このままでは解体を免れない校舎の歴史⑥/本館校舎及び教室棟

京都府立京都第一高等女学校の沿革史より

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「大正の末期より女子教育の発展とともに、入学志願者激増し、殊に専攻科の如き、かつては廃止論をさえ惹起したるに引きかえて、急激なる発展を来し、多数の志願者の収容能力のなき状況に鑑み、従来の制度を廃止し、新たに代る女子専門学校を設立し、以て時代の要求に応ずるに至る。高等科も精深なる高等普通教育を希望するものの増加を来し、本科は大正11年の拡張以来、府政府当局者の機宣に適せる諸施設とともに有志卒業生の熱誠ある後援により、ここに時代の進運に基き生活の即せる教育は有効に実施せされ、従来の知育に加えて体育推奨の方法を論じ、その成果を見るに至る。かくて校運隆々たる中に、創立60年を記念し祝賀することとなる。」

(母校創立100年記念沿革史/鴨沂会/1972年発行より)

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創立60周年記念事業のひとつとして、鉄筋コンクリート造への一連の校舎改築が行われ、まず最初に建設された校舎がプール棟、ついで体育館、そしていよいよに着手されたのが、それまでの木造校舎から改築され、現在も残る校舎本館です。

明治33年に新築された校舎も昭和になると老朽化が問題となり、上記沿革史にもあるように当時のニーズからも校舎が教育環境として対応出来なくなったのであろう木造校舎。昭和7年度の通常府会によって校舎改築が議決され、昭和9年4月より本館工事はスタートしました。記録によれば、昭和9年の室戸台風を受けて、当時の木造校舎は被害を受け、老朽化を加速させたとありますが、一方では同じく室戸台風で被害を受けた大阪・茨木小学校の改築の際、府一の木造校舎が払い下げられて活用されたとの当時の新聞記事もあり、果たして老朽化自体が本来の改築の最大理由であったかは今となれば分かりません。

茨木小学校関連新聞記事

(↑大阪・茨木小学校校舎において、京都府立京都第一高等女学校及び京都市立富有小学校校舎が移築された事を記した当時の新聞記事。ちなみにこの校舎は昭和33年まで活用されていました。)

ともあれ、当時の鈴木校長が昭和11年5月20日に行われた竣工式の挨拶でこのように述べています。

「表門は当初、校舎新築とともに洋風意匠に変更しようという動きもあったようであるが、京都府立第一高等女学校側が府に強く保存を要望した」。

その結果、校舎設計に関して、府議会としては

1ー教育上の環境を考慮して現地改築せること

2-建築様式を日本趣味を加味したる近世式とせること

3-御所との関係を考え其の調和美を発揮したること

4-歴史的の正門を存置し現代建築との調和を保ちたること

5-採光通風をよくし衛生的方面に遺憾なからしめたること

などの校舎建築に際してその在り方の指針を打ち出し、女子の現在及び将来の地位を見据えた明確なる信念と、国家的精神を具現する形にて校舎改築プランは進められたとされます。545245_603929086316770_2125124431_n

(↑校舎改築後まもない頃の教職員陣集合写真。下段中央が鈴木校長)

 

本館校舎の特徴

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意匠設計については「日本趣味を加味した」スタイルと、1920年代から30年代にかけておもにヨーロッパ諸国にて流行した自由なスタイルである事が特徴とされる建築スタイル「モダニズム」のデザインが見事に融合された校舎と評価される鴨沂高校校舎。御所の中を覗き見る事の無いよう中央がセットバックされたコの字型の校舎配置、学校の歴史を考慮した仕上げ材と色彩の選択については、「御所との関係を考え、その調和美を発揮」する事が念頭におかれた事がよく読み取れる建築物であります。

昭和9年に竣工した本館中央及び特別教室(北側)、昭和10年に竣工した普通教室棟(南側)と、コの字の形をとりながら、常の生徒が居る普通教室は終日採光も良く、全面的に窓が多く設けられ、通風も良い環境が成されています。

