このままでは解体を免れない校舎の歴史⑤鴨沂高校・北運動場

◎女子教育における、体育振興の歴史と共に

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(↑写真手前左手が清荒神さん。荒神口通りを挟んで左手が本館校舎。そして右手側が北運動場があり、この通りを地下トンネルが繋がっており、本館敷地と運動場が結ばれている。)

京都府立鴨沂高等学校は、現在のその立地には、本館校舎がある南側敷地の他に、北側の通りである荒神口通りを挟んで、北運動場と呼ばれる敷地があります。

この北敷地には独立棟であるプール棟、本館側にある、昭和40年代に建てられた新体育館に対して旧体育館、そして、本館敷地と北運動場を繋ぐ地下道の上屋が存在しています。

北運動場には元々、明治33年頃に幕末公家屋敷であった開校地の九条家敷地から現在地に校舎が移転した際、明治34年に竣工された寄宿舎が存在していました。

日清戦争以降、女子教育に対する関心の高まりと共に、明治32年には高等女学校令が公布され、国による女子教育制度の整備が着手されるようになると、入学志望者募集定員が超過し、前年より初めて、比較試験(今で言う所の入学試験)が行われるようになるなど、順調に入学希望者数を伸ばしてゆきました。そこで更なる教育施設の充実を計るため、現在の校地へと移転されたという事です。

現在の校舎へと改築される際には、明治期に建設された校舎の老朽化という理由が掲げられていますが、一方では当時の全国的な流れとして、大正末期頃より盛んに言われるようになった、女子教育への積極的な体育授業の充実が計られようとしたのでは、と見て取れます。京都府立京都第一高等女学校の創立60周年記念事業の一貫として、在校生や卒業生、ご父兄らより要望され、また寄付金も集められていた図書館建設より先んじて、まずはプール棟、そして体育館、その後本館、最後に図書館の建設という順序を見ても、この高等女学校に体育施設の建設が急務であったのでは、との推察が出来るのです。

1928年のアムステルダム五輪での陸上銀メダリスト・人見絹枝さんの活躍、1932年のロサンゼルス五輪での水泳銀メダリスト・前畑秀子さんの活躍・・・日本人女性選手の世界を舞台にした大活躍も、大きく影響したでしょう。これまで、女子教育の中で運動となれば遊戯の延長でしかないレベルであったものに、本格的な教育面でのてこ入れが成されてゆきました。

大正14年には府一は初めて、東京・明治神宮で開催された全国大会にて、籠球部、庭球部が出場。その後ほぼ毎年、全国大会に選手出場を果たし、昭和7年(1932年)には高等科の女子選手が陸上競技にてオリンピックの出場を果たしています。これらの成果をもって、「従来の知育に加えて体育推奨の方法を講じ、その成果を見るに至る。かくて校運隆々たる中に、創立60周年を記念し祝賀することとなる。」と、当時の沿革史は校舎改築の機会について結んでいます。また、当時の鈴木校長の野心をもって、口癖であった「府一を東洋一の学校に」という言葉の通り、学問も一番、運動も一番を目指し、ただひたすらに遠距離を歩かせる「適応遠足」を取り入れ、また登山で精神力を養わせ、バスケットやバレーボールなどの競技に力を入れ、ついにはオリンピック選手を輩出するなどし、この学校施設を本当の意味で一番の学校へとすべく、奔走されました。

そうして、現在の北運動場は、それまでの寄宿舎を解体して更地とし、運動場として活用すべくスタートを果たしたという事です。

ちなみに、運動場の総敷地面積は約5000㎡。勿論、街中の事ですから、充分な敷地面積とは言えず、女学校時代にも運動会を開催するには毎年、京都植物園にあったグラウンドを借りていたとされます。これはその後の鴨沂高校に至っても運動場の面積不足は問題であり、近く鴨川敷地、または御所内の通称「西運動場」と呼ばれたグラウンド、昭和32年より願い届けが出されていた、京都市北区にある紫野グラウンドの使用をもって、体育授業や部活動、学校行事等を行ってきたのです。

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(↑府一時代における体育祭の様子。運動場が手狭であったため、当時から体育行事は植物園のグラウンドを借りて行われた。球技大会では女学生自らがバスケットゴールを運び出したとされる。)

◎戦後の混乱期の中で

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(↑バスケットボールと並んで、当時は「排球」と呼ばれたバレーボールも、府一では盛んな部活動だった。昭和11年夏の北運動場の様子。)

昭和20年の終戦を迎えた京都府立京都第一高等女学校。

終戦最中の混乱期にあって、 進駐軍であるGHQによる介入は、教育現場にも及びました。そんな中、昭和22年には府一の創立75周年記念の年となり、喰うや喰わずの時世の中、「創立75周年を迎えて記念式典が挙行され、父母の寄付により全校舎に放送設備が設置された。今では公立高校で親がこのような費用を負担するなど考えられないだろうが、親たちは苦しいタケノコ生活の中からこれを負担したのだった。(中略)大宮御所東側にあった西運動場も、記念事業のひとつとして、関係官庁と折衝して作られた。」と、府一から鴨沂高校へと移行された時期にこの学校に在校されていた、元府一ご出身の卒業生の記述があります。

