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2015年春。1/170の卒業生インタビュー。

こちらシリーズ第2回目となります。

今年春に卒業した卒業生は、その3年間の半分を本校舎で、そしてあとの半分を仮校舎で過ごした鴨沂生でした。そして彼らは、戦後の開校期より続いた私服の鴨沂生の、最後の世代となりました。

変わりゆく鴨沂。180度の転換期のちょうど境目をこの学校で過ごした彼等は、そこで一体何を感じていたのか。今年度の卒業生は170人。その中の一人の卒業生に、話を聞かせてもらいました。

「1/170人の卒業生より」

鴨沂では演劇ばかりしていました。鴨沂を選んだ理由も演劇です。中学生の時は鴨沂の校風も知らず、中学の先生に「演劇なら鴨沂が有名」と言われて志望しました。他に理由があるとすれば、第三錦林小学校、岡崎中学校の卒業生ということです。ジュリーと同じルートもいいなと思いました。知ってたのは名前だけでしたけど。

中学生の時にオープンキャンパスへ行って、鴨沂が好きになりました。挨拶で登壇した高校生が仲良く楽しそうに見えたのは今でも覚えています。校舎で好きな場所は、3階の教室です。特に、東側の階段から2,3番目の教室 がお気に入りでした。初めて見て、光や空気、雰囲気がとてもよかったのです。演劇部の入部式もその教室でした。あの場所に鴨沂の全てが詰まっている気がしました。

仮校舎へ移転後も、何度か旧校舎へ入りました。その時、好きだった教室の後ろのロッカーに、じゃがりこやジュースの紙パックがぐしゃっとなった物がたくさん捨てられていました。なぜ捨てられていたかはわかりませんが、これを見たとき、なんかかっこいいと思いました。不良みたいに、はしゃいで、お菓子を食べて、ジュースを飲んでという、いかにも高校生という感じに憧れがあったのかもしれません。その時、写真を撮ったはずですが、スマホの中をいくら探しても出てきません。でも、その光景ははっきり覚えています。

僕は、演劇で全国大会に行きたいと思っていました。2年生の時、先輩に書いてもらった作品「S.」は、全国に行きたかった僕にとって頼もしい武器でした。でもそれは例えるなら「持つところまでトゲトゲが付いてる剣」みたいなものでした。すごくいい作品でしたが、すごく難しかった。読んでも読んでもわからないことばかりで、自分の首を絞めながら走り続けているようなものでした。作者の先輩に対して、挑戦したいとか、超えてやりたいという思いがありました。反骨精神というようなものでしょうか。当時は、演技がうまければいいんだろと思っていました。一度、理由は忘れましたが練習中にぼろかすにされた日、いつものように帰ろうとしていました。でも帰っている途中に悔しくなって、先輩に 「演技論を教えてください」と言いに戻ったことがあります。何かいい答えをもらえると思っていたのですが、「 やりたいことをやればいいのじゃない?」と、予想もしていなかった言葉で跳ね返されてしまいました。今は、越えるとかそういう視点だけで物事を見ることはなくなりました。あの時のやり取りは、考え方が変わるきっかけでした。

先日、他校の高校生らと作った劇団で公演をしました。その時に例の先輩もきてくれました。アンケートに「言葉が70%死んでる」「やっとユーモアというものがわかってきたようですね」と書いてあったのですが、ちゃんと見てくれているんだなと思いました。

3年の時の文化祭では、「鴨沂の自由」、特に私服に関する仰げばアピール文を書きました。正直、制服を着た1、2年生がどういう気持ちで見ていたのかよく わからなかったのですが、アピールの後、2年生が先生に「うちらも私服がいい」と訴えているところを見かけました。一瞬だけ何かが沸いた気がします。 ちょっとは影響してくれたのかな、と嬉しくも思いました。(※1)

僕らの卒業式はあっさり終わりました。校長の祝辞ははっきり覚えていません。「今 の時代は未曾有の大災害が」とか、「前代未聞のなんたら」「常識ではわからない○○」とか言ってたかな。1つだけ覚えていることがあるとすれば、冬の全校集会で聞いたことのある話が使い回されていたということです。卒業式なのだから、書き下ろしというか、オリジナルなものを作ってくれてもいいのにとは思いました。

答辞は4人の代表が考えてくれました。聞いた話ですが、答辞で話すはずだった内容を事前にかなり削除させられたみたいです。例えば、「仰げば尊しができなくなるなど、どんどん鴨沂らしさが失われていきました」「これからも、生徒が中心となって学校を作っていってください」「セパレートの問題などで意見が通らなかった」などを入れる予定だったようですが、副校長に見せたところ、「祝いの席で悪い印象を与えるから駄目」「学校は、管理職がいて、教職員がいて、 生徒がいるから成り立つ」などとして全部削除させられたそうです。 セパレートの問題(※2)では、「一部の人達が反対していただけなので、『意見が通らなかった』というのは全体の答辞としては出せない」と副校長に言われたみたいです。

一部の人だけが反対していたというのは嘘です。セパレート反対の署名運動では、3年生の3分の2以上が協力してくれましたし、「セパレート反対」という名前のLineグループ(※3)まででき、学年のほぼ全員が入っていました。このグループは、運動が盛り上がっていた時になぜか全員が脱退させられ、解散するという事件がありました。当時はLineグループで解散機能の悪用が流行ってましたので、誰かのいたずらかもと思いましたが、乗っ取りかもしれない です。

