投稿者「鴨沂校舎を考える会」のアーカイブ

朝日新聞記事。

記事情報及びFBページ「鴨沂高校の図書館」さんレポートを以下の通りシェア。
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 103日付け朝日新聞朝刊の26面に、「学校の跡地 遺跡の目覚め 鴨沂高 江戸時代の瓦破片続々と」という記事が掲載されました。この記事には誤報があります。「この敷地には(中略)法成寺跡があるとされる」とありますが、「この敷地」が明示されていません。記事の前後を見ると、1年生が発掘体験をおこなった場所と読めます。発掘体験は本校舎の南敷地でおこなわれました。残念ながらこの場所から法成寺の跡地は出てきていません。これは誤報です。

 「法成寺跡があるとされている」のは、鴨沂高校本校舎の北運動場です。南敷地とは距離があり、教育委員会管理課も、「南敷地」「北敷地」として表現を分けています。この記者は、言葉の使い方が乱暴です。「南敷地」と「北敷地」を意図的に混同したのであれば、捏造です。

 北運動場は、プールや旧体育館を解体後、運動場として整備されました。その際に、防球ネットを建てる場所だけ、発掘調査がおこなわれました。817日に鴨沂高校でおこなわれた発掘の現地説明会にて、現場の調査員から北運動場で法成寺のものと思われる緑釉瓦が出てきたと聞いています。南敷地から法成寺跡が出てこなかったのも確認済みです。

当日の状況レポートはこちら

http://ameblo.jp/ja094070/entry-11911288220.html

 新聞には、よく「○○長」のコメントが載ります。行政の顔も立ちますし、楽にコメントが取れます。肩書きがあれば記事の見栄えもいいでしょう。何もしてなくても、仕事をした気になります。しかし、こうしたコメントは大体がテンプレートであり、面白みに欠けます。現場の話を聞く努力を怠り、行政の肩書きに頼っているようではまだまだです。67月におこなわれた行事を今になって掲載する意図も気になります。

卒業生インタビュー/演出家・蜂巣もも

鴨沂高校2007年卒。現在は東京在住にて芸術監督・平田オリザと青年団が運営する「こまばアゴラ演劇学校無隣館」に在籍し、演出家として活動している蜂巣ももさんより、鴨沂と、自身との記憶を綴っていただきました。以下、その記述を。

 

こんにちは。東京で演劇の演出家をやっている蜂巣と申します。

京都で生まれ育ち、24歳のときに東京へ上京しました。わたしが鴨沂高校を卒業したのは7年前。高校時代にクラブ活動で演劇部に所属して以来、わたしはずっと演劇を続けています。それから多くのことを経験し、住む場所も変わったのですが、高校時代のほんの一部分はまだわたしの中で色褪せていません。ひとりの学生だったわたしが、毎日あの校舎で繰り返し過ごし、見ていた風景を点々と書いてみたいと思います。もしかしたら卒業生みなが見たことのある風景ではないかと思いながら。

鴨川を自転車で下って、鴨沂まで来る。

裏門。わたしは毎日、裏門クラブボックスの前に自転車をとめていた。朝早く来ることが多かったから、自転車をとめるのは容易い。地面のコンクリートブロックをガコガコいわせながら、帰りに自転車が引き出しやすい、いつもの場所にスタンドを立てる。

ボックスから教室に向かって、校舎裏手を歩く。いろんなペンキで塗装した個性豊かなボックスが続く中、なぜか自転車部のボックスはちょっと雰囲気が違った。コンクリートで暗い。中に入ったことはない。もっと先に行くとまた赤とか黄色に塗ったボックスが続いていって、ぽつんと茶室があるのが見えてくる。あれはどうやら文化財的に大事らしいけど、外からは普通の家やなと思う。長く続くガラス窓にわたしの姿が写って、ちょっと髪型を気にして触って、恥ずかしくなって、さくさく過ぎる。