外観デザインの貴重はモダニズムでありながら、本館中央と左右の棟は変化をつけつつ、これによって本館中央の中心性が強調されたデザインとなっています。

こうした近代建築に関する専門家による説明では、

・モダニズムを基調としながら和風・西洋の古典主義、アールデコなども融合した優れた建造物である。

・様々なデザインの棟が群を成して保存されている。

・京都府営繕課の技術士であった十河安雄の設計であるこの建造物は、当時の京都府が優れた組織であったことを示している。

・御所に隣接した敷地の中で校舎の配置をセットバックさせ、和風にするなど、景観へも配慮した表現が成されている。

・コの字型の校舎の屋根全体に屋根を載せて居り、この事でも和風を加味した事が表現されている。

・・・と、その大きな特徴について高く評価しています。

また、これらを更に具体的に解説すると、「校舎外観のより特徴的である事は、特に3階部分のデザインが事なっている所にある。3階はわざわざ丸柱にしてあり、表情を変えてある事も注目すべき点である。これはヨーロッパにおける建築の古典主義の基本である『三層構成』がしっかりと反映されている証拠であり、鴨沂校舎についても1階には石張りとし、2階、3階と表情を変えて構成されている。これは古くはギリシャのパルテノン宮殿やルネサンス時代にも引き継がれた西洋の基本的建築の外観様式であり、格調が高い事を示している。一方、例えば同じく京都で同時代建物では京都市美術館が、和洋折衷様式の建物として評価されているが、この建築物に関しても確かにモダニズムの要素はありながらも、帝冠様式といって更に古典主義が強く、そういった意味でもこの鴨沂高校校舎についてはデザインとして絶妙のバランスをもった建物であるという事になるだろう」と言われています。

細かな所では本館中央部に高く掲げられた「千鳥破風」という和風モチーフ、破風の拝みには懸魚が鰭とともに取り付いて居り、懸魚中央には銅製の六葉が、鼻母屋にも金具を取り付けるなど、実は和風意匠は細部に渡り及んでいます。中央講堂部には採光窓である三連のアーチ窓と円柱、その円柱の柱頭には寺院でよく見られる雲文をかたどる銅製の金具がとりけられ、アーチ窓と柱の和洋折衷の不思議な組み合わせもまた、細部まで試みられています。

(↓昭和12年に最初の来日を果たしたヘレン・ケラーも講演をしたとされる講堂。下の写真は現在の講堂の様子。机や椅子等は当時のものは残って居ないが、壁面や天井の意匠は当時のままに残されている。

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(↓校舎落成記念帖より、第一及び第二貴賓室。現在には夜間定時制の職員室があり、家具類等は一切校内に当時のものは見当たらない。大理石製の暖炉跡が当時の面影を残している。)

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(↓落成記念帖より、校長室。現在も、他の教室等に比較すれば当時のままの意匠や建具などが比較的良く保存されている。)

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(↓校舎落成記念帖から教室と階段室の様子。教室内は当時とは様子が異なるが、こうして時代ニーズによってその内部空間における改修は大いに可能ではないか。「廊下側の昭和40年代頃のアルミサッシを取り替えるだけでも随分見違えるだろう」とは専門家の弁。)

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(↓落成記念帖より物理教室及び準備室。こうした理科系教室に使われていた大型の机は、その後教壇となって活用されていた。)

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(↓校舎落成記念帖より玄関車寄せ及び玄関ホール。このあたりの佇まいはおおよそ当時も今も変わりがない。)

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(↓今は無き校内にあったとされる作法教室)

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◎その時代の中で変容した校舎

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(↑校舎落成記念帖による本館中央の車寄せ部分を拡大すると、この校舎は全体的に鴨沂会館と同様の白いタイルで全体を覆われていた事が分かる。)

恐らくは鴨沂高校卒業生であれば誰しもが伝え聞く所の校舎内部の階段室。「その昔の女学校の生徒が袴姿でも上がり下りし易く段差の狭い木製階段」。ところが実際にはこの校舎が完成する以前の昭和5年3月11日には、高等女学校では生徒の制服が定められたとし、その口伝は多少の誤りも含むかとは思います。しかしながら、この当時の先生方には袴姿や着物姿も多くあられたとは府一時代の方からも聞きましたので、つまりは女子が大きく歩幅を乱す事なく階段の上り下がりが行えるような配慮だったのでは、と考えられます。

