このままでは内部の危機的解体を免れない校舎の歴史③/「鴨沂高校・図書館」

鴨沂高校が誇る、独立棟造りの「図書館」

 

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昭和の御大典記念事業として、また昭和8年の屋内プールに始まる一連の校舎改築の総仕上げとして、鉄筋コンクリート造2階建ての図書館が落成したのは昭和13年。設計者は本館や一連の建造物と同様、京都府営繕課の十河安雄が担当しました。

校舎正門の南側、寺町通りに面した位置に建てられ、寺町通り側と本館敷地側の両方に出入り口が設けられました。昨今の学校建築にみられるパブリックスペース的な考え方である、まさしく時代の先を行く学校建築思想に基づいた考えが見られ、同窓生など、校外からの利用を想定したものとされます。

ただ、そのパブリックスペースというものが、昨今にありがちなカフェや雑貨店など軽やかな内容で無く、「図書館」という学校ブレーンがそこには存在していた事も、特記されるべきだと考えます。

屋根には緩勾配の寄棟屋根とし、鉄筋コンクリート造りでありながらわざわざに庇を設けているのも、和風を加味されたモダニズム建築であると評されています。寺町通りを介して御所があり、玄関まわりの石張りや手すりを設けて重厚感を演出されています。

内部空間は2階建てながら、1階の図書閲覧室、そして2階の元外来者用閲覧室の天井高は一様に高く、開放感のある閲覧環境が実現されています。タイル張りの階段はそれゆえに長く、踊り場には湾曲した縦長の開口部(現在は後補のブロックガラスがはめられている)があり、建物の外側からみるとその踊り場部分は本体から張り出し、半円筒形になっています。

各フロアーの天井高が高いのにも、実は大きな意味があります。この図書館には、閲覧室奥、寺町通り側に大容量の書庫が収容されており、各階に鉄骨造の積層書庫が4層となっているためです。各層は鉄骨造の階段と小型リフトによって直結されており、こちらには高等学校では驚くべく収容量と言われる蔵書、6万冊が保管されていました。中には大変貴重な府立京都第一女学校時代からの映像フィルムや名著の初版本なども含まれているとされ、まさしく前身である女学校時代から鴨沂高校に至る、この学校の貴重な歴史の数々が保管されていました。

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(↑図書館落成記念写真より。画像で確認は厳しいとは思われますが、この建物の外観は全て、乳白色のタイルにて覆われています。つまり、当初は本館も同様そうであったように、デザインの統一はこうして計られていた模様です。一体いつの時期に、これらタイルが剥がされてしまったのかについて、少なくとも昭和18年3月までの「学校より家庭へ」を見る限り、確認出来ません。)

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(↑図書館「書庫」の階段手摺。)

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(↑図書館「書庫」のリフト。)

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(↑図書館司書の事務室のガラス意匠。)

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(↑大容量の書庫の様子。鉄製のラックに木製棚がしつらえてあり、重量にも耐える設計が成されています。こうしたフロアーが合計4層となって、ずらりと蔵書が並べられていました。現在は仮置き場に移転させてあるとの事です。)

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(↑教室棟内部の意匠は当時のものとは随分改修されていますが、こちら図書館内部には、壁の材質は当時のものが細かく残されています。)

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(↑玄関フロアーのタイル張り。)

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(↑一階図書閲覧室の天井高の高い様子。現在、こちらにあった蔵書は仮校舎及び仮置き場に移転されているそうです。)

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(↑寺町通り側の石張りにも、「釘隠し」を模した和風意匠が。)

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(↑一階図書閲覧室の木製床は組木仕立てが美しい。)

 

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(↑寺町通り側に向けられた図書館出入り口。校内側から望む。)

 

この図書館の建設費や設備費の全額、そして蔵書の多くはご父兄や同窓会組織によるご寄付で建てられたものだった。

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当時、学校から保護者並びに在校生に向けて配布されていた「学校より家庭へ」という発行誌があったというお話は、府一ご出身の方々よりお話をお伺いしておりましたが、そこで建設当時の頃のものを入手する事が出来ましたので、色々と調べてみる事にしました。そこで当時の記録から浮かび上がったのは、この図書館に係る全ての費用は、ご父兄後援会並びに同窓会組織である「鴨沂会」によるご寄付により賄われたという事だったのです。