その後、翌年である昭和23年には、府立第一高等女学校、第一中学、嵯峨野高等女学校の3校が合併し、新制高校として発足しました。これは、進駐軍の指令による「高校三原則」、いわゆる「地域制・男女共学制・総合制」という制度に基づいたものでしたが、この発足当時には、勿論大いなる問題や歪み、葛藤があったのではと推察されます。特に元々この校地にて既に学生生活を過ごしていた府一女学生には、「高校再編成の気運が日一日と高まり、生徒にとっては男女共学になるか、通学区がどう設定されるかが一大関心事であった。自由志望で府一に進学した学年では、府下全域さらに隣県から来ていた人もあったから、府一の校舎を去らねばならない事に強い抵抗を覚えるものも多かった。(中略)(先の75周年記念事業での母校への尽力にも関わらず)その結果がほとんど利用もしないままに校舎を去るのだから、その悔しさも分かろうというものである・・・」と、当時の心境が綴られています。

これら、この運動場の手狭さを解消すべくご尽力し、獲得した西運動場でしたが、府一の女学生が満足に使う間も無く、この校舎群ともども、新制高校である鴨沂高校へと移行されました。

そしてその後、この西運動場は、紫野グラウンドの利用が可能となった後、高校側の一方的判断の元、昭和40年に御所側へと返還されてしまったのです。

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(↑鴨沂高校学内にて発行されていた学生による「鴨沂新聞」。昭和40年において、この学校でのグラウンド問題について触れられている記事。)

◎北運動場は戦後しばらく、GHQに占拠されていた

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鴨沂高校3期生による手記に、当時の北運動場の様子が記述されていますので、引用します。

「体育館やプールは占領軍の接収下にあり、北運動場は駐留軍やアメリカンスクールのバスが占拠し、当初は立ち入る事さえはばかれる状態だった。私が所属していたバスケット部は、立派な体育館を目の前にしながら利用出来ないという悲運に見舞われていた。北運動場西側のアウトコートで、体育館に出入りする米兵を横目に見ながら暗闇の中で練習を続けた記憶がある。三高、一中、工繊大のコートも借りたし、雨天体操場も使った。(中略)当時、体育館は、入口左側の階段の所に事務所が作られており、そこにマキューという名前の米軍人が常駐し、数人の日本人雇用者が維持管理に当たっていた。館内は、その時々でいろいろ作り替えられたが、コートの左右に階段状の観覧席がつくられ、ボクシングのリングが設置され、サンドバッグがつり下げられ・・・そこはまさにひとつの別世界だった」。

その後、彼らと接触を重ね、コートの掃除をするという条件なども提示し、非公式で彼らが使わない時間に、これら施設が使えるように交渉をし、また成立させるというのが、当時の鴨沂生の逞しさというべきか。

時に彼らと試合をしたり、交流を重ねつつ、学校の一部が接収され、米軍と同居をするという異常な時期をも、鴨沂生はかかんに自らの成すべき事に対応されたと記憶されています。

「当時、北運動場の温水プールは進駐軍用となっていて、米兵がよく遊びに来た。昼休み、僕らは覚えたての英会話で話しかけ、ジープに乗せてもらって荒神口から出町、寺町と回り得意がった。」とは4期生の記述。

また、3期の方による座談会での発言には、「温水プールに焚く石炭を(GHQが)運んでくるのですが、雨が降った後にテニスコートにダンプが入られるとテニスコートがぐちゃぐちゃになるというので、進駐軍に何とか言って欲しいと言った所、校長先生が申し入れをして下さり、私たちの要求はすぐ実現し、塀の外からダンプの荷台を持ち上げて石炭を落とす事になった」と、当時の鴨沂校長が、進駐軍側にはっきりとモノを申した事の凄さについて、感想を述べられています。

加えて、グラウンドの狭さについては当時から言われている所である事が分かる記述として、「余りにも狭いグランドは一般男子にも不満が大きかったが、運動部には誠に気の毒だった。(中略)立派なプール・体育館があっても、残念なことに進駐軍に接収されてオフリミット。真冬でも派手な水着の米兵を横目にし、敗者の屈辱を感じ入らせたのである。」とは、昭和26年度卒業生。

今やのんびりと、そのような事などはまるで無かったかのように、静かに佇む北運動場の様子。

そこには確かに、高い教育思想の元に築かれ、多くの女学生が心身ともに鍛えた場所であり、また戦後には一時、敗戦国としての困難期を経ても、逞しく全身いっぱいに活動する、当時の鴨沂生の姿がありました。

