鴨沂高校の運動場問題は決して、北運動場更地化では解決しない。

<鴨沂高校に不足しているのは運動場面積の問題。それは北運動場の更地化では決して解決しない。>

〜校内誌「鴨沂新聞」に見える、この学校環境問題と歴代鴨沂生の活動について。

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鴨沂高校における運動場面積の不足にともない、長年に渡って学生が抗議活動を行ってきた事が、男女共学時代を迎えて以降昭和40年代後半まで続いた校内新聞「鴨沂新聞」にて読み取る事が出来ます。

以前、当方らによって京都府教育委員会から提示させたグラウンド問題についての資料の中には、この高校におけるグラウンドの取得経緯等が書かれた年表がありますが、そこでは文脈としてはとうてい辿る事の出来ない、長い鴨沂の歴史の中で学生が京都府に対して、また学校側に対して陳情し、要望し、ようやく実現した外部グラウンドの取得の歴史がありました。それは大人側から不条理に奪われ、そして獲得し、また奪われたという繰り返しの歴史でした。

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こうしたグラウンド問題を巡る鴨沂の歴史を辿った時に、今一度浮かぶのは、府教委側のこのたびの校舎解体及び鴨沂高校の外部グラウンドであった紫野グラウンドにおける新設フレックス学園建設についての説明には、これまでの鴨沂におけるグラウンド問題の歴史の歪曲や、ある部分だけを抽出した過大な言い分であった事が浮かび上がります。

「これまで鴨沂高校においては長年に渡って遠隔地グラウンドで在る事が問題であった」

「移動における時間の無駄や安全面において解消すべく、鴨沂高校の専用グラウンドとして北運動場を更地化・整備し、これをもって鴨沂高校の専用グラウンドとする」。

これらの言葉には、以下のグラウンド問題を巡る経緯の中で、紫野グラウンドを廃止し、京都府肝いりのフレックス学園である清明高校を建設するにあたり、自らの都合の良い歴史文脈のみを切り取って、まるで、これらの問題に当時直面していた年代の卒業生らに耳障りのよい言葉のみを抽出し、説明における文言として活用したのではないかと思わせるのは当方らだけでしょうか。

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少なからずこうした鴨沂高校におけるグラウンド問題の歴史ではっきりと分かった事は、長年に渡り鴨沂高校の在校生らが要求してきた事の一番の骨子は、現在の鴨沂高校において不足しているのは運動場面積であってその確保を自らの権利として訴えており、少なからず一度たりとも「北運動場を更地化してそれを運動場とせよ」との要望が出された事は無く、一方では当時はあった西運動場が御所側に返還され、長年の運動によってようやく紫野グラウンドを取得するも今回再び、この専用グラウンドも奪われ、今や初期の鴨沂における運動場面積よりも更に狭い面積に強いられる事になった、加えて、外部グラウンドの提示については果たして実用困難な更に遠隔地の宇治市のグラウンドが提示されるという、しかもそれは果たして恒久的に履行される約束なのかも定かではない、不条理極まりない鴨沂における教育環境が見えるのです。

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こうした歴史を辿って「遠隔地グラウンドしか無かった鴨沂高校」と読み取り、果たして鴨沂高校には今後、「北運動場を更地化して約5000㎡の北運動場が最適な専用運動場である」と結論づけられるのか。

それとも「鴨沂高校は長年に渡ってグラウンド面積の不足が長年の問題」と読み取るかによって、解釈は大きく変わらないか。

校舎改築に至り、本館校舎側に玉突き的にこれまで北運動場側にあった体育館やプールを設置する事で、運動場は勿論、校内の中庭までもがこれまでよりも更に狭くなる今後の鴨沂高校。
このままでは、息の詰まるような余剰空間無しの学校環境になるのは歴史を振り返れば分かる事でしょう。

結論とする所はこれ以上の破壊行為をすみやかにストップし、今後の鴨沂高校において本腰で運動場確保を考えばならないのではないかという事を、こうした鴨沂の歴史を語る学生らの訴えが示しているように思います。