セパレートの問題にあれだけ反対したのは、僕達を無視して勝手に鴨沂が変えられていくことへの不満やイライラが爆発したのだと思います。紫野グラウンドや校舎の建替えと同じで、僕達への説明はありませんでした。セパレートとミックス、どちらにも良いとこ悪いとこ両方あると思います。ただ、言いなりは 嫌だという想いが、皆を動かしたのではないでしょうか。 結局、答辞には「生徒中心の学校作り」という言葉だけが残りました。最後やし、言いたいことぐらい言わせてくれたらいいのに、鴨沂はそんなこともできない 学校になっていました。

色々ありましたが、鴨沂を選んでよかったかと聞かれれば、よかったと断言できます。ほとんど部活しかしていなかった僕には、演劇部に入れたことがその理由です。ただ、あの教室を使いたかったと、今でも思います。

2015年3月7日(聞き手/津田壮章)

(※1)仰げば尊しアピールー鴨沂では開校期頃より文化祭にて山車を作って担任教師を乗せる「仰げば尊し」という伝統行事がありました。これは時代を経て変化し、学生運動が盛んな頃にはそれぞれの山車にアピールを掲げるようになり、3年生の文化祭のフィナーレを飾る最大の伝統行事となりました。各クラスの山車には、社会問題などを掲げると共に、山車をもって市内を練り歩く、そして講堂、または北運動場にて各クラスのアピール(または演説)が行われました。仮校舎移転後にはこの「仰げば尊し」という行事自体を学校側が難色を示し、一昨年には3年生側の要求にてテーマ性を設けたファッションショーが校内で開催され、アピールだけを校内のホールで行うという形となり、昨年(今年度卒業生ら世代)にも学校側からの反対を受け、校内でのアピールに留まりました。次年度の学校行事及び文化祭でははやくも、学校側計画ではこれまで2年生が慣例となっていた「演劇コンクール」を、3年生にて行うという計画が示されて居り、事実上「仰げば尊し」という伝統行事自体も、今年度卒業生にて終えようとしています。

文中にある3年5組による「仰げばアピール」の、当日発表原稿は、以下PDFにて閲覧する事が出来ます。尚、文化祭当日にはこちらの原稿の他にパワーポイントによるプレゼンテーションが成されておりました。こちらについては写真の一部にモデルリリースを取得するのが難しいものが含まれますので、原稿のみを添付致しました。

発表原稿

(※2)セパレート問題ー鴨沂では、授業のクラスとホームルームが同一ではなく、科や類型が混ざったホームルーム(ミックスホームルーム)が長年続けられてきました。これが、2014年4月に廃止され、授業と同じクラスでホームルームをおこなうセパレート方式に変わりました。

(※3)Lineースマートフォン、タブレット、フィーチャーフォン、パソコンで利用出来るアプリケーション。同アプリケーションを利用者が相互インストールしておけば、複数人のグループで音声通話やテキストチャットが可能。

 

2015年春。1/170の卒業生インタビュー。

今年春に卒業した卒業生は、その3年間の半分を本校舎で、そしてあとの半分を仮校舎で過ごした鴨沂生でした。そして彼らは、戦後の開校期より続いた私服の鴨沂生の、最後の世代となりました。

変わりゆく鴨沂。180度の転換期のちょうど境目をこの学校で過ごした彼等は、そこで一体何を感じていたのか。今年度の卒業生は170人。その中の一人の卒業生に、話を聞かせてもらいました。

 

「1/170人の卒業生より」

中学は今の鴨沂の仮校舎のすぐ近所の中学に通っていました。もちろん制服だったけれども校風は自由な雰囲気で、先生達も本当に良い先生ばかりでした。

中学3年の頃に「学校見学」(オープンキャンパスのようなもの)で鴨沂高校に初めて行きました。その頃はまだ、どこの学校を受験するかを決めていなくて、僕はⅡ類受験だったので行きたい高校を選択するんですが、近くの紫野か鴨沂か洛北か、という中で、洛北は学力的にしんどいな、というのがあったので、残るは・・・という感じでした。

初めて鴨沂を訪れた印象というと、校舎を案内されたのが北門からだったので、入り口すぐの水道なんかボロボロで、汚れてるなあ、という感想を正直持ちました。あれが正門からの案内だったらずいぶん印象も違っただろうと、今となれば思うんですが、あの時どうして北門から案内されたんだろうというのは、今でももったいないなあという気持ちがします。

けれど、案内の中で図書館も見せてもらって、それで書庫も見学させてもらったんですが、あの光景にはびっくりしました。かっこいいなあ!そう、思いました。

僕が受験する頃の「鴨沂」というと、他の高校と比べると目立たない存在で、例えば「洛北」とか「山城」とかみたいに学力優秀とか、部活動が凄いとかっていうような、知られた存在ではありませんでした。けれど、例えばガラが悪い、というイメージでは少なくとも僕の受験する頃にはありませんでした。

僕は中学の頃から、「生活委員」(いわゆる風紀委員)をやっていて、2年からは生徒会の中で「生活委員長」をやっていました。その頃は学校の規律を守るとか服装とかがキリッとしているのが自分は好きで、そういう取り締まりみたいなのをやる側に居ました。人と関わる事がとにかく苦手で、「そこが違う」「なおして下さい」「これは学校には持って来てはいけません」など、そういう決め事をただ上から言って回るのを得意としていたんだと思います。