校舎入り口。生物室の前の階段は不思議なかたちだった。すこし孤を描いている。モダン。校舎内全てに漂う油引きの匂いが始まってきた。それから生物室の匂い。延々と教室の続く気配。

少し、はあ、と憂鬱になる。なんでだったか忘れてしまった。なぜ?生徒の気配?授業?……

6組まであるホームルーム。それぞれ特色の違う教室。授業のクラスとホームルームは違う。授業のクラスは居心地が良いけれど、ホームルームは3年間ずっと苦手だった。わたしと違う趣向の人たちが居る。わたしも、その人たちも、互いに仲良くならない気配を感じている。…本当かな、もしかしたら話しかければ広がるのかもしれない……

お互いに嫌な干渉はしなかった。仲良しグループ・派閥も意固地に作らなくてよかった。楽しい人と好きなように居たらいいと提示しているような気持ち。それでも、なにかが苦手なのは3年間変わらない。

高音ソプラノの校歌がスピーカーから流れ始める。じっと机で待つ。わたしはそういう生徒。校歌のあとチャイムが鳴って、何人もの先生が授業のために廊下を通り過ぎていく。好きな先生がいたら手を振る。数学の先生が入ってくる。あるいは英語の先生。あるいは化学の先生 …

たぶんいろんな考えの人が居ると思うけど、わたしは授業が好きだった。新しいものを知る、聞くということがとても好きで、また先生の専門分野を語る呼吸を感じるのも好きだった。教える、ってそんなに簡単なことじゃないと最近よく思う。生徒の興味を一時間、引き続けなくちゃならない。鴨沂の先生たちはかなり変わっていた。中学時代は、先生の授業の様子や日常は、わたしたち自身とともに居るような感覚がなく、形式、常識を伝えるようなカチコチな関係だった。わたしたち生徒はそこに偶然居て、数年後通り過ぎていくだけでしかなかった。

だけどわたしが居たころの鴨沂には、なんだか「にゅるにゅる」した先生が多かった。話しかけたら想像以上の個性で返答する人たち。その特殊さを生徒は楽しみながらも、かなり明確に自覚していて、奇妙な学校に居るのだとステイタスを感じていた。先生たちが楽しそうに個性的に生きていて、わたしたちはなぜ小さな世界で不自由に縛られ、生きなくちゃならない?それはとても分かりやすい、自由のあり方だった。けして昔の鴨沂にあった生徒主体とかイデオロギーなどではない。呼吸が楽に出来ること。自分を認めること。

だけど鴨沂だからといって、やっぱり全てが自由なわけではない。受験という、もうどうしようもないシステムがあって、差し迫るものがある。その他にもちょくちょくいろんな束縛にぶつかった気がする。わたしは受験のための勉強というのが全く苦手で、あれほど授業が好きで楽しかったのに、少しずつ学校や先生から距離を置いていくことになる。曖昧に自由と自由でないものが交じり合い、気持ちが右往左往する。

また受験とは全く関係のない文化祭には、昔生徒自治が活発だった頃のイベントが形骸化して残り続け、それに拘束されて苦手なクラスルームに居なくちゃならない。なぜそのイベントが必要なのか、本当はよく分からない。やる気のないクラスメイトのため息に耳をそばだて、余計に消極的になっていく教室の空気を背中で感じる。そんな半端な苦しい空気。

授業が終わると演劇部。311教室という講堂の裏の、あまりみんなに知られていないひっそりとした教室に集まって練習を始める。ある寒い日は身体を暖めるために走るぞ。なんて言って、先生に見つからないように校舎の中を全力で走った。放課後の教室に残る鬱々とした人たちや空気を無視して、無視して、また鴬張りの廊下だってなりふり構わず走った。

静かな音楽。知らない男の人の声のアナウンス「5時になりました。…」定時制の時間。全日制のがやがやした空気が、しんと静まっていって、夕方の暗い外とは対称的な蛍光灯の光りが、さっきまで居た教室に灯っている。はやく帰らないと。演劇部は大会に向けて仕事が間に合わない時、クラブボックスで隠れて作業した。たまに先生に叱られて、でも性懲りもなく息をひそめてまた続ける。