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※各写真記事は画像にクリックすると拡大します。

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↑昭和24年12月19日/鴨沂新聞記事。

この頃は運動会(体育祭)を洛北高校のグラウンドで行った事が記述されている。また、北運動場の面積が狭い事から学生同士の事故が起こった事も記載されている。

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↑昭和29年10月9日/鴨沂新聞記事。

鴨沂高校が府一時代から継続して使っていた御所西側敷地の通称「西運動場」。それまで無償にて鴨沂高校専用運動場として借受していたものを、京都御苑管理事務所側によって観光バス駐車場になるという計画が持ち上がる。これを立命館大学と共に、鴨沂高校の当時の校長が反対の意を表明。京都御苑側としては響宴場跡のグラウンドを鴨沂高校に優先して貸す事を提案。

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↑昭和29年12月4日/鴨沂新聞記事。

鴨沂高校側の反対運動に応じる形で、京都御苑を管轄する当時の厚生省から、「西運動場の観光バス駐車場計画」が一旦白紙撤回される事を告げられる。しかしながら、西運動場側にある仙洞御所の土塀について、鴨沂高校の運動場利用にて損傷に悩む宮内庁の様子も垣間みれる記事内容である。

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↑昭和30年6月30日/鴨沂新聞記事。

鴨沂高校本館敷地側の中庭にて、ひしめき合う学生の様子が伺える記事。
ちなみに、今後の鴨沂高校にはこのような中庭さえも校舎が建設される事で失われてしまう。

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↑昭和31年11月20日/鴨沂新聞記事。

現在も続く球技大会について、開催内容や会場場所が分かる記事。バスケットボールは体育館控所(※恐らくは現在は無き本館校舎側にあった雨天体操場?)並びに北運動場にて、サッカーは御所響宴場跡及び富小路(御所内)にて、軟式テニスは北運動場にて行われた模様。

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↑昭和32年7月10日/鴨沂新聞記事。

鴨沂高校硬式野球部(※当時は軟式野球部もあった)の様子を伝える記事。主には「うなぎの寝床」と言われた御所の西運動場や遠いグラウンドに通って(※場所記載無し)練習場に恵まれない野球部の様子が掲載されている。

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↑昭和32年11月22日/鴨沂新聞記事。

京都府教育委員会に向けて、生徒会幹部やPTAが一丸となって運動場新設を陳情。当時1800人の学生に対して北運動場並びに西運動場、校舎前庭しか無いのは一人当たりの面積が文部省基準に到底満たないとする主旨。

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↑昭和33年1月25日/鴨沂新聞記事。
各部活動にて運動場の不足が指摘されている。運動場誘置が求められている。

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↑昭和33年5月24日/鴨沂新聞記事。

鴨沂高校専用運動場として利用している西運動場において、京都御苑側の土塀がその利用によって文化財に傷がついている事を伝える記事。

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↑昭和33年12月4日/鴨沂新聞記事。

高校生による政治活動を学校側は認めないとする記事と共に、グラウンド問題について、当時の校長と記者会見を行った記事。ここで記述として初めて、旧学芸大運動場(※現在の紫野グラウンドで来年からは新制フレックス学園建設地)誘致問題の話が上がっている。

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↑昭和34年12月25日/鴨沂新聞記事。

鴨沂高校創立からの念願であった運動場問題が、旧学芸大運動場の所管が京都府に移り、立命高校との共同使用にて解決する事を伝える記事。この地を獲得した運動の経緯にも触れられている。この時点ではまだ、遠隔地である事での問題や、跡地の残置建物等の問題は解決されてはいない。

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↑昭和35年5月16日/鴨沂新聞記事。

旧学芸大運動場の整地が手続きの遅れにて使用お預け状態である事を伝える記事。使用形態についても、管理する京都府教育委員会と京都府知事、立命及び鴨沂高校の4者の話し合いはついていない様子。

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↑昭和35年10月11日/鴨沂新聞記事。

旧学芸大運動場の利用がいつ頃になるかという見通しが示されつつある記事。

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↑昭和35年12月14日/鴨沂新聞記事。

京都御苑側の西運動場の使用に制限がかかりそうな事を伝える記事。御所側にボールなどの投入物が多く、野球部や陸上部など、広い面積を本来必要とする運動部について、利用を控えるようにとの主旨が御所側から呼びかけられている。

