山口玄洞という実業家と、鴨沂に残る図書館。

山口玄洞という方を皆さんは知っていますか?

当方は今回、鴨沂の件で色々とお世話になりました大学の先生から初めて教えてもらいました。

山口玄洞は戦前の実業家です。

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1863年(文久3年)、現在の広島県尾道市で医業を営む長男として生まれました。若くして父親が急死したため学業を諦め、家計を支えるために16歳で大阪の洋反物店に丁稚奉公に出ました。その後、事業で大成功を収めて巨万の富を得て、明治37年には多額納税者となり貴族院勅任議員になりましたが、商人が政治に関わる事をよしとしない思いからわずか2年で議員を辞めてしまいます。

その後、日露戦争以降には更に業績を伸ばし、大正6年には56歳で実業家を引退して持病の療養生活を京都の本邸で過ごしながら、信仰にのめり、資産の多くを寄付・寄進に使い、また表千家後援者としても活躍しました。

事業の成功の初期には特に教育関係、また社会事業関係に寄付を重ね、その後の隠居生活では仏教を篤く信仰し、多くの寄進を行いました。生涯に渡る育英や慈善関係の寄付等、当時の金額にして総額7~800万円とも言われて居り、「大正昭和の寄付金王」とも呼ばれています。

この地元京都でも教育関係、あるいはたいへん多くの寺院への寄進を行って寺社関係の存続を守った事で「京都の恩人」とも評されますが、実際、現代にも残る功績を知る人はこの地元京都でも一般にはかなり少ないのでは無いでしょうか。

しかしながら山口玄洞の故郷である広島の尾道では、かつて水不足で悩まされ続けた市民の為の上下水道確保の為の大事業でその予算の大部分の寄付を行った事などから、現在も記念行事や教育の場で、山口氏の名前とその偉業が語られ続けています。

「人は脂汗をしぼって資産を作ったが、自分は血の汗をしぼったのであるから、よもや道楽や名利のために寄付することはできない。ただ、信仰の道に入って、寺院の前途を考えるとき、やむにやまれぬ気持ちから寄進するのだ」と語り、また生前、地元尾道での偉業を称えるべく敬意をはらって銅像を造ろうとする向きがあった際には「銅像はいったん緩急の時には人を殺す材料となる」と言って断ったのだそうです。

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座右の銘は「明明徳」。設立の際には山口氏の篤志により始まった、大正9年に開校した現在の尾道南高校には、山口氏の書が今も掲げられています。これは中国の古典「大学」の一部を引用したもので、「明徳を明らかにすること」「徳を明らかにすること」という意味があり、「しばしばかすみ、隠れがちな明徳を明徳であらしめようとするのが人の道、人の行い、また学問でならなければならない」、「偏らず不正がない人間として、立派な行動を自分の中ではっきりとさせていく」という真意が込められています。

さて、ここで何故、山口玄洞という人物を取り上げるに至ったのかというのには勿論、訳があります。それは、我々の鴨沂高校にも関わりのある事が分かったからです。

1927年(昭和2年)の事。山口玄洞は鴨沂高校の前身である京都府立京都第一高等女学校の図書館建設に対して1000円の寄付を行っています。

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現在も残り、また今後はもう、図書館としての機能では無く別用途で使われるという方針が、京都府教育委員会により立てられてしまった図書館棟。この建物は、現在改築と改修が進められている校舎本館や、既に解体されてしまったプール棟や体育館よりも先に、これらが昭和初期には木造建家であった頃、女学校卒業生や保護者らが何よりも先にと図書館建設を願い、寄付を募った結果、蔵書に至るまで全額寄付によって建てられたものでした。これには無数の関係者が関わりをもって建設が叶いましたが、その無数の有志の中に、このような著名な人物も存在していた事がこのたび分かったのです。

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一体、山口玄洞が何故、府一の図書館建設のための寄付を行ったのか、そして一体どのような経緯をもって寄付をお願いしたのかは現在の所分かってはいません。けれど、鴨沂の図書館が建つ寺町通りには、ほんのご近所並びに山口玄洞に関連する建物がありました。それは現在、京都市歴史資料館として土地は転用され、残念ながら当時の建物は残っておらず、僅かに山口玄洞の名前が刻まれた石碑が傍らに残る「旧・山口仏教会館」(1923年/武田五一設計)です。こちらの建物は元々、仏教普及のために建設されたもので、戦後は映画館として使われました。また、これもご近所と言って良いでしょう、京都府立病院の裏手には、山口氏の本邸である「旧山口玄洞邸」(こちらも武田五一設計)が現在も残っています。この建物は戦後、進駐軍に接収された後にカナダ人が買い取り、現在はドミニコ修道会聖トマス学院となっています。

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いずれも、これほどまでに近くに山口氏の存在を知る事が出来た筈のものを、私たちは全く、感じないままにこれまで過ごしてきたという訳です。

残念ながら、1937年(昭和12年)に、山口玄洞はその生涯を本邸にて終えました。府一のプール棟、体育館、そして本館と先に建てられた事で竣工の順番が狂ってしまった図書館棟は、その1年後に建てられたという訳です。

あまりにも多くの時間の経過や、戦前と戦後で大きくものの価値や捉え方が変わってしまった現代にあって、多く忘れられ、また埋もれてしまった貴重なもの、また人々の思いというものも多くあった事でしょう。けれども、その本質や根源となる心というものは、決して変わるべきでは無いように感じます。

例えば、生前の山口玄洞という人が残した言葉にも、色々と考えさせられるものがあるように思います。

私たち現代人が、せめて今一度その思いを読み取り、また大切にする事で、次へと伝え、教えられる事は無いでしょうか。

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(参考資料/「安井楢次郎と山口玄洞」日本建築学会近畿支部研究報告集 「山口玄洞のことどもと公共奉仕」大阪大学史記要 「山口玄洞という人」奈良文化財研究所 「山口玄洞が尾道の人々に残したものは?~尾道市の発展に尽くした思い」中村恵 「武田五一」東京文化財研究所)

注/肖像写真並びに書については、フリー画像より転用しております。