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建設費は勿論、設備等一式、その他雑費、図書購入費に至るまで、加えて、当時在学されておりご卒業の折には記念として贈られたとされる久邇宮恭仁子を始め、団体から個人に至る様々な方々のご厚意により、この図書館は成されたとの事でした。

昭和3年。昭和御大典の記念事業として、学校側や生徒父兄、卒業生から「図書館」を建設したいという希望が出た事が最初となります。時は大正から昭和へ、そして来る昭和7年という年は、この女学校が創設されて60年という記念すべき時を迎えようとしていました。そこで昭和3年7月1日には発起人会が設立され、実行委員を構成し、数度に渡り議論を重ね、その行動は則、基金として鴨沂会ならびに父兄により寄付金が集められました。そして昭和7年3月には、4万7565円80銭(現在の貨幣価値でおよそ5億円近く)という巨額に達したのだそうです。ところがこの頃にはこれまでの木造校舎並びに体育施設の整備を急務という判断のもと、この図書館建設の計画実行は一番後回しという事になったのだそうです。戦時いよいよ差し迫る頃に資材費も高騰し、計画当初の予算よりは膨大額を極めましたが、それもこの基金の利子などを充当し、めでたくも竣工を迎えたという事だそうです。

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実際にはこのような背景もあって、あの時代の中では画期的であったろう、学校敷地側だけでなく、寺町通り側からも直接出入りが出来る、というパブリックスペースは、こうした府民やご父兄、卒業生や在校生が成した図書館であったからこそと言う事がよくよく理解出来た次第であります。こうした当時のこの建物を建設するにあたり、並々ならぬご尽力を注がれ、またこの学校へ歴史文化を保管し、また発信を行いたいとされた偉大な先人や諸先輩方がおられたという事を、私たち卒業生は少なからず、心に刻み残さねばならないのではないでしょうか。

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(↑一連の校舎新築竣工を終え、記念植樹として昭和13年12月12日、当時の鈴木校長は松を寄贈植樹されました。)

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(↑昭和12年から13年頃の「学校より家庭へ」には、図書部便りとして度々に寄贈された蔵書の目録や寄贈された方々のお名前等が記載されています。)

◎図書館を巡る、様々な記憶

 

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かつて高等女学校に在学されていた方より、この図書館にまつわるお話をお伺いしました。

「私にとってこの図書館は大変思い出が深く、毎日ここで本を読んでいました。2階には先生方が各自に研究されるお部屋があって、各自机が置かれていたのを覚えています。戦時中で敵国語となり、英語を学ぶ事が出来なくなって後も、英語の先生が自主的に放課後を開放し、希望者に英語の講座を開いて下さったり、またこの図書館にはそんな時代の中でも英語の本が自由に閲覧出来る場所に置いてありました。加えて、当時様々なレッテルを張られた作家らの発禁本も、「禁」のハンコを背表紙に押されていながらも書庫にずらり、堂々と並べられていました。こうした書物の数々を、あの大変な戦争中にあっても決して焼き払わずに図書館に所蔵していた事を考えれば、当時の校長先生を始めとした先生方のご尽力は計り知れません。そう言う事だけをとらえてみても、私たちはいかに、この学校で守られていたのかという事を今でも感謝しています。」。

このお話をお聞かせ下さったご婦人は終戦後、初めて京都大学にも女子の入学が認められた、その第一号生となられました。

また、戦後に共学となった頃すぐの鴨沂高校に入学された卒業生にもお話を伺いました。

「僕はこの学校が共学になってすぐ、統合された学校からこちらにやってきたんだけれど、その頃はとにかく学生で溢れ返っていてね。確か2000人位、生徒が居たんじゃないかな。教室が全く足りなくて、僕のクラスは急遽、図書館2階が教室として与えられたんです。同級生らが居る本館とは離れていたけれど、あの図書館が教室だったのは、僕はイヤじゃなかったな。ひしめき合う学校の中で、なんだかとてものんびりと落ち着いた気持ちになったものだよ」。