だから鴨沂に入学したての頃は、周りを見渡して「なんだこれ?!」とカルチャーショックでした。服装は自由だし髪の毛だってもう、1年の頃から染めてたりする子も居るし。だけどそういうのもだんだん慣れてきて、僕自身もそういう雰囲気の中で居る事が心地よくなってきて、部活中心の毎日を過ごすようになって。で、次第に成績も落ちていったんです(苦笑)。

部活は「演劇部」に入りました。

でも、そういうものに最初から興味があった訳じゃありませんでした。中学でも文化祭では3年生は演劇をするんですが、僕は言ったように人と関わるとか人と一緒に何かをするのが得意じゃ無いですから、中学の演劇でも小道具係でひたすら一人で小道具を作る、みたいな役回りで演劇自体に積極的に参加なんてしませんでした。だから、鴨沂の演劇部による新入生歓迎の劇を見て憧れて入部した、というのでは全くありません。

ではどうして演劇部に入ったのかというと、「これからは人と関われるようになろう」と思ったからです。体育系は苦手だし、そのかわりパソコンなんかは得意だったんだけど、と言って情報処理部なんかに入ると、それじゃあこれまでの自分とおんなじだ。だったら・・・という事での演劇部でした。

入部すると、だんだん役者をやりたい!と思うようになってきたけれど、部内のオーディションではなかなか役が貰えない。やっぱり向いて無いのかなあと揺れる日々で部活動の毎日を過ごしました。そして2年になって、「S.」(京都府高等学校演劇大会・京都府高等学校総合文化祭演劇部門・近畿高等学校演劇研究大会上演作)でピアノの調律師の役を、その後「S.」の特別版(Kyoto演劇フェスティバル上演作)では「校長」の役を貰う事が出来ました。

僕らの年代は、これまでの鴨沂と、これから変わる鴨沂の、ちょうど転換期をまたぐ学年だったと感じています。

まず校舎に関しては、1年生の終わり頃だったか、前の校長先生が全校集会で実にサラッと、校舎の全面解体が行われる事、仮校舎に引っ越しをする事、そしてそれについては「校舎は耐震性が無いから」という説明をしました。

「耐震性が無い」という理由を聞いて、まさか上の人達が嘘を言うなんて思いもしないから、それは仕方が無いのかな・・・とその時は思いました。そしてそれと共に、僕はその頃にはすっかり鴨沂の校舎の事が好きになっていたから、とても残念に思ったし、また悲しい気持ちにもなりました。

僕らの下の学年からは制服制にもなり、僕らが2年になると、制服姿の1年生たちが新たに入学してきました。

制服姿の下級生達を見ていて、僕が思っていた事はとても複雑です。

新しい校長先生がやってきて、そして先生達もたくさん入れ替わりがあって、いきなり規則めいた事が言われるようになる一方、僕たちや上の3年生はそこにあまり関わりの無いような、そんな区分されたような雰囲気が漂い始めました。僕らは一応これまで通りだけれど、たった1年下の後輩達は全く違う事が言われる。例えば新しく来た先生達が校門の前に立って、登校してくる1年生達の制服姿を厳しくチェックするんです。やれボタンが留まってないとか、ネクタイが無いとか、スカートの丈が短いとか。そんな事は今や、他の高校では普通の事なのかもしれないけれど、もう高校生なのに今更中学生みたいな事言われるなんてどうかしてる。僕にはそういう事をやかましく言う先生達が、かつて自分が生活委員長をしていた頃の姿と重なりました。そして自分がかつてそういう立場で居たからこそ分かる自分なりの答えを持っていました。制服の形とか身なりとか持ち物検査とか、どうあるべきか、どうすべきか、何が駄目で、何がいいのか、そんな事はそれぞれが自分達自身で考えるからこそ意味があるんだ。だから、こんな事を学校側がやったって全く意味が無いんだ、と。

けれども、実際には僕らはやかましく咎められる1年生達の脇を通り過ぎて、校舎の中に入っていくんです。自分達にはどうする事も出来ないし、また申し訳ない気持ち、無力感や罪悪感みたいなものでいっぱいでした。

2年の夏休みで仮校舎の引っ越しが始まりました。

引っ越し作業は主に部室の荷物をまとめたり整理したりしました。夏休み頃の校舎の様子には一層悲しさや憤りが募りました。廊下のあちこちに不要品のシールが貼られた荷物が散乱していて、その姿は、まるで校舎同様、まだまだ使える筈なのにという光景でした。

夏休みには仮校舎へ部室の掃除を名目に入りました。もう既に学校として使われていない仮校舎は廃墟の雰囲気で、僕はそういう廃墟の雰囲気は好きだったので一瞬面白く思いましたが、夏休みも終わって仮校舎での授業が始まる頃には、もう、元の校舎に帰りたいという気持ちになっていました。

その後のみんなは・・・というと、「まあ、この環境の中で楽しくやろう」と気持ちを切り替えて過ごす人も居れば、疑問に思う人、特別問題意識を持たない人、それぞれだったと思います。また、これから鴨沂高校に入学する人も、既にすっかり変わってしまった鴨沂の事について、過去の事は知らないだろうし、制服が良いから入学希望する人、なんとなく入学希望をする人、様々なことになるんだろうと思います。そして何かおかしな事があっても、「まあ、仕方無いな」と思いながらそこで過ごす、という事になるんだろうなとも想像出来ます。