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(↑地下トンネルを上がると、出入り口建屋が。)

◎地下トンネルは、過去現在を繋ぐ

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明治33年というはるか昔。現在地に校舎が移転された頃から、この地下トンネルは設けられています。

当時の校舎は教室棟と、その北敷地にあった寄宿舎棟はそれぞれに渡り廊下が設けられて居り、上の荒神口通りを土足に履き替えて渡らずとも、この地下トンネルを通れば上履きのままに行き来出来るという事で、開通されたとの事です。

現在も残り、また活用され続けてきた地下トンネル。この道を一体どれほどの学生が、行き来したかと想像すると、なんともロマンのある話に思われます。

専門家にも「道路を挟んだ敷地の連絡用に、このような地下トンネルを設けた事例は全国的にも稀であろう。しかも明治33年の開削以来、今日もなお校地内の重要な通路として使用され続ける地下トンネルは、鴨沂高校にとってその成立事情に関わる不可欠な施設であり、近代化遺産としての価値が高い。しかも個性的なモダニズムデザインによる両地下出入り口がこれに伴うことで、昭和初期の学校建築の意匠性を端的に示す好個の事例としても価値が高い」とされています。

このように、近代建築の専門家から絶賛を浴びる地下トンネル及び出入り口。

この出入り口に関しては、当初は正門以外の全ての校舎の全面解体を方針として打ち出し、校舎の意匠の部分的継承を検討としていた、京都府教育委員会側の提示していた素案ですら、保存される事が決定していました。恐らくは、この建屋については、地下トンネル共々、各方面の専門家による歴史的に貴重であるとの進言があったのではと、推察されます。

ところが、悲しいかな、その特には出入り口の老朽化、及び長年に渡って予算を投入されず朽ち果てるにまかせた姿には、あまりの過去の在校生による落書きが施されているというのが現状です。

老朽化にまかせ、そのままに放置されたのが先か。それとも大事にせず、落書きするにまかせ、老朽化に拍車がかかったのが先か。いずれにせよ、この出入り口がよもや、専門家らの大絶賛を受けるなどとは思われもせず、近代化遺産などと称されるとも思わず、私たち歴代の鴨沂高校卒業生が、この建物を痛めつけてしまったのは歴然たる事実です。そしてその傷の深さ、傷の多さに、これらが更に、その貴重な存在であるという認識を多くの者にとって薄れさせてしまった事。これもまた事実。

この建物については今や、現在の学生らにとって、「グラウンドをせめて広く使えるよう、この出入り口は必要無いのでは」との趣旨の元、必要無しの烙印を押させてしまったのは、根底には勿論、紫野グラウンドを鴨沂高校から無くしてしまう府教委による方針と共に、この運動場に残る全ての歴史物語を鑑みる事無く、その上この建物をむやみに傷つけてしまい、その価値についてはもはや読み取りすら困難にさせてしまった我々卒業生の責任であるようにも思えてなりません。

しかしながら、であるからこそ問いたく思うのは、果たして、この存在の今後の有る無しについて、多くの専門家と、また在校生、そして文化財的価値が認められるのであれば(その市民としての財産という意味でも)多くの市民とで、しっかりと将来について議論が成されなければならないのでは、無いでしょうか。

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無くしてしまうのは一瞬。

例えばこの小さな建屋ひとつをとってみても、その価値を理解せず、朽ち果てるに任せ、またその老朽化に拍車をかけてしまった無邪気な罪を背負ったままでいる私達も勿論、しっかりと過去を反省し、見直しをせねばならないのではという事を、問われている気がしてなりません。

また、鴨沂高校は、その前身である高等女学校の時代においても、グラウンドの狭さについては長年に渡り問題とされ、この北運動場だけでは足りないとの要望のもと、戦前の府一時代には、体育祭は植物園のグラウンドを、また戦後には京都御所内にある敷地を専用運動場として確保する事に尽力し、その後の男女共学時代へと移行した鴨沂高校時代においては、更なるグラウンドの手狭さに対し、府と交渉を重ね、外部グラウンドである「紫野グラウンド」を確保する事に成功したという経緯があります。今後、校舎の再整備にあたっては、紫野グラウンドの廃止と共に、この鴨沂高校の専用グラウンドは現在ある北運動場の更地化により、これをもってグラウンドとするという方針が言われていますが、これは先にも述べたように、女学校時代よりも更に狭い運動場面積によって、体育や部活動、また体育行事を行うという事になります。「質実剛健」や「文武両道」がその校風の根底でもあった鴨沂高校は、今そのエネルギーの比重を、文系へと大きく舵切りされてしまうのでしょうか。

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参考資料/「旧制中学の系譜・京の人物模様・府立第一高女その1~その9」ー昭和55年読賣新聞連載記事、「京都府立鴨沂高等学校既存建築調査報告書」ー大場修、「鴨沂の歩み」ー京都府立鴨沂高等学校旧教職員の会