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戦後最後の女学校。昭和21年に京都府立第一高等女学校に入学し、鴨沂高等学校を卒業された、または転出された方々のお話。

京都府立第一高等女学校における最後の入学生である、昭和21年年度の皆さん。今回はこの、最後の女学校から昭和23年以降の新制高校・京都府立鴨沂高等学校時代をお過ごしになられた7名の方より、2014年7月18日に鴨沂会館にてお聞かせ頂きました内容をお届けします。

冒頭写真は、当時記念になるような写真などが無かった時代において、恩師の先生方から頂かれた寄せ書き。記念に配られた、写真の一枚も無いアルバムの中表紙に書かれたものです。

            ♢

<入学された昭和21年の様子はどんな時代だったか>

「私たちは昭和21年という終戦間際の頃に京都府立第一高等女学校に入学しました。この頃の入学試験は『口頭試問』という、つまり面接試験だったのですが、後で聞けば、当時は試験用紙にする紙も無かったから、というのが理由のようでした。」

「紙どころか、もう、私たちの頃は何もかも無いという時代でね。制服だってみんな、姉や親族のお下がりだったし、周囲にお姉さんなどが居られない方等は制服を調達するのに大変苦労されたと聞きました」

「なにせ道に草1本生えてないような時ですからね。何故、道に草が無いか分かりますか?もうね、みんな食べられるものは何だって食べた時代だったからですよ。」

「きっとあなたたちにはこの時代の事が想像も出来ないと思います。」

「食べるものは勿論、燃料だって無い時代ですからね。私の所では、家の下駄箱などを潰して、それを燃料にしたりしました。」

「着物やなんかは全部、農家さんまで持って行ってほんの少しの野菜に変わったりして。」

「バッタだって食べたんだもの。袋にいっぱい捕まえてね。袋の口をしばっておくとその中で糞をするでしょ。そしたらもう、毒じゃないから大丈夫なんて言ってね。」

「学校が終わったら一目散に家に帰る。放課後にぶらぶらなんてとんでもない。街は電気も通ってないし、夕方にはすぐ暗くなって、家に帰ったら手伝いが待っているような、そんな毎日でした。いつもお腹が減っていて、でも何も無くて。」

「放課後に立ち寄れるようなお店なんか、どこにも無かったですからね。本屋さんだって、本が無いんだから開いても無いんです。」

「とにかく、今の若い皆さんには想像も出来ないような時代に、私たちは小学校を出て、府一に入学したんです。」

「そんな時代だったから、当時の思い出が語れるような写真などはほとんどありません。わずかに、集合写真くらいかしらね、手元にあるのは。」

<府一の当時の様子と共に>

「教科書だって不十分でしたから、図書館はよく活用しましたね。」

「既にGHQが北運動場のプール棟や体育館を接収していたので、せっかくあった立派なプール棟は、全く使えず終いでした。体育館はGHQの居ない時間は使用出来たんですが、プール棟は常に、GHQの管理人が監視していましたからね。体育の授業では、北運動場と御所を利用していました。」

「年頃の女の子達を抱えているでしょう。先生方もとても、気を配られていたと思います。そう言えばプール棟から私たちの方を見ていたGHQが何か文句を言った時があってね。すると先生は静かに私たちを集合させて、さっと御所のグラウンドに誘導して、体育の授業をしたなんて事もありましたね」

「そんな物の無い時代に、PTAでバザーをしてね。お金を集めて学校の放送設備代を寄付したり、御所の横にある現在の駐車場になっている所を確保する交渉をしたりしてね。何せ、あそこは女学校でただでさえ狭い敷地でしょ。そこにGHQが運動場を占拠しているものだから益々運動する場所が無くてね。当時から色々苦労していましたね。」

「今と違って、イラストやなんかでしか外国人というのを見た事が無かった頃でしょ。だから、学校の北運動場をひっきりなしにジープでやってくるアメリカ兵を見て、みんな大きくて、恐ろしいような・・・。戦中は鬼畜米兵なんて教わって、恐いもんだ、恐いもんだと思ってきましたから。そう言えば戦後すぐの頃には登校停止もあったし、女子は外出禁止になったりね。そんな回覧板が回って来るような時代でした。」

「府一にはその頃、浜詰臨海学舎と、久津川農園と、それと嵯峨野にも農園を持っていましたね。浜詰に関しては、府一の不十分な運動面積を補う目的もあったのでしょうね。後に鴨沂高校になってからもしばらくは活用されていましたが、その後どうなったのかは知りません。噂では、一時どこかの塾か何かが買い取ったのか利用していたそうですが、今はそれも無くなったようですね。あれは確かに当時は府一のものでしたから、今から思えば贅沢な教育環境だったなと思います。一体いつ、誰がどこに売却したんでしょうね。」