2000年代に在校していた卒業生も、図書館についてこう証言しています。

「2階の特別閲覧室でオープンスクールや入学式で上映するビデオをそこで制作するビデオ班として活動していました。今から思えば、そのような学校案内に准ずる制作物を、業者に頼らず学生に制作させていた事は、業者に頼らないという事で、随分と制作費削減に繋がっていたのではと思います。当時はデジタル化も進んで居らず予算が無い事を理由に制作に使うテープ代すら捻出してもらえず、過去のテープを削除して使い回すなど、意味も無く過去の記録を消すことは辛いものでした。予算が無かったわけではありません。特別閲覧室にはビデオの編集機材が一通り揃っており、これまでの鴨沂高校における文化祭や研修旅行などのテープは、学校教育史としても、また鴨沂高校のこれまでの歩みを読み取る事も出来る、貴重な宝である記録物の一切も棚に保管されていました。これらが今後の鴨沂生へも継承される事は、とても有意義な事ではないかと思います」。

また、鴨沂高校の部活動で放送部に所属していた卒業生は、「この建物の2階には放送室がありました。ここで3年間、ランチタイムの番組を作って録音をしたり、時には生放送も行いました。先生を招いてのトークショー番組なんかも。」と、この建物が鴨沂高校の文化発信拠点として活用されていた事を記憶しています。

◎蔵書6万冊を誇った、当時の京都府立京都第一高等女学校とは

 

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1899年(明治32年)の高等女学校令を先取りする形で、1887年(明治20年)には、「京都府高等女学校」に昇格するという歴史を持つ、のちの「京都府立京都第一高等女学校」。明治期以降、ほぼコンスタントに皇族が在籍していた事に象徴されるように、学生の出身階層面でのエリート性をもっていた事に加えて、入学最難関校として学力面でもエリート性を有し、他の女学校の追随を許さなかった・・・それほどの学校であったとされます。

教育面ではカリキュラム内容を紐解くと、文部省が提示した基準よりも英語や数学にウェイトを多く時間が割かれ、いわゆる他校に見られる女性向け科目としての家事や裁縫の授業はやや低め、進学率が全国水準と比較しても著しく高く、就業率はやや低い傾向にあったとされます。

京都大学大学院教育学研究科による、2000年に行われた、府一出身で昭和9年~昭和18年に在学していた方々へのアンケート調査によると、「学校での勉強」には「熱心に取り組んでいた」と答えた卒業生は75%、「学校のスポーツ行事や文化行事」に対して「熱心に取り組んでいた」が61.5%、「読書」に対しては68%など、部活動や先生との交流と比較すると、全体として向学校的であったという結果が出ています。また、学校が提供する教育とは別に、読書や稽古事を行う女学生も多く、それぞれ68%、46%という報告もあげられています。

男女同権などというのがあたりまえのような現代とは異なり、まだまだ女子が一層の勉学に励み、その後の進学の場も稀少であった時代にあって、当時の鈴木校長はさかんに「女子にも男子と同様の高等教育機会を与える必要性」を主張していたとされます。女子の本分や特性は強調されず、むしろ女子と男子の能力にはさほどの違いは無いとし、さかんに女子教育の発展について呼びかけが行われていたのだそうです。

こうした教育環境を支える場所としての裏付けにあたるのが、例えばこの鴨沂高校に残り、現在まで活用され続けてきた「図書館」という訳ではないでしょうか。

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(↑内部資料が全て移転された、図書館2階の様子。)

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(↑2013年6月には、仮校舎引っ越しの為の荷物搬出の経路確保として、図書館脇の校舎を囲む瓦のせの土塀が工事業者によって破壊されました。)

 

◎現在進められている、校舎改築計画に浮かぶプラン

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(↑こちらがプロポーザル設計業者による校舎改築案プラン。図面上部の図書館の1階は売店と食堂、2階はコモンホールと倉庫となっており、間取りから察するに、現在ある書庫は完全に解体、1階のレイアウトも厨房も入る事になるでしょうから、排気ダクトや調理機器等が入る事が想像され、本来機能であった図書館の様相は完全に消し去られる事が想像出来ます。中古テナントビルにおける、用途の大幅変更による内部リノベーションの手法という事でしょう。設計業者のスキルとして、こうした文化的価値を鑑みる技量を備えている事は伺えません。)

鴨沂高校は現在、改築プランがプロポーザル選定業者によって提出されており、そのプランを基軸として、ワークショップなるものが進められています。

このワークショップ開催にあたっては、当初は「専門家や学生、教員、卒業生などを交えて行い、そこで校舎の今後の在り方をみんなで話し合う」という事であったにも関わらず、実質的には学生及び教員を対象としたワークショップという形にすり替えられ、しかも「あくまでもプラン」としていた筈の校舎改築プランも、実質的にはプロポーザルにて提出された設計プランを完全にベースとし、その中で内部空間の在り方を調整するという、大変強行的なスタイルで押し進められています。勿論、その場には広くは学校運営に欠かせない運営の基軸となる納税者の参加もなされず、卒業生どころか、近代建築の専門家も存在してはいません。