卒業後鴨沂が、校舎から、先生から、がらりと変わると聞いたとき、わたしはとても微妙な心地だった。だって、どうしても日本の中の「学校」なんだもん、日本中が進めているシステムがあってそれにうまく乗らなければ、わたしたちは生きていけない。どうやら学校や先生というのは遊び相手ではない。受験のために。受験のために。生徒も、親も、受験のために。……鴨沂にあったいろんな物事は、生徒たちが本当に必要だと思って選択してるものではない。今大事なことなのか、考えたことすらない。いつか崩されると思っていた。形だけ残っているなら崩されてしかるべきだ、とも思っていた。

そうやっていつの間にか曖昧なままに流されながら、校舎がなくなっていく情報を、少し目を伏せながら見ているのだけど、わたしはなんとも言えないもやもやを持ち続けている。なんなの?

次の生徒たちの未来がなくなっていくことへの憤り、とまではちょっとわからない。それよりも自分で卒業後を決めていった3年という月日、苦い思いも良い思いも少しずつ、ゆるやかに時間をかけて過ごしてきた場所、手触り、匂いの記憶さえも蓄積された場所が失われていくことへのがっかりするような疲労感。これはとても個人的なものだし、僅かすぎて目をつぶりやすい。だけど思い出し始めると捨てられない。現にわたしは今でも地元に帰って登下校に使った道を歩くと、いろんなことが次々と思い出されてくる。その中心にある校舎、あれらの風景にもう戻れないというのは、どうにもどうにも悲しくてやりきれない。まだいろんなことへの正解、結果を見つけることなく卒業して、その中途半端な気持ちがまだ残っているというのに。

わたしは今この中途半端な状態を「~していきたい。」というような進歩のあるまとめ方をすることが出来ない。自分にとっての記憶の風景が大事であるとは言えるのだが、次の世代への理念の提示、などでまとめられるものではない。

だからわたしの記憶をありのまま書き起こして、ほかの卒業生や先生たちの言葉を聞きたいと思っている。わたしの書いた風景に異議があればどんどん聞かせてほしい。あのとき何を思っていたのか。本当に忘れ去ってしまったり、美化して終わらせるまえに。

ひとまず、わたしの文章はここで終わらせたいと思います。

<プロフィール/蜂巣 もも>

2007年(平成19年)卒業。(2006年度、平成18年度卒)
1989年(平成元年)京都市生まれ。
高校入学後、演劇部に所属。行ったきり帰って来ないエレベーターを待ち続ける人々を題材にした作品や、ロシアの劇作家アントン・チェーホフの「三人姉妹」というロシア革命期を題材にした作品から着想を得て芝居を作る。

2007年京都造形芸術大学舞台芸術学科に入学し演劇・ダンスを集中的に学び、伊藤キムや寺田みさこらに師事。舞台という嘘の空間で、いかなる人のありようを現し、生きることが出来るかについて向き合う。
卒業後もテーマは変わらず、演出家と名乗り、他者が書いた戯曲を俳優にあてることに興味を持ち活動している。

現在は上京し、平田オリザと青年団が運営する、こまばアゴラ演劇学校無隣館という場に籍を置きながら、年2本のペースで作品を制作中。
Twitter @MomoHachisu

これからはここが、鴨沂の専用グラウンド・・・

<鴨沂史上、女学校時代から数えても初の、北運動場での運動会な体育祭>

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2014年10月2日。

鴨沂高校北運動場にて、女学校時代から数えても初の、体育祭が行われました。

以下、そのレポートをシェア。

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 102日、鴨沂高校で紫野グラウンド廃止後初となる体育祭がおこなわれました。場所は旧体育館とプールを解体した直後の北運動場。実施要綱をご覧ください。具体的な数字があげられているのは、80メートル走のみです。狭い北運動場の中心には、100メートルトラックが引かれています。リレー等はこのトラックでおこなわれました。転倒する人も多く、「土がぱさぱさで砂埃がすごかった」との感想が寄せられました。プールや旧体育館の解体が終わったものの、本格的な運動場としての整備が完了していない事がその原因と考えられます。