「嵯峨野に関しても、いつの間にか知らないけれど無くなったみたいですね。」

「久津川や嵯峨野では畑作業をしていましたが、そう言えば・・・あそこで作っていたものを、ついに一度も貰った覚えが無いわね。笑」

「久津川農園に関しては、鴨沂会が父兄の寄付によって当時購入されたもので、それが戦後も長らく府一の鈴木校長先生の名義になっていたんだそうです。それが分かって、鈴木校長もそれはという事で、鴨沂会(※京都府立第一高等女学校・同窓会が前身の組織で現在は社団法人化されている)に返上されたんですね。そしてその土地を売却して得た資金で、現在の鴨沂会館(※鴨沂会所有)の新館側を建てる事が出来た訳です。」

「なにせ府一の歴史を紐解けば、毎年毎年、多額の寄付が学校運営などに投入されていましたから。プール棟も寄付金で建てられたものでしたし、その他にも多く、寄付によって造られたものがありました。そうした名義が鴨沂高校、つまり京都府の所管となったものか、それとも曖昧なままであったものか、はたまた鴨沂会のものになったかによって、その後の命運が分かれたという事はあるでしょうね。」

「今は京都文化博物館に所蔵されているという上村松園さんの『夕暮れ』も、あれも府一時代に上村松園さん自らがご寄付された絵画でした。私たちの頃は講堂に立派に飾られていたんですよ。男女共学時代になって、男子学生が校舎のあちこちを破壊して、このままではこの絵も危ないという事で、以降校長室に長らく置かれていたんですが・・・」

「とにかく、府一という学校は特別な学校であったという事は、私たちの世代にも勿論、周知されてきた事でした。府一の女学生が通りを歩くだけで近所の人が通りを出て眺めてみたりするような、そんな学校だったんです。戦後すぐの頃にも、現在の天皇が皇太子様でいらっしゃった頃に学校をご訪問されたりね。何せ、普通の学校とは違ったんです。」

「『西の学習院』とも戦前には呼ばれていたんですよ。宮様が代々に渡って通われてましたからね。」

「先生方も大変優秀な方が多くて、それは当時の鈴木校長がとても実力者で、色んな学校から優れた先生を引き抜きしていた、という話も聞きました。学生も優秀揃いだったから、1言われて10分かるようなね。そうした先生方は、府一が終わるとみなさん、大学の先生になられたりしてね、多くが学校から去られました。」

「あら、私は先生があんまり優秀過ぎて、何言ってられるのか全然分からなかったわ、笑」

「そうそう。私たちの2つ上の先輩に、女優の山本富士子さんがおられたんですよ。」

「あの方は元々大阪にいらして、そのお屋敷をやはり終戦になってGHQに接収されてしまってね。それで転校されて、山本さんは当時、京都の三条寺町にあったお家から、学校に通われてましたよ。」

「当時からもう、綺麗どころじゃない。別格でした。」

「寺町三条のお家から通われてるのを、同じ方角だった私は通学路で後ろ姿をよく、眺めていました。後ろにふたつに三つ編みにされて、それが揺れている姿をよく覚えています。」

「当時は学年毎にリボンの色が違って、1年生から3年生がえんじ色のリボン、4年生がブルーで5年生になると黄色と分かれていたので、誰が何年生かというのがすぐに分かります。なにせ先輩にはかしずくようにお辞儀するのが当たり前で、先輩に気軽に話しかけるなんて事は出来ない時代でした。先輩というと、こわくて、そして綺麗な方が多くてね・・・。思えば今と違って、小学校あがって間もない子と、高校3年生くらいの年齢が一緒の学校という事でしょ。そりゃあ、子供からお姉さんまで居るのだから、上下関係はとても厳しかったと思いますね。」

<昭和23年の男女共学時代を迎えて。>

「私たちの時代は子供の頃、小学校3年生までは男女共学で過ごして、その後は男女別で学校を過ごしてきたでしょう。ですから、最初の頃はとても緊張したものです。」

「男女共学になると言われて、それがイヤも良いも、私たちに何かもの申せる時代だなんてまさかなかったんですよ。ですから、私たち子供にとってはもう、寝耳に水というか、それは突然、何の事前説明も無しに上から決められた事として、『明日から男女共学になります』といった具合でしたね。」

「迎える側もそうですが、京都一中の男子生徒達も本当に大変だったろうなと思います。自分達の居た校舎を追い出されてね。彼らが自分達で机やなんかを運びこんで、府一の校舎に来られた日の事を覚えています。廊下に一中の荷物がたくさん積んであった光景をね。」