もう、僕らの頃には文化祭も魅力的なものでは全く無くなりました。だから、そういうのが普通だとなれば、そういう学校なんだな、と新しい人達は思って過ごすんだろうなとも思います。

僕にとっての卒業式は、僕らが2年の時に3年生が行った、仮校舎移転後の元の校舎での卒業式でした。僕は準備の日も、当日も、そして卒業式翌日の片付けの日も手伝いをしましたが、その時に僕は自分の卒業式もあの場所で終えたような気持ちで居ました。

2年の夏から冬まで公演が続いた演劇部の「S.」では、最後の公演で自分達のやれる事は全てやったという達成感がありました。そして、僕たちの力ではもうどうしても覆しようの無いというのが一方である事を、その環境の中で感じてもいました。卒業生で演劇部の先輩が書いて下さった脚本の「S.」は、その内容にして、一方で自分達が実際に置かれている、納得も何も無く、ただただめまぐるしく変わってしまって振り回されている状況では、背伸びどころかドーピングでも打ったような公演内容でもありました。

僕らが2年の頃の冬にかけて行われた、校舎の今後を生徒達の意見を取り入れようとする、教育委員会や学校、設計会社が行った新校舎の「ワークショップ」には、僕も参加して自分なりの意見を言ったし、また他に参加した人達もそれぞれに必死で意見を言ったけれど、あんなのは全く、形だけで僕らの意見を聞こうという取り組みじゃ無い事はよく分かりました。大人がやりたい事を、僕らを借りてきて結果的にやろうとしてる事が見え見えで、僕らが何を言っても都合のいい事しか聞かれないんだ、と思い知りました。

僕らが3年生になった頃には、それまで居た先生達のほとんどが他の学校に移動になり、また新たな先生達ですっかり入れ替わってしまいました。

演劇部の顧問の先生も違う学校に行ってしまったけれど、それはとても悲しくもあり、また、この状況ではと、春になれば別れが来る事もどこかで予測してもいました。

そんな中で、校舎は次々と破壊されてゆき、その姿をただ訪れて見る事しか出来ませんでした。こうした状況に疑問を持つ仲間を募る事も出来ずに、自分の非力さにただうなだれていました。

でも、いずれにせよ遅かれはやかれ、鴨沂はこういう目にあってしまったのでは無いかと、僕はそう思ってもいます。痛い所を突かれたというか、弱い所を突かれたというか、校舎も校風も、言葉は悪いけれども「死にかけだった鴨沂」に、最後のとどめみたいなものを刺される時はいずれ来ただろうとも感じています。言われる鴨沂の自由も、その貴重さというものがどれだけ継承されてきたか、また在校生らがどれだけ本当の意味を問い、また感じていたかは疑問です。例えば、僕が演劇部の「S.」で演じたボロボロの姿をした校長先生は、僕の解釈では、新たな権力者の象徴でもあるし、また一方では過去から現在のみんなが関心を持たなくなった事によって死にそうになった鴨沂自体を象徴している、ともとらえています。

僕はこの3年間の中で、色んなものを見る事が出来て、そしてあらたに知る事も出来て、またそれらについて考える事が出来ました。だから、最後はやっぱり僕は鴨沂高校を選んで、よかったとそう思っています。

規則で縛る側であった、人と関わる事が苦手だった自分が、この3年間で体験し、またいろんな人と出会えた事はとても貴重な体験だったと感じていて、それはあの学校でなければ出来なかったとも振り返ります。ドアーズやピンクフロイドなんか聴くようになって、物事をあっさり信じたり鵜呑みになんかせず、なんでも考えてみる自分のフィルターを持つようになったとも思います。

これからの人生も、自分が果たして何が出来るのか、よく考えて、そして悩みながらも生きていきたいと、そういう人でありたいと思うようになりました。

2015年3月5日(聞き手/谷口菜穂子)

 

※文中にある鴨沂高校演劇部による「S.」は以下リンクより全編(一部、実際に使われた当日音源は著作権の関係にて別音源に変更)御覧頂けます。

学園祭のシンボルタワーと、ある卒業生の記憶。

「ご存知ですか?鴨沂高校の学園祭シンボルタワー秘話」

            ♢

 鴨沂高校の学園祭を長年に渡って支えて来たシンボルタワー。

写真は2000年の学園祭の時のものですが、実はこのシンボルタワー。1977年に、当時の生徒部が商業美術部に発注依頼して制作されたものです。

 元々は水色のグラデーションカラーで全体を覆われていて、高さは約7~8m。角材と耐水ベニヤ板と発泡スチロール製。いくつかのパーツに分解可能。総予算は6万円。

 構造デザインを担当された方はその後、短大を卒業して大手電器メーカーの工学デザイナーになられたとの事。そして、当時の部長はアニメのプロデューサーとして活躍された方でした。

 このシンボルタワーはその後、少なくとも仮校舎に移転される前の2012年の学園祭までは毎年色を塗り替えられて飾られており、仮校舎引っ越し後の2013年から14年に関しては、現在、在校生らに確認中ですが、「これに似たようなものは確かあったけれど、同じものか分からない」「これよりもずっと小さかったような」という答えが返って来ています。