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他には、「カーブが急でけが人が続出した」「楽しかったけど、グランドが狭い」との声を聞いています。また、トイレは仮設でした。

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 校舎の解体工事が始まっており、駐輪場がありません。北運動場は狭く、自転車を置く場所も無いため、少し南にある春日小学校跡地を駐輪場として臨時に利用していました。藤井直校長は挨拶で「ここがなければ運動会はできないところだった」「地域の皆さんの協力があったから元春日小に自転車を置かしてもらえた」などと発言しました。藤井直校長は、京都清明高校の企画時に高校教育課課長であり、紫野グラウンドを奪った責任者の一人です。紫野グラウンド廃止の責任を棚に上げています。

春日小学校に関しては、「地域の皆さん」を持ち上げながらも、保護者の方から「朝の時間帯に警備や誘導は一人もいなかった」と聞いています。保護者からの指摘で、午後には3人ほどが誘導していたとの事。

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(体育祭当日の自転車置き場となった春日小学校)

 体育祭には、京都府教育委員会からホワイトカラーの人が数人来ていました。もちろん、体操服ではなくスーツです。校長と北運動場の隅の方で楽しそうに話しているのが目撃されています。さて、この人達は今年の体育祭をどのように見たのでしょうか。

 参考までに、紫野グラウンドで体育祭がおこなわれていた頃のプログラムを掲載します。走ってばかりがいいとは限りませんが、この中に今の北運動場でできる競技はどれだけあるのでしょうか。

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イデオロギーの押しつけは一体どっちだ?

鴨沂高校学生らに学校側のイデオロギーが介入した。その時、鴨沂生は?

~1994年。学生らの記録より。

現在、鴨沂高校におけるこれまでの資料を検証作業を行っています。

そこで見つけたのが、生徒自治会が発行している1994年度版「Our School OHKI」(以下、省略してOSO誌)第18号における記事内容です。

(※ちなみに、「Our School OHKI」とは?ー創刊は1978年4月17日。それまでは生徒自治会が新入生対象のオリエンテーションを目的とした小冊子「学園案内」が刊行されていたが、当年の発行直前に原稿を持った幹部会の一人が突然登校しなくなり、「学園案内」は刊行不可能に。そこで、生徒部に所属していた当時の教員・大江周道先生による発案にて、生徒自治会の実践記録を掲載した学園誌を刊行する事に。背景には「文化の継承発展」の拠り所となるべき実践の記録が極めて少ない事、生徒自治会の存在の薄まっている事があったと言われています。2号からは生徒部と自治会を刊行母体に、11号からは生徒自治会に刊行母体を変更したとされます。鴨沂のあゆみより)

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1994年における毎日新聞朝刊・社会面(全国版)による記事。

ここには、PTAやPTAOB会、府立第一高等女学校同窓会(当時の鴨沂会)の3者によって企画・主催した映画の上映会及び講演会を、鴨沂高校校長がその会場として使用される鴨沂高校・講堂の使用を許可しなかった事が記述されており、その理由を当時の校長が、「(講演及び上映される映画『学校』の)山田洋次監督は政治的な主義主張を鮮明にしており、生徒に与える影響などを考えた」とした事が新聞の全国版にて述べられています。

この件について、学生側の反応はどうだったのでしょう。

当時のOSO誌には、この問題を「鴨沂の自由と掲示板問題」として2ページを裂き、経緯や問題点を記述しています。

(以下、文章引用。)