「男女共学になるという事は、私たちはまだ年齢で言えば今の中学生位ですから何とも言えず、という時でしたが、父兄や先輩らには勿論、反対される動きはあったようですね。私は先輩らに連れられて、男女共学反対の決起集会に参加した事がありましたもの。そして決議してGHQに直談判されたんですが、もう、当時はそれまでの戦前の価値観から一変して、今やGHQが天下という時代でしょ。昭和23年の4月から始まった新制中学までは義務教育だけれど、その後の高校に関しては『青空教室だって構わないんだ』という事で、そんなに文句があるなら無くしてしまって結構と突っぱねられてもう、それでおしまいでしたね」

「当初の半年位は、午前が女子が校舎を使い、午後から男子が使う、なんて期間を経て、10月より本格的に男女共学時代に突入しました」

「始まってみれば、男女すぐに仲良しになってね。とても活気があって、楽しい学校生活になりました。私のクラスでは学級新聞なんてつくったりしてね。でも、GHQが勧めた学制改革には地域性が導入されましたから、せっかく仲良しになった学友と、私は学区が違うという事でその後洛北へ移動する事になったのがとても辛かったです」

「私も府一に入ったというのに、その後の学区制で途中から朱雀になりました」

「私は堀川に」

「そうやって友達とはバラバラになりましたが、戦中はとても暗くて毎日おびえるような生活を送ってきましたからね、相変わらず物は在りませんでしたが、一気に価値観が変わって、それまで駄目だとされた事が突然良しとされるような時代になって、戦中は国民みんなが同じ意見であらねばならないというような空気感から一気に、自由となったでしょ。戦中は夜も寝られない程怯えて、日々暗い気持ちでいたのが、パッと明るくなってね。『自分達は、これからの時代をしょっていくんだ』というような気持ちには確かになりましたね」

「一気に自由が叫ばれる時代になってね。」

「そうそう、学校のすぐ並びに映画館があってね。そこの脇から入って友達と映画をタダ観したりね、笑」

「私はその頃、バスケットボール部でね。当時は体育館でアメリカ兵がよくバスケットの練習をしていたんです。そこでみんな、本物のバスケットのスタイルを間近で見たんですよ。私たちの頃は両手シュートばかりだったんだけれど、アメリカ兵の片手シュートがかっこいいとなって大流行りになってね。男子はみんな、片手でシュートを打つようになりました」

「校舎に関しては、それまでの二足制から土足になって。みんな、靴なんか無いもんだから、それは土足に決められたというより、やむを得ない事情でなし崩し的にそうなってしまったのでしょうが、まあ、男女共学になって一気に、校舎はボロボロに壊れてしまいました。男子生徒は下駄でどかどか歩き回って、そこら中のものを壊していましたからね。エネルギーが有り余ってるというか、一気に、まるで、闇市のカオスのような風情になりました。」

「男の子達にしてみれば、この学校校舎はなにせ女学校校舎だったでしょ。おトイレひとつとってみても不足ばかりで、わずかにバラックのような手洗いが造られたりしたけれど、当時は色々と足りない事ばかりだったと思いますね。内部の壁も防音用テックスなんか、すぐにボコボコにされてしまったし、教室のロッカーだって、めった打ちにしていたものね。色々、不満な事が多かったのでしょうね。」

<当時を知り、今思う事。>

「私達が当時体験した事というのは、戦中そして戦後と、価値観が一変してイデオロギーに大きく左右された時代でした。それらは否応無く従うしか無かった時代で、全ては上からの命令でした。反発するとか、抵抗するとかは全く、そんな余地など無かったのです。ところが一方では、戦争が終わって、自由になった、これからは民主的な時代になるぞという事で、みんなが勢いづいた訳でもあります。私たちが当時体験した事は、もう二度と体験したくは無いし、また、皆さんにも体験してもらいたいとは思えないですね。」

「鴨沂高校においてはグラウンドが無くなってしまうという事で、残念な事に北運動場のプール棟と体育館がもう既に解体されていますが、運動場の狭さに関しては、あの学校は今に始まった事でなく、ずっとその面積の不足については問題だったと思いますよ」

「元々は女学校でしたから運動場面積が狭いというのは、当時としては不足無しだったでしょうし、街中というので仕方が無かったかもしれませんが、男女共学となると、そういう訳にはいかないでしょう」

「私たちの時代にも、御所のグラウンドを利用したりしていたのですから、男子学生が入って来て、それでも面積が足りずにみんな苦労していましたからね」

「その後に交渉を重ねて外部グラウンドを確保した経緯もあり、そこでこれまで確保していた御所の西運動場を返還したのですから、今やその両方も無くしてしまっては、あの北運動場だけでは足りないのではと思います。」