そこで現在浮上しているのが、この図書館の1階を「食堂」に、そして2階を「コモンホール」に、というプランであります。

この独立棟である「図書館」において、これまでの学校の歴史が成した文脈は、このプランでは全く、途絶えてしまうのは明白です。当初プランでは「食堂」はあらたに改築される教室棟内に設置される予定であったものが、学生または教員による声なのか、「食堂をもっと広くして欲しい。例えば図書館に食堂をつくっては?」という要望に従い、こうしたプランが成り立ちを帯び始めています。

では一体、今後、これまでこの場所で所有していた6万冊の蔵書は何処に所蔵されるのでしょう。また大変貴重な書庫は、どうなってしまうのでしょう。これら膨大で保管場所には慎重をきす鴨沂高校の歴史は、何処へ行ってしまうのでしょう。

そして、当時その図書館建設に対してご尽力をされてきた先人や先輩方のその高い志は、どうして継承されるのでしょう。

今後の鴨沂高校にも、必ずや図書室は校内で設置が成される筈でしょう。では、この図書館における内部活用方法の完全なる用途転用(図書館から食堂及びコモンホール)を成さなければならない理由は一体何処にあるのでしょうか。閲覧室が手狭であるなら、それはこの内部空間のリノベーションで行う事は不可能でしょうか。何より、この建物が全額寄付によって成された事を、その議論をされている、学生を含めた全ての人間が、知った上での判断でしょうか。少なくとも、当方は今回、卒業生でありながら、そして大変遅ればせながら初めて、この建物の誕生にまつわるお話を知る事が出来ました。が、その事を知る人は一体、卒業生の中でもどれだけの人間が居るでしょう。

建物が保存される事になったと安堵されるもつかの間。実体的には全く用途の異なった、かつ食堂と言えば内部及び厨房などが設備される事を考えれば、内部空間の相当な破壊は、誰しもが想像できる事に思います。

建物の外観が残された所で、守られたのは僅かに「御所廻りの景観に配慮した。美観地区に配慮した」事のみ実行されただけであり、これでは学校の歩んだ歴史的文脈を破壊するに等しい行為です。つまり、外箱だけが残った、という事になり、空間全体の意味合いはまるで、消し去られてしまいます。確かに、鴨沂高校の食堂は、現在の店主である前川さんのお父さんの時代から、鴨沂高校の食堂を任せられ、鴨沂卒業生には大事な大事な宝のような存在です。で、あるからこそ、このように中古テナント然としかとらえられていないプランにまみれ、そもそも厨房としての機能など考えられていなかった施設に押し込めてしまうのも、あんまりだと考えます。

加えて、学校の歴史についてまだまだ知識に乏しい学生に対し、このような歴史的価値の高いとされる建造物の有る無しにおける決定権という重大な責任を、負わせてしまうのは大人側の横暴では無いでしょうか。

「使う側の利便性を第一に考えて」という言葉を、建造物に対してよく耳にしますが、その考えについて素早く改築を押し進めたい側の悪用に、彼ら学生を巻き込むのはあまりに問題です。

まして、現在参加権が与えられている学生については工事完了後には皆が卒業しており、この改築後の校舎については彼らは利用する事はありません。

これまでの歴史的文脈を伝え、またこの建造物の歴史的価値も見出される事なく、またそれらを伝える専門家の存在も無く、貴重な空間から辿る歴史は今、鴨沂高校から消滅されようとしています。

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参考資料/「高等女学校同窓生集団の文化と構造:京都府立京都第一高等女学校卒業生調査から」ー貫田優子(京都大学大学院教育研究学研究科) 「京都府立鴨沂高等学校既存建築調査報告書」ー大場修(京都府立大学) 「公立名門高等女学校の同窓会誌にみる『あるべき女性像』~県立和歌山港等女学校と府立京都第一高等女学校の比較分析から」ー土田陽子(京都大学大学院文学研究科グローバルCOE研究員)「学校より家庭へ」ー京都府立京都第一高等女学校