移築するにあたっては、卒業生が寄付金を募集して新築した、御座所であった木造校舎を新校舎内に移築したとされます。

元々の校舎位置に残る校舎そのままに、第二高等女学校が開校したにもかかわらず、こちらの校舎を移築したのには、並々ならぬ想いと共に、この建物が正門や茶室共々、学校の歴史を語り継ぐと考えられての事であったのでは、ないでしょうか。

ちなみに、前身の女学校があった場所には、もうすでに何も、当時を偲ぶ建造物は残されておらず、京都の女子教育の歴史を語る校舎とは、こちら鴨沂高校に今も残る正門、茶室、そしてこの通称「和室」と呼ばれる木造校舎遺構以外には、この京都に存在しません。

 

これらの貴重な歴史の記憶とともに

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(↑89年度卒業アルバムより。和室にて学生討論会の様子。)

戦後の共学時代になって以降、これらの歴史は校内で語られる事も無くなってしまったその要因とは、一体何だったのでしょう。

この学校の前身である女学校及び高等女学校であった時代には、この学校は皇族とのゆかりの大変深い学校であった事が、その歴史を紐解く度に読み取る事が出来るのは明白です。

我々、共学時代を迎えた頃には、この建物は様々な用途として利用されてきました。勿論、炉がきられていますので、茶道部がこちらを活動の場として利用してきました。そして、運動系部活動の、合宿の際の寝泊まりの場所として、または討論会の会場としても活用されてきましたので、確かに人の出入りがあった事により、同じく隣接する茶室の老朽化にまでは至らぬまでも、所々のガラスは割れたまま、これまで手つかずにされて老朽化を加速させた事は否めません。

尚、こちら大変な歴史を刻む木造校舎は、現在の校舎改築案では、校内に新たに部材を活用し、再現される、という方針が打ち出されています。想像するに、テナントビル内に備わった、和風居酒屋のような様相となるのでしょうか。

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以前、府一時代をお過ごしになられた老舗旅館の大女将にお話を伺った際、校舎内にもかつては作法室と呼ばれる和室があったとの事。この教室が、現在はもう存在しないという事に、大変驚かれていました。当時府一で教わった「お作法」の授業の事をお話され、「現代の生活スタイルではもう失いつつある事ではあるでしょうが、私たちが日本人である以上、作法も立派な日本文化の継承であると思います。現代の若者は上手下手も分からない人が多くなってきているけれど、これは大変な事に思います。」と、危惧されていました。
ともあれ、この建造物が個体として存在を無くされてしまうのは、「校内敷地面積が手狭である」事が理由とされています。

ここにも鴨沂高校が長年活用してきた外部グラウンドである「紫野グラウンド」を閉鎖し、その場所に新設フレックス学園を建設する事が、鴨沂高校グラウンドをあらたに確保するにあたり、北運動場側にあったプール棟や体育館施設を、この手狭とされる校舎敷地側に新たに配置せざるを得なくなった・・・という事がその最大の要因という事でしょう。

これまでの長い歴史の中でも、多くの方々によって支えられ、また貴重とされて残されてきた、近代女子教育を紐解く教育施設が、この鴨沂高校の歴史からも抹消されようとしています。

2013.4.3

 

参考資料/「植民地朝鮮の女学校・高等女学校といけ花・茶の湯・礼儀作法」小林善帆

「京都府立鴨沂高等学校既存建築調査報告書」大場修