よって可能性としては、

①現在の鴨沂高校の文化祭にあるシンボルタワーはかつてのものの縮小版レプリカである。

②分解可能な構造だったので、縮小サイズで現在も使用されている。

のどちらかが考えられます。

 仮に、現在もこのシンボルタワーが現行で残っているとしたらすでに制作から35年以上が経過しており、いみじくも鴨沂生は、こうした先輩らの思いを繋げるべくリノベーション精神でもって大切に継承してきたのだという感慨と共に、あれほど現校舎から仮校舎に移転される際には多くのものを破棄、または不要品レッテルを貼りながらも、よくこのシンボルタワーは持ち出す事に成功したな、という驚きも感じます。

 当時の商業美術部の部長であった末川研さん(31期)が1999年に寄稿された文章が、「鴨沂のあゆみ」(京都府立鴨沂高等学校旧教職員の会/発行)にありましたので、このシンボルタワーについて書かれた一部を引用します。

 「思えば、密度の高い共同作業のなかで考えのすれ違いが生じて議論(ケンカ)になったり、意外な性格の一面を見せ合ったりしたことも多々あった。そこに拙い恋愛沙汰も彩りを添えていたような。今もつきあいが続いている同期の仲間というのは、この夏休みを、ともにつぶした同期部員たちである。そう、あの夏が今にいたる長いつきあいの原点であり、間違い無く私にとって、商美で過ごした日々のハイライトだった。水色のグラデーション模様にペイントされて『シンボルタワー』が完成したときの感激は忘れがたい。それはもちろん学園祭の前だったが、夏休みと学園祭が一度に片づいてしまったような気がしたものだ」。

 末川研さんは1961年生まれ。祖父は元京都大学教授・立命館大学名誉総長の末川博氏、父は立命館大学名誉教授の末川清氏。鴨沂卒業後は京都大学理学部へ、(株)バンダイを経て(株)NHKエンタープライズ、(株)総合ビジョンへ。アニメーションのプロデューサーとして活躍。代表作は「はじめ人間ゴン」「忍たま乱太郎」や「十二国記」等多数。大変残念な事に、2010年に49歳の若さでお亡くなりになられたそうです。

 ここにも、鴨沂の固有の個性をいかんなく発揮されて、その後の人生に繋げていかれた偉大な先輩が一人。

 長年に渡って継承されてきた学園祭のシンボルタワーひとつにも、こうしたかけがえのない記憶と物語が存在しているのです。

            ♢

 「鴨沂のあゆみ」に寄稿された文章を以下、添付致しますと共に、ここに心よりご冥福をお祈り申し上げます。(出典/「鴨沂のあゆみ」京都府立鴨沂高等学校旧教職員の会・発行)

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追記ーその後の情報にて、仮校舎移転時の教員の方からコメントを頂き、このシンボルタワーは現在行われている校舎解体と共に破棄された事が分かりました。以下、コメントをそのまま引用します。
「昨年の引っ越しの前に、『持っていくのには手間がかかり、古すぎる。予算つけるので、作り直しを』と生徒部長や管理職から。結局、廃棄処分に、前校舎に残して、その後廃棄に。新しいものは、昨年8月末に商業美術部が作りなおしたもの。生徒会室横の廊下においてあるはず」。

「仰げば尊し」。あるクラスの記憶。

1978年卒業生における、ある1クラスの「仰げば尊し」パレードに至るまでの記憶と共に、その意義や思い、そこで得たかけがえのない仲間との日々を書き記して頂きました。そこには、難解なイデオロギーやその存在の重さ、伝統行事としての堅苦しさを感じない、鴨沂高校生の等身大の思いや、そのリアルな姿が浮かびます。ーーー

他の学校にもそれぞれ伝統行事があるのだろうし、何も「仰げば」だけが特別なものだとは思わない。たまたま入った高校にそういう変なイベントがあって、たまたま巡りあったクラスメイトたちと一緒にそれを体験したというだけの話。

どうしてもやらなきゃいけないとは思わなかったし、後代に引き継がなければ、とも考えなかった。みんなで思い出を作ろう!なんて意気込んだわけでもない。「この村に生まれたんだから、まあ村祭りには参加しとくか・・・」ちょうどそんな感じで、高校生の僕は「仰げば」に向き合っていた。

クラスメイトのほとんどは、それと同じような気持ちだったと思う。

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当時はリベラルな考えを持つ人々が生徒自治会の役員を占め、それに対立する人々との間で論争が繰り広げられていた。ノンポリの僕はそんなことまったく無関心で、授業をサボっては雀荘や喫茶店やライブハウスに入り浸り。生徒部教師が言うところの「“自由”を履き違えた」高校生活を満喫していたのだった。

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クラスの仰げば実行委員を決める際、自ら名乗り出る声はなく、ヒマ人と見られていた僕が実行委員長に推薦された。こうなりゃ、まあ仕方がない。どうせなら楽しくやりましょうよと、軽いノリで引き受けた。

とは言うものの、僕自身はこれまでから「仰げば」になんてあまり関心がなく、先輩たちがどういうふうにやって来られたのかもちゃんと見てなかった。行事の全体像がうまくつかめない。さて、困ったときは人頼みだ。設計、制作、衣装、アピール、会計など、それぞれの部門に責任者を置いて仕事を任せ、自分はその間に入って連絡調整みたいなことをやってればいいと考えた。リーダーシップのカケラもない委員長。各部門の責任者も、「まあ、しゃーないなぁ」という感じで引き受けてくれて、なんとか実行体制は整った。

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ところが、いざ企画会議を始めてみると、いろんな意見が出るわ出るわ。誰かがアイデアを出すと、「それならもっとこういうふうにしよう」「いや、こっちのほうがいい」「俺はここの部分を作るよ」「だったら私はこれをやるわ」ってな具合で、トントン拍子で話が進んだ。なんや、みんなけっこうやる気あるやんか。