卒業生インタビュー/評論家・潮 匡人

現在は東京在住にて日本各地で講演、執筆活動などされている評論家・潮匡人さん。京都にお立ち寄りの際、お時間を頂戴してインタビュー。現在に至るご自身の生き方やものの見方に母校である鴨沂高校がどのような影響を与えてきたのかという点から、今、鴨沂高校について思う事、大切にすべき事について語っていただきました。

 

「鴨沂高校はまさに無形財産である。それらを失い、普通の学校、普通の人間になりたいのか。」

<生い立ち。そして鴨沂高校に至るまで>

青森県で生まれてすぐ、親の仕事の関係で転勤を繰り返し、中学から高校と京都で過ごしました。

母方の大叔父は大日本帝国の海軍の軍人で連合艦隊の参謀長、父方は父、祖父、曾祖父に渡り判事や検事。中学は近衛中学で当時は京都大学、吉田神社の鳥居のすぐ側で暮らしていました。当時は母方の、戦前まで検事で戦後GHQによって公職追放され、その後弁護士をしていた祖父と同居していました。

鴨沂高校に進学した理由というのは、自ら選んだという訳ではありません。当時は蜷川政権が進める教育制度の中で、小学区制で僕の居る学区は否応無しに公立高校だと鴨沂という事だったし、他には私学という選択しか無かったけれど、当時は学力の高い私学の高校と言えば小・中学校からエスカレーター式の所しか無かった、という頃でした。確か、大阪の小学校に通っていた頃に私立を受験するか公立中学に行くかという事を親に聞かれた覚えはあるけれど、京都の事情も知らないので公立の近衛中学に行くと答えた記憶があります。

僕らの頃の公立高校の受験倍率は1.07倍と、まずほとんどの中学生が公立高校に進めたのですが、これは中学の段階でそもそも公立か私立かの選択を中学校側によって振り分けされていた事によると思います。そんな訳で、自ら望んで鴨沂に進んだという訳でなく、選択肢が自分には鴨沂しか無かった、という時代でした。

当時の鴨沂高校と言えば「不良」のイメージが強くて、かつては「東の日比谷、西の鴨沂」と言われた程の進学校神話も崩壊していました。

自宅から学校までは自転車で毎日通っていたんだけど、ある時、確か2人乗りだったかで警察官に職務質問されてね。「どこの学校だ」と言うから「鴨沂だ」と伝えると、「ああ、あそこか」とばかりにそれで去られたように覚えています。

高校の頃はいわゆる不良仲間と授業をさぼっては京大の百万遍付近の路地を入った、ビートルズの曲ばかりかける喫茶店に入り浸ってましたね。お昼なんかは学校の側のお店でご飯食べて、タバコ吸ったりなんかして。僕は事前にその日その日、どこの店に教員が見回りに行くかという情報を仕入れて流すような事をやっていました。

そう言えば1年生の時に家庭訪問みたいなのがあって、担任が僕の素行の悪さを母親に告げ口しました。「一番の悪だ」「おたくのような立派な家系でどうして息子さんは素行が悪いんだ」みたいな事を言うもんだから、母親はきっぱり、「そんな事を言われる筋合いは無い。学校生活の間の事は、学校で責任をもって欲しい。家ではちゃんとしてますから」みたいな事を言ってのけたのを襖越しに聞いてました。ちなみに、僕の母親は京都府立第一高等女学校の出身。母親にしてみれば一方では自分の母校はエリート女学校だったから、そのままのイメージもあって、自分の息子が鴨沂高校に行くという事に抵抗感はある意味無かったんだと思います。また、母の父親である僕の祖父は、旧制高校の頃に集合写真で学生服の詰襟をみんなちゃーんとボタンを留める中で一人、前ボタン全開で中に大きな星マークの入った丸首シャツを着てポケットに手をつっこんだまま写ってるような人でね。勿論戦前の事です。生涯に渡って破天荒で規格外な人で、そういう親を持つ母親だったから多少の事は慣れてるという所もあったんでしょう。僕のDNAも、確実にそこからきてるな、と(笑)。

そんな訳で、鴨沂では当時配られていて足りなくなると購入する事が出来た欠席カードの冊子に、僕はまず親のハンコをかりて全ページに捺印して、それを使い切る程学校をさぼって、あと遅刻何回でアウトなんてすれすれで学校生活を送っていました。だから、成績はオール3くらいだったと思います。最後の方にはもう1日も休み無しなんて状態になって、40度の熱が出てもヘロヘロで這うように学校に通った記憶があります。

<70年代後半頃の、在校中の争点>

在校中、鴨沂生がバイクの二人乗りで警察官をはねて亡くなるという事件がありました。

バイクを運転していた学生は当然つかまったんだけど、その後ろに乗ってた学生は検挙されず、名乗り出る事も明らかになる事もなくて、捜査も躍起になって行われていたんだけれど、父親も祖父も法曹の家でしたし、高校時代から法律書を読んでいたので、「自ら出頭する義務は無い」「質問に答える義務も無い」なんて入れ知恵していたように思います。