「PTAやPTAOB会等が年1回の恒例行事として山田洋次監督の映画『学校』の上映・講演会を企画し、事前に学校に校舎内での上映、講演を要求したのにも関わらず、学校長は『山田監督は今年4月の京都府知事選で革新候補を応援した』という理由で、我が校の講堂の使用を断りました。結局、映画上映は見送られ、講演会だけが別の会場で開かれました。このことが上記のように毎日新聞に掲載された事で、3年生の一部から『教育者として取るべき対応であったのか』という疑問の声が上がり、銀座通りに次のような声明文がはり出されました。」

(※銀座通りとはー職員室前の廊下を指し、この掲示板には人への中傷以外には学生の自由な要望や発言内容をはり出す事が出来た。いつの時期からか掲示物には生徒部(学校側)の許可が必要になったとされるが、その変更時期と理由は現在調査中。)

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「これは、我が校の銀座通りにはりだされた声明文なのですが、ここに書かれているような生徒への説明や謝罪は行われることなく、うやむやにされたまま残りました。これを書いた3年生は、記事を書いた毎日新聞の記者や、PTAの会長、それに我が校の学校長とも話し合いをもったそうです。その後、残念ながらこの問題自体にはあまり進展はみられませんでした。しかしこの問題は、鴨沂の自由と関連して、自治会の中で掲示板問題を浮き彫りにしました。なぜなら、声明文が出された時に、3年生が生徒部から許可を求めずに貼り出したために学校長等からクレームがつき、生徒部の(先生の)手によって声明文が剥がされるという事が起こりました。これは、3年生が掲示板のルールを守らずに貼り出したからなのですが、実際問題として生徒が生徒の手で意見を表明する場があってもよいのではないかと考えたのです。銀座通りにある掲示板は、自由に自分の主張をしたいということをみんなに知ってもらえるという鴨沂の自由の象徴の場です。けれども、掲示板に何かものを貼る時は、正式には生徒部のはんこがいります。これは、子供の権利条約や鴨沂の自由で私たちに保障されている意見表明権や表現の自由を侵するものではないかという疑問が残り、この掲示板問題を解決し、生徒の手で掲示板を管理できるように代議会やHR運営委員会に働きかけて新しい規定を作っていきたいと思います」。(1994年度OSO誌より引用)

こうした経緯を見るに、冷静な時を経ても尚、疑問に思われる重大なポイントがあります。それは「鴨沂の自由」以前に、一見すれば鴨沂高校の当時の校長は、監督のイデオロギーに対する懸念を理由に今回の校内における上映会及び講演会の開催地である事を拒否しているとありますが、監督個人のイデオロギーには触れていながら、作品について一切触れていない、という事です。

「監督が革新候補の応援をしている事」を理由とし、「映画」という作品物の上映を拒否するとは、当時、どれほど世間でこの話題が巷に広まったかは謎ですが、現代のようなネット環境にて国内ニュースが瞬時に世界中に配信される時代であれば、一地方革新候補の応援を行ったとされる山田洋次監督という理由であれど、全国的には「男はつらいよ」シリーズで絶大な支持を誇る、文化功労者で文化勲章受章者である監督作品がこうした扱いを受けたというこの問題は、鴨沂高校の内部問題など軽く飛び越えて大変大きな論争を巻き起こしたのでは無いでしょうか?それこそ、表現の自由の侵害です。むしろ、監督よりも当人のイデオロギーを押し付けたのは、当時の校長であると言えるのではないでしょうか。

この問題に対して、当時の鴨沂生や生徒自治会の対応や意見表明は、校長側の押しつけに対して、実に冷静かつストレートに、疑問を投げかけているのにも注目です。

(※山田洋次監督作品「学校」とは?ー1993年公開。松竹創業百周年記念作品。日本テレビ放送網開局40周年記念作品。芸術文化振興基金助成作品にて文部省特選の映画。幅広い年代の生徒が集まる夜間中学校を舞台に、挫折や苦境から立ち上がる人々が描かれている。下敷きになったのは「青春・夜間中学界隈」松崎運之助著。2000年までに全4作が制作された。映画予告編の動画リンクhttps://www.youtube.com/watch?v=XfKTh9l0QMo