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また、講堂を両側で挟む形の階段室には、1階から3階まで恐らくは金属製の唐草のようなモチーフの枠がはめられていた事が、当時の落成記念帖の写真を見れば認める事が出来ます。当時府一におられた方にこの事を尋ねてみましたが、「そう言えばそのようなものがはまっていた事は思い出しましたが、それがいつ取り除かれたかは全く記憶がありません。きっと、戦況が悪くなった頃に、金属は兵器へと変えられたものですから、その頃に取り除かれ、提供されたのでは無いでしょうか」との事でした。また、これも加えて落成記念帖をよく目を凝らして見ると、本館は少なくともタイル張りが成されていた事が確認出来ます。これについても同様、記憶に無いと言われ、また京都府教育委員会でもその記録は無いとの事。「恐らく、戦争中に取り除かれたのでは」とは不確かな情報として聞きました。

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(↑本館中央の講堂バルコニーの内側には、恐らく当時のままの白タイルが剥がされずに残っている。)

現在も校舎の特に3階柱部分には、空襲を避けるための「墨塗り」の跡が、実は広範囲で残っています。

「戦争も末期の頃には、私達の着ていた制服のブラウスでさえ、上空からの攻撃から目立たないようにするために、グレーに染められたんですよ」。そう、以前インタビューさせていただいた府一時代の方はおっしゃっていました。

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今一度沿革史に目をやると、当時この学校校舎を新築するに至り、京都府立京都第一高等所学校の同窓会組織である「鴨沂会」が、卒業生としてどれほど、この学校運営に際してご尽力を注がれていたのかを垣間みる事が出来ます。

現存する木造校舎遺構である通称「和室」に至れば全額、鴨沂会からの寄付によって実現されたもの、また、ほぼ毎年に渡って多額の寄付を、この学校に対して行っており、その金額も1度につき3000円(現在の貨幣価値ではおおよそ3000万円程)と、大変な金額である事が記録として残されています。

つまり、これが示す事とは、この学校建築が、決して府行政による力だけでは成立されておらず、ご父兄や卒業生のお力があってこそ、こうしてその時代の中で設立されたと言っても、これは過言では無いでしょう。当時の学校側としても、この同窓会組織である「鴨沂会」を他の婦人団体とは学力・品位と共に異なる模範的団体であると位置づけ、その優良なる婦人団体にふさわしい行動として母校発展の呼びかけを行っていたとされ、そうした要求は、同窓会本部から各会員らに発信され、多額の寄付を徴収することにより「高等科」「京都府立女子専門学校」「鴨沂会館」「室内温水プール」などが次々と設立されたという記録が残っています。

このように、多くの方々からの支えによって、華々しくも時代の最先端をいく高等女学校ではありましたが、いよいよの戦火迫り来る時代の中、その志高い教育内容は、徐々に時の情勢によって変化を辿ってゆきます。

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(↑鴨沂高校が所蔵する絵画の内のひとつで、タイトルは「女紅場之創始/1877年作」。描かれたのはアーネスト・ウェットン(建築技師でもあった)で前任の英国人夫妻教師の解雇の翌年に教師として長崎から赴任。アーネストは新英語学校で、また妻のエミリーは英語の他に洋裁等も教えた。)

まず昭和11年には、これまで文部省所定標準よりも増加されていた「英語」の授業数が減らされ、国語と家事の時間が増やされました。改正理由としては「風潮として英語科無用論的なるものあり」などとされました。これは英語が敵国語として言われるようになった事への対応に見る事が出来ます。また昭和16年頃から、沿革史には軍需奉仕の文字が登場し、それ以前にも慰問袋作成、廃品回収、軍事講演などといった言葉も、その学校行事の中に見る事が出来ます。同時期には生徒の心身における修練を目的としてこれもまた寄付によって京都府久津川村に農地30000坪を購入し、ここで学校行事の一環として野菜の栽培を行い始めました。昭和19年にはいよいよ軍需奉仕も本格化、1年の1/3は食料増産、または兵器弾薬の生産関係の労務に従事する事になり、この校舎内も勿論、そうした軍需工場と化しました。加えてこの年の2月15日より、学制改革に伴い、「高等女学校においてなるべく幼稚園または保育園の施設をなすべき」と定められ、この校舎でもこの日より校内に常設的保育所を開設、高学年生徒に対する保育訓練の強化と戦力増強に寄与したとされます。(ちなみに、こちらの施設については、後の戦後の共学の際に、「鴨沂会」より鴨沂会館にて引き継がれ、「鴨沂幼稚園」の前身となったのだそうです。)