このような事件もあって、僕らの頃にバイクに乗ってはならないどころか免許を取る事自体が禁止されてね。これが学内で大きな争点になった3年間でした。鴨沂高校は市内の高校の中でも当時いち早くバイクが禁止され、3無い運動というのがつくられて「免許は取らない・バイクは買わない・バイクは乗らない」という事になったもんで、僕は生徒部に行っては「法律上では免許がとれるのに乗れないとするのはおかしいだろう」と詰め寄ったりしてましたね。鴨沂には夜間の定時制もあって20歳以上の学生だって居るし、当時は普通科の他に商業科もあったので、それぞれの事情や家庭環境もあって、この一律規則で被害を被る人間だっているだろうみたいな事を訴えていました。

(※鴨沂高校においてバイクの3無い運動が正式に学校として生徒指導方式を決めたのは昭和50年10月との事。大きなきっかけとなったのは、昭和50年4月に起きた、バイク自損事故による学生の京都府綾部での死亡事故、続いて上記の警察官への死亡事故だった。その後、昭和56年度から、バイクの後ろに乗せてもらわない、を追加して4無い運動になった。=昭和57年3月発行のOur School Ohki誌5号140~144頁参照。)

自治会活動には直接関わる事はしませんでしたが、当時は暗黙の慣例のようになっていた、代々リベラルな立候補者が結局選挙で勝つという自治会に「面白くないな」という気持ちもあって、ある時の選挙で、当然勝つ事が見越されていた、親が左派議員の息子に対して、僕ら仲間3、4人でクーデターを起こして対立候補を立てたんですよ。これが結構健闘してね。で、最後の弁論大会の時になって、自治会長有力候補の彼は「このままではこれまでの鴨沂の自治会を継承する事が出来なくなる」みたいな事を言って泣いたんですよ。僕らとしては、「泣くなんてありかよ!」と思いましたが、結果は泣いた彼が当選。僕らの推した対立候補は落選しました。当選した彼はちょっと見栄えの良い男だったから、結局、女子票がそれで動いたんじゃ無いかというのが、僕らの選挙結果の分析でしたね(笑)。

<鴨沂で自己を増幅し、また刺激され、そして今がある。>

先にも述べたように僕の家は代々続く法曹の家だったから、大学には行こう、司法試験は当然受けるつもりでいました。模試で全国7位、京都では3位をとったもんだから、もうこれだけやれば後は遊んでても大学に行けると思ってね。先に言ったように、遊びほうけてました。進路先に関しては、自ずと司法試験合格者実績の高い大学はどこか、という事であれこれ選んで自分の中の答えが早稲田大学の法学部でした。調べると、近くに日本女子大もあるし「何かいいことあるんじゃないか」なんて、そういう男子学生らしいリサーチもしていた訳です(笑)。で、滑り止めに関西大学。当時の鴨沂高校の進路部は熱心に機能してなくて、これら情報は全て、自分で見出したものでした。

ちなみに、京都大学という選択は最初からありませんでした。京大生ともなれば、自宅から通えてしまってこれまでの環境と何ら変わりの無い事になってしまうし、実家や人間関係の狭い京都から抜け出したい、どうせ抜け出すなら「花のお江戸」だろうという事もありましたね。何故東京大学で無かったのかと言えば、本屋さんにいち早く並ぶ問題集なんかが私立大学対策のものなので、それらを片っ端から見ていたら、気付いたら東京大学の受験のタイミングを失っていた(笑)。ただ、僕の同級生なんかは当時の僕の素行を知っているので、現役で早稲田に受かったなんて今だ信じていないと思います。

今の僕が垣間みれるエピソードだと、高校の時に書いた論文「共産主義とその批判」というものがありましたが、当時の社会の先生には「君の考え方は間違ってる」「君はインテリだからこういう考えになるんだろうな」と言われたような記憶があります。逆にこっちも「唯物史観に沿って教育するのはあなたの大好きな憲法に反するんじゃないですか」なんて先生に楯突いたりしてね。けれど、そういう僕の考え方を全否定するという風潮は無かったように思うし、今もその先生の事は覚えています。

鴨沂高校は当時、教職員が熱心に組合系の活動をしていて、職員室にも堂々と「メーデーの意義!」なんて横断幕を掲げていたし、実際、メーデーの日には学校が休みだったり。どう考えても破天荒というか、ユニークな学校だったなと思います。そんな訳で、昨今はそうした学校のムード自体を上の方はどうやら煙たがるんだろうけど、よく右側の言われる所の日教組うんぬんの話も、「左教育を受けても俺みたいなのが出るんだから」と周囲には言ってます(笑)。