しかしながら、「鴨沂の自由」や「学生の知る権利」をないがしろにした、という論点のみで結果的に終わらせてしまったのも、この問題が内部問題で拡散せずに終わってしまった一因かもしれません。学生と校長という、対立した立場でそれぞれに学校問題としてフォーカスし、次の学校側の暴挙であった「この件に関する学生側の声を挙げた掲示物を学校側が排除した」事に対して(勿論、これは問題視する必要がありますが)根本的な問題から視線が反れてしまったというのも、結果の着地点を見出せなかったのかな?とも感じられます。

いずれにせよ、双方ともの立場において、この映画作品について、という視点で語られなかった事も大きいかと思います。

仮に学校側がこの映画作品について「これは高校生には有害作品として判断される」という理由において、作品上映を拒否した、とされるなら一定、校長側の話の整合性はあります。が、もとよりこの映画自体は文部省の特選がついており、PTAや鴨沂会等、学生に見るべきと推奨されての上映企画であった筈です。その推奨された側が仮に「革新系候補を応援した映画監督の作品だから上映したい」という理由であったならば、校長側の主張にもこれまた、一定の話の整合性は見られるでしょう。学校環境に政治思想を持ち込まないとするスタンスであるからという理由にも繋がった筈です。ですが、いずれも今回の問題にはそうした理由や背景はあたりません。

映画とは、監督の独壇場ではありません。シナリオがあって、出演者が居て、それを支える多くの技術スタッフが居て、また配給会社やスポンサーなどが存在して成り立っています。つまり、ひとつの映画に代表されるのは確かに監督の名前かもしれませんが、監督個人のものでも、その思想の結晶でもありません。山田監督が仮に一地方行政の候補者に対して推薦人に名を連ねたとして、この作品自体がその候補者の推薦者となった訳でもありません。ですから、本来であるならば校長側が示した理由はまるで論点として崩壊しており、校内で上映出来ない理由として成立しなかった筈なのです。こうした校長の見解という理由において上映出来ないという事態は決して避けるべきであったし、すでに20年も前の話とはなりますが、見逃してはならない問題だと思います。

当時の校長が一体、本当の理由や背景としてこれを拒否したのかは今や謎。学生に優れた作品を見せたいとするPTAや鴨沂会側の思いを汲む事、また実際に学生に対して鑑賞させる事の素晴らしさを排除してまでも拒否したかった理由は何だったのでしょう。こうした批判を浴びてまで阻止したかったのは一体、誰の方角を向いておられたのでしょう。少なくとも、学生や父兄、また鴨沂を支援してくれている団体の方角でないのはたしかで、牙を向けた先が日本を代表する映画監督であったのも、随分情けない事です。

作品の上映もしかり、その後行われる予定であった講演会ーつまり、山田監督ご本人が登壇されるものであったならば尚、こうした優れた日本を代表する監督の講演を、学生が生で聞く貴重な機会を奪った、とも言えます。仮に山田監督が登壇される事で、校長が気になる監督個人のイデオロギーが存在するのであれば、それは講演会内容について一言、「そうした政治思想の話は学生の前でしないでくれ」と申し入れを事前に行えば良かった話。

が、まず山田監督も鴨沂の講堂にて学生の前で思想煽動など、する訳も無かったでしょう。恐らく、「学校」という映画について、貴重なお話の数々を聞かせてくれた筈だったでしょうから。そして、あの鴨沂の講堂でこうした著名人が講演したというレコードを刻む事が出来なかったのは、結果的には鴨沂の器がしれた形となったでしょう。