企画会議を何度も重ね、各部門からの意見を調整したり、予算の配分をやりくりしたりと、けっこうハードな毎日だった。話し合いを通じて、これまで表に出てこなかったみんなの個性が見えてきた。それぞれが自分の得意な分野で仕事を分かち合った。予算経理では商業科のすごさを知らされた。まだ山車の制作にも取り掛からないうちから、打ち上げコンパの日程まで整った。

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山車や衣装の制作は順調に進み、これまで無関心だった人々も、やがてその輪に加わってきた。休日もみんな集まって山車の制作。お昼は持ち寄りの弁当でお食事会。担任の湯山先生もときどき覗きに来られたが、不要な口出しはせず、激励のお言葉やありがたい差し入れを下さった。ほんとに楽しい毎日だった。

こうして山車も衣装も、すばらしいものが出来上がった。そしてクラスメイトの仲は、これまでになく親密なものとなっていった。

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僕たちのクラスのテーマは「鴨沂の自由」。「自由だ自由だなんて言いながら、実はそうでもないじゃないか」というアピールで、情けない顔をした自由の女神を制作することになった。衣装は当時流行っていたピンクレディー風。男子の衣装は丈が短くてローマ時代の戦士みたいだが、女子のほうはやや露出度が低く、激しく動いてもはだけたりしないよう、それなりに工夫されている。

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自由の女神のキャラクターを考案したHくんは美術系の大学を出てNT堂に就職し、今や著名なゲームクリエイターとなった。骨組みを設計したNくんは工学系の大学を出て、医療器械メーカーの技術者に。衣装をデザインしたNさんは、服飾デザイナーを経てスタイリストの学校の先生になった。運行隊長のKくんは、今も京都中のいろんな神社で神輿を担いでいる。みんな高校生の頃から、それぞれが持つ才能の片鱗を見せていたんやね。現在、こうした人々がもう一度集まって「仰げば」の再現に取り組めば、そりゃもの凄いものが出来上がるだろう。

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そもそも、いろんな人材が寄り集まっているというのが、鴨沂高校のすばらしいところだと思う。演劇コンクールも同じだけど、幅広い人種が集まってこそ、各個人がそれぞれの持ち前を発揮できるし、そこには思いもよらぬ大きな成果が集積されるのだ。

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僕自身は「仰げばはお祭り!」と認識していて、本来の目的である「市民へのアピール」ということにはあまり関心がなかった。演説の内容は担当のWくんに「好きなようにやっとれ」と任せっきり、プラカードも各人がそれぞれ好きなことを書いた。そのため、「鴨沂の自由」というテーマから逸脱したプラカードも多く、中には「カーテンつけろ」なんて、ささやかな要求を掲げる者もいる。

まったく統一感が見られないアピール活動ではあるが、僕自身としては、これでよかったんじゃないかと思っている。各人がそれぞれ自分のスタイルでイベントに参加すればよいし、みんなを無理に統率しようとしたり一致団結を求めたりするのは、何だかイヤな感じ。表面的にはバラバラでも、心の中にある何か大切な部分を少しでも共有し合うことができれば、それで十分ではないか。弁解じみた話だが、そういうふうに思うのだ。

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巡行当日。運行隊長のKくんは、何ともガラの悪いサングラスを掛け、両側に美女を従えて上機嫌だ。みんな楽しそうな笑顔を見せている。女子の衣装は、履物から髪飾りまでコーディネートされ、なかなか素敵だ。個人的な好みを言えば、もう少しミニ丈だったらいいのにと思ったりもする。

のちには車輪付きの山車に変更されたと聞くが、僕らの頃は山車と言っても車輪がなく、神輿のようなものをみんなで担いでいた。これで長い道程を歩くのだから、担ぎ手の男子はけっこう大変だった。軟弱者の僕は、途中から担ぎ役を離脱し、ホイッスルを吹いて指揮をとっている。ここでようやくリーダーらしい役回りだ。(笑)

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 終着地点の北運動場。Wくんの演説が響く中、最後の力を振り絞って山車は全速力で駆け回る。このときのことは、まったく覚えていない。テンションが上がり過ぎて頭の中が真っ白になっていたのだろう。ずっと大きな声を出し続け、喉がカラカラだった。

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すべてが終わったあと、クラスメイトとどういう会話を交わしたのかも、まったく記憶にない。たぶん「あ~、疲れたなぁ」とか、そんなところだろう。実際のところ、多くの会話は必要なかったのだと思う。僕たちの間には、言葉では表せない不思議な連帯感が生まれていた。それは惑星間物質のように薄く広がり、個々それぞれの意識を持つ僕たちを柔らかく包み込んでいった。

それは神社の祭事のように伝統的な精神世界に属するものではないし、デモ活動のような共闘意識とも異なる。強いて言えば、音楽ライブのアンコール時に味わう会場一体感に近いもの。しかも、それは舞台から客席へ向かって投げられたものでなく、自分たちですべて作り上げてきたものだ。「団結」や「集団行動」を嫌う僕にしても、この心地よい連帯感は生涯忘れることのできないものとして、胸の奥深くに仕舞い込まれている。

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学園祭が終わったあとも僕たちのクラスは盛り上がりを持続し、コンパを2回開催した。みんなで卒業文集も作った。そこに僕が記した「仰げば回想録」から、最後の一文を引用しておこう。