こうして、恐らくはここに記載した当時の日々については、あまりの時局の出来事に翻弄され、そうした中でも賢明に逞しく生きる女学生や、彼女らと共にあった教職員の方々の証言は積もるばかりであるでしょう。

「満州事変に端を発し、日華事変から大東亜戦争へ拡大していった戦争が教育に及ぼした影響を、母校の歴史の中からも見出す事が出来る。この間の学校行事を見渡せば、必勝祈願神社参拝、◯○隊見送り、慰問文・慰問袋作成、出征軍人遺家族訪問、戦勝祝賀、区葬・慰霊祭等の参列、軍事・時局関係の講演聴講・映画鑑賞、学徒勤労動員や浜詰・久津川農場での勤労奉仕や縫成作業など、学業より戦時下の強化生活を主とした学校教育であった」とは、昭和20年の終戦における沿革史に記載されています。

 

◎そして新制の男女共学時代を迎えて

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昭和23年の3月。京都府立第一高等女学校における最後の卒業生が卒業式を迎え、その年の4月より、高校三原則(男女共学制・小学区制・総合制を指す。戦後教育改革によるもので、もとは米国教育使節団報告書に基づいた改革であった)を基にした新制高等学校が発足。10月には京都府立鴨沂高等学校が誕生し、史上初の男女共学が実現されました。

一体、当時はどのようにして、この改革は当事者側に受け止められたのでしょうか。果たして混乱などは無かったのでしょうか。その後我々の頃まで繋がる学校改革は、おおよそ高校三原則賞賛のもと、語り継がれました。一方、この頃の事が分かる、わずかに当方が入手した限りの資料では、「新学制(6・3・3制)を実現するには旧制中学や高等学校を統合して再編成し、そのいくつかの校舎を新制中学に使用するという事に対し、各中学、女学校の生徒達は反対し、生徒会を開き代表を集めて反対運動を起こした」「府一では男女共学反対の署名運動をしていましたよ。四条河原町でそれに出会った事が当時あった。」と書かれています。

また、当時在校された方(男性)の記述によると、「昭和23年3月で旧制中学、女学校はなくなり、同年5月に現在の鴨沂校地に洛北高校が誕生、旧制中学は自動的に高校へ編入学された。同時に同じ建物の中に府一と嵯峨野高女が合併して鴨沂高校が誕生した。この同居した二つの学校は午前中は鴨沂高校生が、午後からは洛北高校生が同じ机を使うという、2部制授業で発足した。これまで『男女7歳にして席を同じうせず』という教育を受けてきた男の子が、女の子のにおいの残る机で授業を受けるのであるから、嬉しいやら、照れくさいやら・・・(中略)、と同時に男子生徒の自己顕示欲か、今まで綺麗に使われていた女学校の建物は、戦後の遺物である木銃によってボカスカ穴は開けられ、半年もたたぬまに見る影も無く破れ校舎になってしまった・・・」と当時の思い出が記されています。

また、当時の府一から共学時代に至る頃に在学されていた方に向けて当方らが行ったインタビューでは、「これまで私たちが大切に大切にしてきた、毎日磨き上げてきた校舎が、いきなり男女共学になって二足制も無くなり、あんなにピカピカだった廊下も階段も、それから防音効果のために張られていた柔らかいコルクのような壁も、みるみるボコボコにされてしまった。どれほどショックだったか・・・。講堂の屋根裏を探検家気取りで登った男子生徒が落っこちて、講堂の天井も穴が空くなんてことも。本当に、その変わりゆく校舎の姿を見て悲しくなったものです。」とおっしゃっておられました。