僕にとっての鴨沂高校というのは、自身のアイデンティティーを増幅された、刺激された、そんな学校だったと振り返ります。

早稲田に入学し、週刊誌で「歴代総理を輩出した早大雄弁会の研究」といったタイトルの記事に興味をもって雄弁会に入会。その後2回生で幹事長にまでなってしまいました。そこでの体験は、このまま大学を卒業して普通の就職をするという事に対する抵抗感を持たせました。3回生からは南青山で暮らし始めて六本木などで遊びほうけてコネ枠で決まった某有名広告代理店を入社もせずに留年。そこで親からの仕送りが止ってしまったもんだから、防衛庁正門前のカフェバーでバイトしたりして食いつなぎ、東京放送(TBS)の契約社員になった頃、女性キャスターから「航空自衛隊の制服って恰好いいね」なんて言われたりした結果、自衛隊への道を選びました。私服の公立小学校から自由服(私服)の近衛中学、鴨沂高校、そして大学を卒業し、就職してから初めて「制服」を着た訳です(笑)。

高校時代の東大受験同様、司法試験も受験すら出来ませんでした。

自衛隊に入って、大学院にも行かせてもらいながら防衛庁広報紙の編集長をやっていました。ある時「私はこれで自衛隊を辞めました」って記事を打ち出し、当時の朝日新聞が「変わる自衛隊」なんて見出しで社会面トップ記事でそれを取り上げたりして、大きく物議を醸して自ら出る杭になってしまったり。また航空総隊司令部というところで、日米共同作戦計画等も担当。結局階級的には軍隊でいう少佐にあたる三佐まで行き、11年半ほど在籍しました。

その後は出版社に入って書籍編集の仕事をし、現在に至ります。

<固有を捨てて普通になる事に価値は無し>

記憶を辿って思う事は、当時の鴨沂高校には、現在大きな社会問題とされているいじめや不登校といった問題なんて、まるで無かったんじゃないかと思うんですね。

これは僕の持論ですが、結局カギカッコつきの教育をすると、そうすればする程抑圧されて、歪みが生じて様々な問題が起こるんじゃ無いかと思うんです。まあ、不登校という点で言えば、僕のように授業をさぼる事が不登校に当たるんじゃないかと指摘されると苦笑いですが、いや、僕は学校に行きたく無かった、学校が楽しく無いから行かなかった訳じゃ決して無い。学校の他にも楽しい事があっただけに過ぎなくて、それは今起こっている教育環境でのそれとは、根本的に問題が違うと思うんですよ。だから規則で縛っても、それではまた別のストレスがかかってしまう。

制服に関してもそうですが、重ねて言うように僕が居た中学は自由服の近衛中学でつまり私服通学、そして鴨沂でも私服。大学の頃は帰省するたび祖父に「なんだ、その女みたいな髪型は、今すぐ散髪しろ」と強要されつつも通した長髪にパーマ。つまり大学を出て自衛隊に入った時に、初めて制服というものを着たんですよね。髪もスポーツ刈りにして。その時初めて、「何故制服を着なきゃいけないものなのか」なんて事を色々考えたりしました。なんとも自分にとって違和感というか、変な感覚だったんです。まあ、自衛隊だし仕方無いか、なんて解釈しましたが。

いずれにせよ、これからも鴨沂が大事にすべき所というのは、ひとつひとつの伝統や校風を個別で取り上げると下手をすれば歪んでとらわれるからなかなか難しい。よく言われる「自由」と言っても、その後に「自由には責任が伴う」などとロジックが続くと解釈が複雑に分かれて生じるし、じゃあ例えば「仰げば尊し」のような学校行事なのか、「私服」であった事を伝統として指すのかとすれば、それぞれに意見があるだろう。が、僕は、それらに色んな意見や解釈があって、それぞれで異なっていても、それこそが「鴨沂」であるのでは無いかと思うのです。つまりこれまで通りで良い。何も、変えてしまうことなど無いんです。

今思い出しても、鴨沂高校というのは実に面白い学校だったし、それが何か、と一言で説明する事など到底出来ない。これまで善し悪しに振り分けられる鴨沂らしさというものは、それらの全てが鴨沂であった訳で、悪しきものを無くす、というつもりであろう現在行われている事も、それらを全て消してしまって、僕としては「そんなに君らは普通になりたいのか?」と聞きたい所です。今の大人にも、それなりに若い頃には色んな夢があった筈。今や鴨沂を普通の、どこにでもあるような学校にしてしまって、「当時一体あなたは普通のサラリーマンになりたかったか?母校が横並びの学生を育むような環境になってしまうのに賛成していいのか?」と問いたい。