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↑昭和36年10月5日/鴨沂新聞記事。

旧学芸大運動場における立命との共同使用が決定して2年。今だ進まない整備状況や本当に鴨沂高校がこの地をグラウンドとして利用出来るのかの見通しが立たず、学生幹部会、副校長、教員並びにPTA代表にて京都副知事及び教育長と話し合いを持つことが伝えられた記事。ここでようやく、整備にかかる予算等の具体的な話を導き出された模様。当初、立命による招致運動が鴨沂よりも一足早かった事によって、府教委並びに京都府としては態度を明示しなかった事が伺える。

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加えて、鴨沂新聞として、運動場問題について論説記事を掲載している。当時の校長の対応や、府教委、並びに京都府に対して痛烈に批判している。

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↑昭和37年6月13日/鴨沂新聞記事。

整地され、あとは必要設備が成されるのを待つ運動場問題についての記事。利用に対する具体的な諸問題についても掲げられている。

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↑昭和37年12月14日/鴨沂新聞記事。

校内設備の不備を総括した記事の中に、運動場問題に関しても触れられている。

長年に渡って陳情を続ける中、中だるみ状態も超えてようやく解決の兆しが見えた運動場問題について語られている。昭和32年から5年に渡る運動の成果がここに見られる。

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一方、遠隔地であるグラウンド(※紫野グラウンド)についての諸問題について、諸々に渡って記述されている。

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↑昭和39年12月24日/鴨沂新聞記事。

京都御苑西側にある「西運動場」が、府教委・校長と体育教師一人の立ち会い及び独断にて立ち退きを受理し、御所側に返還された事を伝える記事。

軟式野球部やラグビー部、陸上部等の運動系クラブが被害を受ける。体育授業として御所内の富小路グラウンドを優先的に鴨沂高校が利用出来るという代替案には、授業以外のホームルーム活動や部活動は考慮されない。

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教員の声

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生徒の声。

この件にてPTAが調査に入り、また学生は生徒集会を開く。各教員の意見や学生の意見が示されている。

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↑昭和40年1月30日/鴨沂新聞記事。

校長による学生らへ明かさないままに「西運動場」を御所側に返還する問題について大きく取り上げられている。PTAは調査の上、御所側に交渉を重ね、学生の日常活動に支障が出ないよう運動場確保を訴える。御所側によると「富小路グラウンド」の優先使用権及び使用料を半額にするなどの譲歩案を提示する。そこでこの使用料を学生に経済的負担をかけないようにとする要求運動などを、生徒自治会が行う。

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西運動場の問題に関して、鴨沂新聞として論説を掲載している。学校側の見解と学生側の見解に大きなズレがある事がこの論説で見られる。

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↑昭和42年5月19日/鴨沂新聞記事。
現在の新体育館建設の要望を府教委側に求めている事を伝える記事。

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ちなみに、こちらのA4サイズ1枚にて、上記の鴨沂高校グラウンド問題における経緯が示されているのは、京都府教育委員会・管理課から提出されたものです。

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※以下、平成25年から1年に渡り、現在の鴨沂高校におけるグラウンド問題について、レポートや取り組みを公式サイト上のリンクにて掲載しております。
これで誰でも数字で分かる、鴨沂高校のグラウンド面積から見える問題点。

鴨沂高校専用グラウンドの喪失

このままでは解体を免れない校舎の歴史⑤鴨沂高校・北運動場

情報開示請求で分かった、紫野グラウンドの京都府内所属替えの理由

改築に揺れる 近代の文化遺産 鴨沂高校(動画)

鴨沂高校校舎における公開質問状

京都府知事選に向けた公開質問状

グラウンド問題に関する陳情書

2年越しの遅過ぎる府教委の謝罪。鴨沂高校グラウンド問題。

鴨沂高校グラウンド問題への公開質問状

鴨沂高校グラウンド問題に関する議会録

府議会におけるグラウンド問題に関する答弁シリーズ②

府議会におけるグラウンド問題に関する答弁シリーズ①

学校側及び府教委よりようやく開かれた保護者説明会

保護者説明会における配布資料等

「紫野グラウンドを返してほしい!」鴨沂生の主張(動画)

紫野グラウンドに関する声明文

新設フレックス学園建設に関する記事

知りたい!フレックス学園の紫野グラウンドに建設される理由。

鴨沂高校野球部への根拠無き謎の誹謗中傷文書を座談会検証。