また、終戦の翌年に府一に入学し、卒業期には鴨沂高校となっていた頃の方からは「当時はGHQが押し進めた高校三原則に反対し、今の山城で京都の学生の決起集会があり、そこに私も出席しました。勿論そこには女学生ばかりでなく、男子学生も大勢集まっていて、また保護者の方も多くおられました。私たちはその集会で決議をし、GHQに陳情をしたんです。けれど、当時のGHQにもの申すなどもってのほか。そんな事を言うなら、君らの学校は潰すまでと突き返され、もうそれで泣く泣く終わってしまったんです」というお話も聞きました。

この時代の転換期における、同窓生である大先輩方のご心中はいかばかりかとは、今や察する事もなかなか出来ません。

発足当時の鴨沂高校は主として成立の経緯に見るように旧府一と旧一中出身の生徒が多くを占めて居り、教員においてもそのまま両校から残った方も多く、この事によって、双方ともに戦前には入試が最も難しい学校であったため、それぞれの学生には基より自主性が備わっていたとされ、また大学合格率は極めて高い名門校と謳われた事は勿論、その後に至る「自由な校風」も、このような状況から生まれたのではないかと言われています。

学生数は、当時府一がこの校舎を使用していた頃には約1500人、そこに新制高校となって2700人の生徒がこの学校校舎にひしめき合う事になりました。ちなみに、「京都府立京都第一高等女学校」から「京都府立鴨沂高等学校」へと名称が変更されたその由来には、すでに組織されていた府一の同窓会である「鴨沂会」からが由来であるとされています。

ともあれ、この発足の年である6月頃より、自治会や各部活動を通して両校生は次第に交流を深め、親睦会として演劇や舞踏、合唱や器楽などを行い、加えて洛北高校(旧一中)による「仰げば尊し」(当時学校にあった資材等を利用し、教師を山車で担いだとされる、まさに『仰げば尊し我が師の恩』が名前の由来。)が、その後の鴨沂高校の、現在に至るまで続く伝統行事の礎としてこの頃より築かれ始めました。

現在では1年生はドミノ制作(かつては合唱コンクール)、2年生は演劇コンクール、3年生は「仰げば尊し」パレードという伝統行事は、これら親睦会がそのルーツであったという事になります。

この頃には数度に渡る教育改革の荒波に晒されるも、鴨沂高校は再編成や分封、また受け入れを重ねて形作られ、学生活動もまた、勉学も、そして部活動にも力の入った、戦後昭和における大変活動的な学校へと育まれてゆきました。

恐らく、この頃から以降の記憶については、多くのこの学校を母校とされるそれぞれの年代における証言として、まだ多くの生きたる証言者である大先輩の皆様によって、語り継がれてゆく事でしょう。

 

◎鴨沂高校本館校舎の今後の改築プラン。

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現在、プロポーザルコンペによって選定された業者の素案によると、コの字型である事もその大きな特徴とされる本館校舎については、中央部の両階段室から中央を残し、両腕であった教室部分は全面解体というプランの基、設計計画が進められています。

動線、非常時の際の避難路に対する細やかな計算、特に校舎各部の出入り口付近には強固な構造が施され、また天井についても耐爆対策が成されたであろうとされる頑丈な校舎には、およそ10年前に成された耐震診断にて恐るべく脆さを示す「IS値0.16」という数値レッテルを全体として貼られた事に、これら一連の校舎の解体計画はその基盤を成しています。

「校舎はいずれの場所の数値も、例え補強を成しても耐震性が図れず、よって全面解体」という方向は、この校舎整備計画が発表された後も長く主張された次第にて、例え「意匠性が高いとされる中央部分であっても、校舎の耐震化は図れない。部分保存は一体構造なので出来ない。またそれをしようものなら5倍の予算がかかる。」とは、中央部分ですらも残せないと主張を繰り返した当時の京都府教育委員会・管理課による指針でありました。