これは、日本という国に対しても言える事かもしれないけれど、僕は仕事柄、講演などで日本各地に行くんですが、いまや何処に行ってもその地方の特徴というのが失われているように思うんです。おおよそ、国道沿いにはユニクロがあって、スターバックスがあって、ファストフード店やファミレスがあって・・・と、今自分がどこに居るのかというのが分からなくなる。駅前やかつての繁華街はどこもシャッター商店街になって、一方でようやく、地産地消が叫ばれるようになってきた。各地方の特色というものについて、今、日本は真剣に考える時期にきている。ここ京都に久々に帰ってきても、京都らしいと言われるような祇園あたりの素敵な町家バーの横に、ありがちな風俗店がぎっしり並んでいる。つまり、何処も同じような問題を抱えているんですよね。

日本各地には、多くが戦火で焼けてしまってその土地の特徴が奪われてしまったという事もあるんだけど、京都は幸い、大きく戦争の被害を受ける事が無かった。であるにもかかわらず、戦争を乗り越え、爆撃から逃れた建物をわざわざ自ら破壊するなんて、こんな馬鹿げた話は無いと僕は思うんです。

校舎に関して言えば、鴨沂高校はその前身である女学校という歴史を継承している立派な伝統がある訳で、それは覆し様の無い事実なんだから、やはりそれは貴重な母校の歴史として大事にしないと。

これまで内側でも間違っていたんじゃないかという事は、そうした歴史と伝統をきちんと継承してこなかったという点も責任として大きい。もしかしたら、僕の在校中には学校側もひょっとしたらその歴史なりを説明してくれていたのかもしれないし、僕も若くてそういう事には興味が無かったから記憶に無いだけかもしれないけれど、少なくとも、印象に残るような教育のされ方は無かったな、と振り返ります。NHKの大河ドラマで新島八重の事があった時、全国放送で自身の母校の前身である女学校で奉職していたなんて知った時はひっくり返りましたよ。そんなの僕ら、知らなかったぞ、と。当時の鴨沂の教育では、もっと大きなというか、政治問題やら社会問題やらは熱心に教えられてたけれど、「自分の学校に関わるこんな大事なこと、コレくらいの事はちゃんと教えろよ」とは思いましたね。安保闘争やなんかにかまけて、いざ、自分の足下の学校の事すら、ちゃんと教育してなかったじゃないか、とね。

結局の所、そうした事がすなわち、今回の校舎解体においても、大きく陰を落としているんじゃないかと思う訳です。あまりにも多くの関係者が、鴨沂高校の基盤である女学校時代から続く歴史をちゃんと知らずに居た事で、軽んじてしまっているというか、逆に言えば、もっとみんなが良く知れば、それら全てを大切にしなきゃならんだろうという気持ちに繋がるのではと思います。

それに現在行われている校舎破壊は、時代に逆行している行為でしょう。東京駅を始め、全国各地で歴史ある建造物を残して活かす事は今や時代の流れだし、地元京都でも町家をそのまま活かして飲食店などが入るなど、当たり前の事になってきてる。そういう意味でも、今鴨沂で行われている事はむしろ流行遅れです。残す方法など、いくらでもある。新しい教育環境など、壊さなくとも内部改修でいくらでも方法は見出せる。そもそも今行われようとしている事は、果たして最新とすべく教育改革であり、また教育環境なのか、と。

新しく校舎を建て替えた所でいずれはどうせ古くなるんだし、逆に言えば古いものは古いままだからね。新しくしてしまって、確かに数年は綺麗だろうけど、そんなものはいつかすぐに時代遅れになってしまう。新しい事ばかり追っても、それじゃあ次から次へと追い続けなきゃならない訳だから、そんな事よりもむしろ、今あるものを出来るだけ活用して、機能面に関してだけは今日的環境にあわせて少し改修すれば良い話。

校風で言えば鴨沂のそれは無形財産であり、これまでの学校の歴史の文脈を物語る校舎は文化財。

それらの「固有」を捨てて「普通」になる事に価値は無いと思います。

<在校生または若い卒業生らへのメッセージ~型が在るからこそ、型破りな人間になれる>

歌舞伎には「型破り」「形無し」という言葉があります。

日本の伝統文化には全て、様式美に見られるように形・型があります。それこそが伝統であり、流儀であり、形式なのです。つまり、こうした型があってこそ初めて「型を破る」事が出来るのです。逆に言えば、型が無いという事はつまり、単なる形無し、という事になります。

鴨沂高校には、その歴史的文脈である女学校の歴史が存在します。そこには長く古い貴重な歴史が存在するのです。それこそが歌舞伎で言う所の「型」だと思います。それらを大事にして継承してこそ、「型破り」になれる。「型破りな人間」になれるのです。