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高校生活での最大の収穫は、やはり数々の仲間にめぐりあえたということです。

 「友情」などと堅苦しいことを意識せず、単に「仲間」として多くの人々とつながりを持てたことをうれしく思います。みんな個性豊かな人たちばかりで、それぞれの将来については非常に興味を感じます。

今後も「高校時代の友人」ではなく、「高校時代からの友人」として、いつまでも仲間でありたいものです。

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僕たちは今も数年に一度は同窓会で顔を合わせ、懐かしい思い出を語り合っている。また、そのうちの何人かとはFacebookの「友達」として、日常的に会話を交わしている。同級生の中には、先に紹介したほか、交響楽団のバイオリン奏者もいるし、東大を卒業して何だか難しい数学の研究をしている人もいる。銀行員もいるし、幼稚園の先生もいる。普通のサラリーマンや専業主婦もいる。

みんなそれぞれ別々の道を歩み、人生半ばをとっくに越えた。もうジイちゃんバアちゃんになった人もいる。懐古癖の強い僕はよくノスタルジーの世界に逃げ込むが、そんなときまず母校の風景が脳裏に広がり、仲間たちの笑顔がありありと浮かんでくる。成長過程の大切な時期を過ごし、現在の自分が作られてきた原風景みたいな場所。「思い出」と呼ぶには鮮明すぎる記憶の数々を、ずっと大切にしていきたいと思う。

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第30期(1978年)卒業生  3年8組  徳田 寿

↓当時の文集より、「仰げば尊し」パレードまでの制作日記。

 

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卒業生インタビュー/演出家・蜂巣もも

鴨沂高校2007年卒。現在は東京在住にて芸術監督・平田オリザと青年団が運営する「こまばアゴラ演劇学校無隣館」に在籍し、演出家として活動している蜂巣ももさんより、鴨沂と、自身との記憶を綴っていただきました。以下、その記述を。

 

こんにちは。東京で演劇の演出家をやっている蜂巣と申します。

京都で生まれ育ち、24歳のときに東京へ上京しました。わたしが鴨沂高校を卒業したのは7年前。高校時代にクラブ活動で演劇部に所属して以来、わたしはずっと演劇を続けています。それから多くのことを経験し、住む場所も変わったのですが、高校時代のほんの一部分はまだわたしの中で色褪せていません。ひとりの学生だったわたしが、毎日あの校舎で繰り返し過ごし、見ていた風景を点々と書いてみたいと思います。もしかしたら卒業生みなが見たことのある風景ではないかと思いながら。

鴨川を自転車で下って、鴨沂まで来る。

裏門。わたしは毎日、裏門クラブボックスの前に自転車をとめていた。朝早く来ることが多かったから、自転車をとめるのは容易い。地面のコンクリートブロックをガコガコいわせながら、帰りに自転車が引き出しやすい、いつもの場所にスタンドを立てる。

ボックスから教室に向かって、校舎裏手を歩く。いろんなペンキで塗装した個性豊かなボックスが続く中、なぜか自転車部のボックスはちょっと雰囲気が違った。コンクリートで暗い。中に入ったことはない。もっと先に行くとまた赤とか黄色に塗ったボックスが続いていって、ぽつんと茶室があるのが見えてくる。あれはどうやら文化財的に大事らしいけど、外からは普通の家やなと思う。長く続くガラス窓にわたしの姿が写って、ちょっと髪型を気にして触って、恥ずかしくなって、さくさく過ぎる。

校舎入り口。生物室の前の階段は不思議なかたちだった。すこし孤を描いている。モダン。校舎内全てに漂う油引きの匂いが始まってきた。それから生物室の匂い。延々と教室の続く気配。

少し、はあ、と憂鬱になる。なんでだったか忘れてしまった。なぜ?生徒の気配?授業?……

6組まであるホームルーム。それぞれ特色の違う教室。授業のクラスとホームルームは違う。授業のクラスは居心地が良いけれど、ホームルームは3年間ずっと苦手だった。わたしと違う趣向の人たちが居る。わたしも、その人たちも、互いに仲良くならない気配を感じている。…本当かな、もしかしたら話しかければ広がるのかもしれない……

お互いに嫌な干渉はしなかった。仲良しグループ・派閥も意固地に作らなくてよかった。楽しい人と好きなように居たらいいと提示しているような気持ち。それでも、なにかが苦手なのは3年間変わらない。

高音ソプラノの校歌がスピーカーから流れ始める。じっと机で待つ。わたしはそういう生徒。校歌のあとチャイムが鳴って、何人もの先生が授業のために廊下を通り過ぎていく。好きな先生がいたら手を振る。数学の先生が入ってくる。あるいは英語の先生。あるいは化学の先生 …

たぶんいろんな考えの人が居ると思うけど、わたしは授業が好きだった。新しいものを知る、聞くということがとても好きで、また先生の専門分野を語る呼吸を感じるのも好きだった。教える、ってそんなに簡単なことじゃないと最近よく思う。生徒の興味を一時間、引き続けなくちゃならない。鴨沂の先生たちはかなり変わっていた。中学時代は、先生の授業の様子や日常は、わたしたち自身とともに居るような感覚がなく、形式、常識を伝えるようなカチコチな関係だった。わたしたち生徒はそこに偶然居て、数年後通り過ぎていくだけでしかなかった。