その後、2013年7月6日の地元・京都新聞にて、専門家による校舎群の文化財的価値に対し、保存を提言していた報告書「京都府立鴨沂高等学校既存建築報告書」(本文全51ページ/写真及び図面など含め全150ページ超)を、京都府教育委員会・管理課からの依頼にて提出していたにも関わらず、およそ1年に渡り議会並びに教育委員会にも一切公表せず、解体改築方針を進めていた事が記事として掲載された事を受けるも、改修は重ねて否定。大きく世間から批判を浴び、反対運動も起こり、またテレビ報道も受け、現在に至ります。
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その後はこれら指摘を受けた形であるのか、プロポーザルコンペに向けた業者選定の為の基本設計コンセプトを固めるべく、校舎保存に対する要望書を提出した日本建築学会近畿支部及び「鴨沂高校の校舎を考える会」出席のもと、外部有識者とされる専門家が2名、鴨沂高校校長でその1年前までは府教委高校教育課長、また校舎解体反対への歯止めを行うべく解体推進の要望書を提出した鴨沂高校同窓会全期の会長、教育委員委員会役員らによる委員主導の基で「意見聴取会議」と銘打つ会議を3回に渡り開催され、その後、6社参加のプロポーザルコンペに至り、委員によって決定された、その内の1社である「梓設計」が選定業者となりました。ちなみに、各委員については公正かつ公平性を欠いているのはこれらの立場の方々の主張や立場を見れば明白にて、勿論、3度に渡る聴取会議では、校長並びに同窓会長より、再三に渡り校舎解体を推進される意見が飛び交いました。

意見聴取会議では加えて何度も、「これは設計計画内容を決めるのでは無く、あくまでもノウハウのある業者を選ぶだけであり、その後は市民も卒業生も在校生、教員も参加のワークショップを行い、新しい校舎の在り方をみんなで考えましょう」などと言われ続けるも、業者決定後にはすばやく、2013年12月よりすでに4回に渡り開催されたワークショップでは、事後報告の告知がサイト掲載されるも、参加権は僅かな鴨沂高校在校生及び教員、そしてPTA役員のみ。勿論、傍聴も出来ない密室状態で行われるワークショップにも、公平性と民主性を感じる事は全く出来ません。

そのような中、この高貴であった筈の貴重な文化財は、いまや解体の危機に晒されているという次第です。

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何故、これらの貴重な文化財の有る無しを考える時、設計プランを議論する場において、近代建築の専門家や、建築構造の専門家の同席も果たされず、この校舎の今後の在り方について、有機的な議論の場が成されないというのでしょう。本当に、この校舎を中央部を残して後の全てを解体する意味と、その意義とはどこにあるのでしょう。構造の専門家から、大いなる可能性について、議論される事は必要無いのでしょうか。また、この構造体の中でもとりわけ貴重とされる建築意匠は「こう残すべきである」という指針を、専門家から発言される事は果たされないのでしょうか。

戦前には我が国でも貴重とされた女子教育の最先端の場であり、多くの卒業生とその同窓会組織である婦人団体より多大な寄付を受け、誇りとされ、また大切にされたこの校舎。戦後には国の方針転換に大きく翻弄され共学になるも、その悠然たる環境を伸びやかに育ち、自由を謳歌し、また巣立っていった多くの学生を輩出したこの学校校舎。再びには現在、学校改革の思惑に翻弄され、校舎は極めて脆弱だとされるレッテルを貼られ、壊されようとする学校校舎。
また、本校舎の耐震診断を行ったのは約10年程前の診断を元にしており、その診断自体に本当に問題が無かったのかを当「鴨沂高校の校舎を考える会」にて当時の診断結果等資料を情報開示し、建築構造の研究家チームに再診断を依頼すると、①校舎を3分割して耐震診断を行っているが、一体計算された形跡が無く、コの字である校舎構造から全体での耐震診断がなされていない。②特に南側教室棟側の耐震数値にソフトでの計算に数値的誤りが認められる③コンクリート強度については再三に渡り強度数値を下げるよう検討がなされた議事録があり、最終的に出された数値には、目視で見ても明らかに強度の過剰な老朽化のレッテルが張られている④校舎を昭和40年代に改修した際、北側に存在した生徒出入り口及び雨天体操場を撤去した際、校舎接合部分の補強が充分で無く、耐震数値が逃がされている状態にある。その個所を耐震補強するなどし、校舎耐震数値を現在の法律上にのっとった補強改修は解体工事費と比較すると大変安価な工事費用で行う事が出来る筈〜等、当初結論づけされていたシナリオとはあまりに相違しており、また疑問点が多く、本当に当初から言われていた、震度4程度の地震で倒壊する危険があるような校舎とは思えない、つまり疑念を生じ得ない意見を頂いており、その点について、セカンドオピニオンならぬサードオピニオンを受ける必要があるのではと、この歴史文化的価値の高い建造物について、更なる調査が成されるべきであると考えています。

