本当に、それは無くしてしまっていいのか。

<ちょっとヨコミチ/目指すは世界文化遺産。>

~鹿児島県にある「異人館」のお話。

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先月も触れました鹿児島に、縁あって再び。

添付写真は、前回お伝えしました市内磯庭園からほど近くにあるこちら「異人館」。正式名称を「旧鹿児島紡績所技師館」と言い、慶応3年(1867年)、日本で最初の洋式紡績工場である鹿児島紡績所の建設と操業指導の為に英国から6人の技師たちを招き、彼等が生活するための宿舎として建てられたものです。

薩英戦争のあと、彼等の身の安全を保障するべく工場はじめこの宿舎にも常に護衛がついていたとの事ですが、幕末の政情に不安を感じた技師達は、3年契約であった所をわずか1年で帰国してしまいます。

その後は大砲製造支配所に、そして明治10年の西南戦争では薩軍負傷兵の仮病院、明治15年には移築され、鹿児島学校、更には中学造士館に、昭和11年には再び現在地へ移築され、戦後には進駐軍の宿舎として接収され、昭和26年に返還後現在に至ります。

昭和37年には国指定の重要文化財に、そして平成25年には国指定史跡となりました。

(資料/鹿児島市教育委員会発行のリーフレットより)

近代史に揺れながら、内部空間や外部意匠も多く失われつつも、こうして現在には重要文化財に指定を受けたこの建物。更に継いでは九州などの広域に渡る「明治日本の産業革命遺産」登録に向けたうちのひとつとして、こちらの施設も挙げられています。

度重なる使用用途の変更についで、2度に渡る移築、鹿児島という土地の毎年のようにおこる風水害の被害も受けながら、この地で現在も大切に残される事の意味は何でしょう。

振り返って鴨沂高校は、女学校から男女共学校になったとは言え、学校施設で在り続けた事はとても幸運な事でした。であるからゆえに昭和初期からの建造物には内部構造に大きな変化も無く、細かな意匠は失いましたが、これまで軀体構造やその施設は現行使用されてここまで多く存在してきました。

戦後の進駐軍による施設の接収には、プール棟及び体育館を接収された歴史が重なります。一方で、鴨沂高校の場合には前身である女学校が「日本で初めての公立女学校」である事について、その歴史の誉れを基盤としてこれまで大切にされ、また労られたとは言い難い、経年劣化以上の老朽化を招いている事で、それは証明されているようにも思います。

勿論、歴史の多くを今後において残してゆくことは困難な事も多くあるかもしれません。そうした過去の歴史と隣り合って生きるには、工夫せねばならない事も多くあるとは思います。

時に、全国の史跡を巡る時、「ここにはかつて、◯◯がありました」というアナウンスや石碑などを見る事があります。それらはかつての風景も面影も存在せず、そうインフォを受けても「へえ」で終わってしまいます。失われた歴史の中には勿論、戦火や災害によって、また個人所有の場合にはやむなく手放さざるを得なかったものも多くあったでしょう。ひとつひとつの事例には、ひとくくりで「残せ残せ」と言えない事情が背景にはあった筈です。ですが一方では、その存在の重要性に全く重きを置かれずに、たやすく人の手によって失ってしまった存在も多く、あったであろうとも思ったりします。

今、鴨沂高校で行われている事は、果たして本当に、数十年後、100年後の未来に対して責任の持てる決断によって成されているのでしょうか。本当に、私たちは決して後悔しないでしょうか。

それらに思いを馳せると、今もって簡単に、答えなど出せないのが正直な思いで、何かとてつもなく軽い判断をしてしまっている事に、自分達も知らぬ間に加担させられているんじゃないかという、そんな不安な思いに至るのです。