そもそも、山田洋次監督はリベラルな思想観を個人として有しておられるのは既に周知の事であり、その事で日本中から非難されている訳でも、また思想弾圧にあって映画が作れない、ドラマが作れない、という脆い立場では無く、それは日本中で大きくその映画等作品物が上映されている事でも証明されています。もちろん、これが成立しているのは作品に対して多くのファンがおられる事であるからにして、この度の鴨沂における上映会及び講演が仮に実現されていたならば、それは決して、「鴨沂は一地方行政立候補者の応援を行った映画監督が講演した」という評価になど決して繋がらず、「鴨沂で日本を代表する映画監督が講演を行った」と評価された筈でした。それがこうした狭い一個人の思想観かなにかで拒絶した事で、一体どれほどの落胆と、あらぬレッテルをむしろ貼ってしまったか・・・

今更ではありますが、むしろ当時の校長に対して、これらの経緯について今何を思うかインタビューしたい所ではあります。

 

↓この記事フィードに対する皆さんのコメント

「知りませんでしたが、今、これとよく似たことがあちこちの自治体で起きてますね。当時の校長には政治的な思想信条はなかったのでしょうか、おそらく革新でない側の思想信条をお持ちだったのでは?鴨沂の自由と正反対の論理です。それこそ山田監督と檀上で対談しましょうとでも持ち掛ければ、正々堂々と議論ができたのではないでしょうか。校長ならそんな提案をしても許されるはず。教育者にふさわしい行動とはいえないと思います。卑怯です。」

「ビックリですね。山田洋次監督が講演に来られるのもビックリなのに、それを訳のわからん理由で拒否!しかも、ちやんとした説明もない…?文部省特選映画ですよ!学生たちの声明文がものすごく冷静ですが、それに対する答えすらできないとは…」

「『学校』という映画がどのような内容なのか知りませんが、もしこれが「男はつらいよ」でも上映禁止だったのでしょうかね?山田洋次氏が某政党支持者であることは有名ですが、その作品には(少なくとも代表作には)政治・思想色はほとんど感じられず、我が国を代表する映画監督であることは周知の事実。文化勲章まで受賞されてるんですよね。知事選云々なんて小さな話にこだわるとは、なんとも情けないですね。」

「この論理でいけば、府立高校の学生は、金閣寺や清水寺、知恩院とかも出入り禁止とか言い出しそうですね。立命とか京大は受験禁止でしょうか。」

「思想云々というよりも、単に知事選対立候補に味方したからという、小さな話なんじゃないですか?知事とか教育長からこんなセコイ指示が下るとも思えないです。校長の独断かな?いわゆる上を見てのゴマすり。上のコメント『京大受験禁止』は面白いですね。(笑)」

「全くどんな人だったか記憶に残ってませんが、監督が特定の政党の支持者だからと云う理由だけで一方的に上映を中止にし、抗議の声明文を剥がして回答なしにうやむやにされたのはよく憶えてます。こんな愚かな人間がいて、それがうちの校長とはと怒りを感じたものです。この写真にある校長室には、寄贈された上村松園の夕暮が飾られているのですが、誰もが見られる所に展示するのではなく、このような場所に、それもいつもはカーテンで隠しておくあたり、狭隘さを示しているようです。教頭もこの絵は億できかないくらいの値段だと自慢してましたっけ…」

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「この事件の後、私は鴨沂高校に転勤していきました。この方は立派な校長でした。この問題では「ちょっと!」と思いますが、旧立命広小路学者と紫野グランドを府立医大と取り合いになり鴨沂高校に紫野グランドを確保してこられたと聴いています。その紫野グランドをいとも簡単に失うものとは違いが際立ちます。」

「私もこの事件の時には他校にいましたが、そこでも演劇の団体鑑賞のパンフレットに山田洋次監督のコメントが掲載されていることを理由に生徒への配布を校長に止められました。私は演劇の推薦文として何が問題なのか明確な返答がなかったのでそのまま配布しましたが、翌年の団体鑑賞の担当からは外されました。多分、校長一人の判断というよりも何らかの外部からの圧力があったのだとその時は感じました。」

 

パブリックスピーチが出来ない高校生の作り方。

「ちょっとヨコミチ。グローバル化を掲げる一方で。」
〜パブリックスピーチが苦手な日本人の作り方?