ともあれ。今もまだ、我々の目の前に当時を語れる程の風格をもって、この地に力強く鎮座している姿を見れば、例え専門家では無くとも皮膚感にてその脆弱を疑う想いが募って来るのは、決して一個人の意見では無いように思えてなりません。

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(↑正門側の桜から、本館校舎を望む。)

歴史とイデオロギーに左右された鴨沂高校

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(↑『学校より家庭へ』に掲載されているヒマラヤ杉の若木。昭和12年6月号より)

鴨沂高校の通称「ウィーンの森」には、たくさんの樹木の中でひときわ存在感のある1本の「ヒマラヤ杉」が、その中庭ですっくと伸びています。
このヒマラヤ杉は、昭和12年、当時の府一に通われていた久邇宮恭仁子女王殿下がご卒業の際に記念植樹されたという事が、昭和12年6月11日発行の「学校より家庭へ」の記事によって分かりました。そう言えば、当時の府一ご出身の方より、「校内のお庭の石垣は、私たちがみんなで鴨川から拾って運んだ石で囲いを作ったのよ」とお話されていたので、この写真にあるように、周囲の石は、女学生らが鴨川から運び込んだ石囲いなのでしょう。まだまだ若木のヒマラヤ杉の周辺は、石で囲まれているのが分かると思います。が、このヒマラヤ杉が、戦前に宮様がお手植えされたという事は、我々卒業生は全く知らない事実でした。口伝された事も無く、また、よく観光地などで「皇族が記念植樹された」という看板のようなものも、この樹木の側には備わっていなかったからです。が、今一度この古い写真をよく見ると、ヒマラヤ杉の右手側に、三角の石が備わっているのが分かると思います。恐らく、この石碑には、何らかの文字が書かれていたでしょう。恐らくは記念植樹とか、久邇宮様とか、年号とか、そういった文字情報が、刻まれていたのでは無いかと思われます。