だけどわたしが居たころの鴨沂には、なんだか「にゅるにゅる」した先生が多かった。話しかけたら想像以上の個性で返答する人たち。その特殊さを生徒は楽しみながらも、かなり明確に自覚していて、奇妙な学校に居るのだとステイタスを感じていた。先生たちが楽しそうに個性的に生きていて、わたしたちはなぜ小さな世界で不自由に縛られ、生きなくちゃならない?それはとても分かりやすい、自由のあり方だった。けして昔の鴨沂にあった生徒主体とかイデオロギーなどではない。呼吸が楽に出来ること。自分を認めること。

だけど鴨沂だからといって、やっぱり全てが自由なわけではない。受験という、もうどうしようもないシステムがあって、差し迫るものがある。その他にもちょくちょくいろんな束縛にぶつかった気がする。わたしは受験のための勉強というのが全く苦手で、あれほど授業が好きで楽しかったのに、少しずつ学校や先生から距離を置いていくことになる。曖昧に自由と自由でないものが交じり合い、気持ちが右往左往する。

また受験とは全く関係のない文化祭には、昔生徒自治が活発だった頃のイベントが形骸化して残り続け、それに拘束されて苦手なクラスルームに居なくちゃならない。なぜそのイベントが必要なのか、本当はよく分からない。やる気のないクラスメイトのため息に耳をそばだて、余計に消極的になっていく教室の空気を背中で感じる。そんな半端な苦しい空気。

授業が終わると演劇部。311教室という講堂の裏の、あまりみんなに知られていないひっそりとした教室に集まって練習を始める。ある寒い日は身体を暖めるために走るぞ。なんて言って、先生に見つからないように校舎の中を全力で走った。放課後の教室に残る鬱々とした人たちや空気を無視して、無視して、また鴬張りの廊下だってなりふり構わず走った。

静かな音楽。知らない男の人の声のアナウンス「5時になりました。…」定時制の時間。全日制のがやがやした空気が、しんと静まっていって、夕方の暗い外とは対称的な蛍光灯の光りが、さっきまで居た教室に灯っている。はやく帰らないと。演劇部は大会に向けて仕事が間に合わない時、クラブボックスで隠れて作業した。たまに先生に叱られて、でも性懲りもなく息をひそめてまた続ける。

卒業後鴨沂が、校舎から、先生から、がらりと変わると聞いたとき、わたしはとても微妙な心地だった。だって、どうしても日本の中の「学校」なんだもん、日本中が進めているシステムがあってそれにうまく乗らなければ、わたしたちは生きていけない。どうやら学校や先生というのは遊び相手ではない。受験のために。受験のために。生徒も、親も、受験のために。……鴨沂にあったいろんな物事は、生徒たちが本当に必要だと思って選択してるものではない。今大事なことなのか、考えたことすらない。いつか崩されると思っていた。形だけ残っているなら崩されてしかるべきだ、とも思っていた。

そうやっていつの間にか曖昧なままに流されながら、校舎がなくなっていく情報を、少し目を伏せながら見ているのだけど、わたしはなんとも言えないもやもやを持ち続けている。なんなの?

次の生徒たちの未来がなくなっていくことへの憤り、とまではちょっとわからない。それよりも自分で卒業後を決めていった3年という月日、苦い思いも良い思いも少しずつ、ゆるやかに時間をかけて過ごしてきた場所、手触り、匂いの記憶さえも蓄積された場所が失われていくことへのがっかりするような疲労感。これはとても個人的なものだし、僅かすぎて目をつぶりやすい。だけど思い出し始めると捨てられない。現にわたしは今でも地元に帰って登下校に使った道を歩くと、いろんなことが次々と思い出されてくる。その中心にある校舎、あれらの風景にもう戻れないというのは、どうにもどうにも悲しくてやりきれない。まだいろんなことへの正解、結果を見つけることなく卒業して、その中途半端な気持ちがまだ残っているというのに。

わたしは今この中途半端な状態を「~していきたい。」というような進歩のあるまとめ方をすることが出来ない。自分にとっての記憶の風景が大事であるとは言えるのだが、次の世代への理念の提示、などでまとめられるものではない。

だからわたしの記憶をありのまま書き起こして、ほかの卒業生や先生たちの言葉を聞きたいと思っている。わたしの書いた風景に異議があればどんどん聞かせてほしい。あのとき何を思っていたのか。本当に忘れ去ってしまったり、美化して終わらせるまえに。

ひとまず、わたしの文章はここで終わらせたいと思います。

<プロフィール/蜂巣 もも>

2007年(平成19年)卒業。(2006年度、平成18年度卒)
1989年(平成元年)京都市生まれ。
高校入学後、演劇部に所属。行ったきり帰って来ないエレベーターを待ち続ける人々を題材にした作品や、ロシアの劇作家アントン・チェーホフの「三人姉妹」というロシア革命期を題材にした作品から着想を得て芝居を作る。

2007年京都造形芸術大学舞台芸術学科に入学し演劇・ダンスを集中的に学び、伊藤キムや寺田みさこらに師事。舞台という嘘の空間で、いかなる人のありようを現し、生きることが出来るかについて向き合う。
卒業後もテーマは変わらず、演出家と名乗り、他者が書いた戯曲を俳優にあてることに興味を持ち活動している。

現在は上京し、平田オリザと青年団が運営する、こまばアゴラ演劇学校無隣館という場に籍を置きながら、年2本のペースで作品を制作中。
Twitter @MomoHachisu