つい先日頃の事。主にネット上で、女優エマ・ワトソンが行った国連本会議場で行ったスピーチがバッシングを受けているとの話題がありました。内容の賛否はともあれ、以下、いわゆるパブリックスピーチの可能性やその危険性(と言っても、世界にコミットする事自体の危険性では無く、その内容がいかに届くか、届かないかの危険性)について、ハフィントン・ポストで記事がアップされています。また、パブリックスピーチ力がいかに今必要とされているか、という事も述べられています。
http://www.huffingtonpost.jp/takao-hirose/public-speech_b_5894692.html?utm_hp_ref=mostpopular

かつて鴨沂高校では、仰げば尊しパレード、アッセンブリーや校内討論会、また高校生春期討論会などへの参加など、その学校の記録物を紐解くと、盛んな議論がその時代毎に内容を変えて行われています。人前で話す、自分の意見を人に伝える、議論する、社会に起こる様々な問題に関心を持つといった機会が多くありました。
こうした事がいつしか、いやそれは初めからか、京都において教育行政の方向性が変化したからか、これらの活動内容はどうやら「政治的」というくくりで怪訝がられるようになった様ですね。毎度議題に挙るものが、目の上のたんこぶだったのでしょうか?
例えば「京都の高校生春闘」をネット検索すると、かつては府教委や市教委が主催であったものが、現在もどうやら年1回開催されているものの、学校単位の参加では無く、勿論主催も外れているのか、会場も公立高校での開催はNGとなっている様です。
一方、こうした動きに関して反対を掲げる団体サイト(学生運営のサイトでは決して無い模様)なども見ると、その行政批判になるほど、そういう事かとその主張の意味が分かる一方、なんだかその批判の矛先も、また昨今の高校生らがそうした事が苦手となっているのはあたかも、昨今の教育行政の成せた業だ、と言い切るのは、それだけが原因とは、違う気がするなあ、というような心地にもなります。

そもそも、残念なのはこれらかつての京都に、いや日本における高校生らの活動に、結局の所政治レッテルに等しい窮屈なシバリが加圧される事で、本来の、人が人前で自分の意見を言う事やその機会、まとめる能力や発信する能力、その訓練を積む事に、何故ゆえそんなに恐れる事があるんだろう?という事にあると思います。

こうしたほぼアレルギー反応に等しい政治的だ、いやそうではない!の綱引き合戦の間に挟まれ、両者のほぼ遺恨に近い時代遅れの価値観に挟まれ、現代の主役である筈の若者が置いてけぼりになってしまっている、という現状。狭間の若者がこれら両者をいずれもなんとなく嫌煙しているというのは、そうした裏側を察知している若者の探知能力がある意味、正常に働いている、とも言えるのでは無いかとも感じます。

昨今の若者は討論するのが苦手?
昨今の若者は自己主張をするのが苦手?
こうした活動を規制する側は一方でグローバル化を主張し、こうした活動を援護する側は、それは圧力のせいだと打つ。
果たして、そうかもしれませんが、世界各国の若者のパブリックスピーチを見れば、少なからずこうした動きは決して、時代遅れでも無く、また偏屈な政治レッテルを貼られるものでもなんでも無い事が分かります。
いずれにせよ、「パブリックスピーチ」とは日頃の鍛錬が必要で、こうした事は、せっかく、学校という、社会に本格的に出る前の、様々な価値観を持った人間が集う場によって養われても良い筈であり、そうした意味でも鴨沂高校につい近年まで残されていた筈の様々な活動は、これからを生きる彼等にとって、必要な事では無かったのかな?と思える次第。

それとも、日本、とりわけ京都は、未来のリーダーたるべく、意志や意見を持った人間を輩出させたくは無いのでしょうか?
リーダーと言っても、それは一国一城の主から、経営者、組織の長と様々あって、勢いみんながみんな、政治団体のリーダーかなんかになると言う訳ではありませんから、恐れる事など、元来無い筈なのですが・・・。