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一方、現在の新体育館の脇に転がっているというか、後にコンクリートで敷き詰められた庭の隅っこに半分埋まったようになった姿の石碑があります。この石碑には、読み取れる文字として「昭和12年 卒業記念」という文字が見られ、その文字の頭一行が、意図的に削られた形跡が見られます。
我々は勿論、専門家では無いので、この石碑があのヒマラヤ杉の横に備わっていた石碑と同一のものであるという断定及び解明が出来る能力を持ち得てはいません。しかしながら、少なくともヒマラヤ杉が「皇族のお手植えによるものであったという事実は戦後一切伝えられておらず」、またこの石碑については「戦後、不都合な文言が記載されていたことにより意図的に削られたのでは無いか」という事は、事実であろうと考えられます。
「戦前と戦後では、これまで良しとされていた事が駄目とされ、駄目とされていたものが良しとされた。つまり物事の価値観が1日にしていっぺんでひっくり返ってしまった。最後の府一入学者の私でさえ、例えば図書館や和室が寄付によって建てられた事も、お茶室が裏千家お家元による寄付で改修された事も、勿論ヒマラヤ杉が宮様お手植えであった事も・・・それら全て、府一の事を知る事は無かった。府一から鴨沂高校になっても残られた先生方も多くおられたし、また府一を卒業して鴨沂高校の教師になられた方も何人かおられたけれど、それら昔の府一を知る先生方も、そういった事実をとてもじゃないけれど言えるような空気では無かったと思う。」
「そう言えば、府一を長くおられた最後の鈴木校長も、戦後まだ定年退職の前に、すっとおられなくなった事、戦争協力者のようなレッテルを貼られておられたんじゃないか、少なくとも先生のお別れ会なども無くて、子供ながらになんとも言えない気持ちだった」と、当時を知る方から教えて頂きました。
この学校の歴史を自身のイデオロギーなど一切排除し、またそれらイデオロギーに左右されていない歴史に公平な記述の資料を読みふけるたび、実際にはこの学校が、どれほどの時代や情勢の中での、それこそイデオロギーで、特に戦後はいかに左右され、隠蔽され、また時に歪曲され、伝えられてきた事が多くあったかと言う事が、よく分かってきました。また時には、その主張をされる側によって、事実があやふやにされ、また消滅されてきたかという事も、よく分かってきました。
戦後。京都府立京都第一高等女学校から、京都府立鴨沂高等学校と変わり、この学校では「自由」と「平和」と「平等」がたからかに謳われ、それらは熱心に、教育の中で育まれました。戦前戦中の反省と共に、それら理念は語られ、受け継がれ、まさに鴨沂高校の外郭を成したと思います。ところがその理念は時に、理想化され、その外郭だけが一人歩きし、過去の中にも評価すべき点の検証も正しく成されず、または客観性に欠いた評価や思想が、どうやら内部側からも視点としてありえたのでは無いかと、それは例えばこの校舎やそれにまつわる歴史への公平な評価や真実を真摯に受け止めるといった行為の欠如により、つまり「大切にしなかった」という方向性により、過度な老朽化を招いてしまったとも、言え無くはないでしょうか。
鴨沂高校は、前身である女学校時代から数えれば約140年の歴史となり、そのあまりにも長く深い歴史を、我々のような専門家でも無い若輩者に語れるには、そう容易では無く、またこれまで知らずに居たその長い歴史の細部については、調べるにはあまりの時間が足りなさ過ぎます。
そのような曖昧な中、確かに言える事があるとすれば、この学校の歴史と歩みについては、まだまだ解明や検証に時間を要し、客観的な評価を下したりするには、例えば近代史遺産であったり、文化遺産であったりとするような、それら研究がしっかりと成されていないという事は言明出来るように思います。
ところが悲しいかな、これら歴史の貴重な語り部たちは、今まさに、正当な認識も不明確なままに周知されず、いずれかの思いによって、この目の前から消し去られようとしているのです。
本来であれば多くを知る筈であった当時の関係者は、年月と共に少なくなり、今はこうした、当時よりこの地で我々を見守ってきた建物や樹木達のみが貴重な語り部です。
私たちは一体、鴨沂高校について、何が語れるでしょう。
この学校は一体、どんなものであったか。
それを失ってのち、はっきりと未来に語り継げる事が出来るでしょうか。

その時々の不都合な事実を、一気に消滅させてしまう。このような繰り返しにて、我々はこの世界であまりにも多くを失ってきたように思います。
鴨沂高校の教育目標には、冒頭で「世界の平和を希望し、すべての人々が幸福になりうる社会を目指して、事実に基づいて真理を追求し、それに従って実践しようと努力する人間をつくる」とあります。
今や正確には、ありました、なのかもしれません。
あの崇高な教育目標は、一体、何を言わんとしていたのでしょう。
戦後、価値観が一変し、元はと言えば与えられた自由のもと、過去の反省をいかし、独自発展を遂げたのであろう「鴨沂の自由」。そのベースとなったのは、その高貴さを持ち合わせた空気感は、しかしながら一体どこから醸し出されたものだったのか。それを紐解くにはあまりにも興味深い学校環境で少なくとも、鴨沂高校はあるには違いがありません。

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(↑2014年2月28日の鴨沂高校にそびえるヒマラヤ杉。校舎側から背景に図書館側より撮影)

参考資料/「京都府立鴨沂高等学校既存建築調査報告書」ー大場修、「母校創立100年記念沿革誌」ー鴨沂会、「花の成立と展開」ー小林善帆、「公立名門女学校の同窓会誌にみる『あるべき女性像』」ー土田陽子、「京都の英学ー京都府女紅場・女学校」ー重久篤太郎、「鴨沂の歩み」ー京都府立鴨沂高等学校旧教職員の会、「旧制中学の系譜 京の人物模様 府立第一高女」昭和55年読賣新聞掲載シリーズ、「学校より家庭へ」ー京都府立京都第一高等女学校。