人間の理性に過大な信頼を置かないというのが僕のスタンスで、日本には千数百年に渡って受け継がれる伝統の中に、恐らく答えというものはあるのではないかと考えます。これを僕はいつも木になぞられて、この垂直線を大事にしろ、それは永遠の真理に向かって伸びる木なんだと言っています。

つまり、この木は自身のコアになるもので、鴨沂生の場合には、鴨沂と、その基盤となった女学校の伝統がそれに当たります。そのコアを大切にする事が、自身の中でブレない支えのようなものになると思うし、これまで鴨沂にはこうしたコアがあったからこそ、たくさんの型破りな人間を輩出してきたんじゃないかと思います。

鴨沂高校にはこうしたオリジナリティーの基盤となるコアが存在するのです。それら長きに渡り存在してきたものを自ら壊す事を望んでいるとしたら、だとすれば重ねて言うように「君たちはそんなに普通になりたいのか」と尋ねたい。鴨沂高校における、普通じゃ無いこと、普通じゃ無かった事はすべて、かけがえの無い財産なのです。

もっと簡単な例を挙げるなら、教育で言えば英語は今や不可欠な教科でありグローバル時代といわれる昨今には大いに教育として必要。だけれど、日本語もまともに喋れない人間が真っ先に英語を習ってどうするんだ。つまり、自分が日本人である以上、日本の事、自身のコアとなるものを知らずして世界に出て何になる、海外で日本の何が語れるんだという事とつまり、問題は一緒なのです。

今、そこにあるものは、もしかしたら若い頃には気付かないかもしれないし、例えば校舎においてもその価値というものが分からない人も居るかもしれないけれど、それが分からないまま、知ろうともまた守ろうともせずままに居れば、いつかきっと必ず、その失う事、継承しなかった事を確実に後悔する日が来ます。

どこにでもある高校という普通名詞で鴨沂を終わらせるのか、それとも伝統が刻まれた唯一無二の高校とするか。

鴨沂らしさというものを大切にし、伝統を継承しまた伝えて行くという事を、この学校を選び、また学んだからには自覚して欲しいと思うのです。

 

<プロフィール>

潮 匡人  1978年(昭和53年)卒業。(1977年度・昭和52年度卒)

1960年(昭和35年)青森県八戸市生まれ。早稲田大学大学院法学研究科博士前期課程修了。卒業後、航空自衛隊に入隊。第304飛行隊、航空総隊司令部、長官官房勤務等を経て三等空佐で退官。その後、書籍編集者(クレスト社)、シンクタンク客員研究員、聖学院大学専任講師、帝京大学准教授、参議院議員の制策担当秘書等を経て現在に至る。拓殖大学日本文化研究所客員教授。東海大学海洋学部非常勤講師。公益財団法人・国家基本問題研究所客員研究員。NPO法人岡崎研究所特別研究員。著書、TV出演等多数。

昭和10年から戦後最後の女学校時代の記憶を写真と共に。

2014年5月28日のこと。

京都府立京都第一高等女学校において、昭和10年~15年を、また昭和12年~17年を、そして最後の府一と呼ばれる昭和21年にご入学され、戦後の学制改革にて男女共学時代を向かえた鴨沂高校時代を過ごされた5名の方々と共に、それぞれがお持ちの貴重な写真アルバムを見つつ、お話をお伺い致しました。

※以下の各写真はクリックしていただくと拡大されます。

 

<ヘレンケラー女史/来校講演の際の思い出>

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昭和12年5月10日/京都府立京都第一高等女学校(現・鴨沂高校)講堂にて。ヘレン・ケラー女史と通訳の方々。

「戦後は偉人伝や映画などでひろくヘレン・ケラーの事は、子供から大人までよく知る伝説の偉人ですが、当時の日本では今程、あまりその存在は知られてはいませんでした。ヘレン・ケラーが来校されるという事になって、私たちは色んな書物を拝見したり、また先生方からのお話を伺い、彼女がどんな境遇でこれまで生きてこられたかを知りました」

「講堂いっぱいに集まり、その講演は結構長いものだったことを記憶しています。ヘレン・ケラーさんは、声にならない声でお話され、それをお隣の方が読み取って英語で話し、それを通訳の方が日本語で話される、という講演でした」

「またヘレン・ケラーさんは通訳の方の喉に手をやってその振動を感じたり、また通訳の方の口元に手をやってその言葉を読み取られていた様子がとても印象的でした。また通訳の方が、ヘレン・ケラーさんの手をとって、そこに文字を書かれている様子でした」

「私たちはその講演の様子をまるで吸い込まれるように見入っていたのを覚えています」

<府一バスケットボール部選手の記念写真>

バスケットボール選手

「鈴木校長先生は特に、国体でも優勝を重ねた籠球(バスケットボール部)はご自慢のクラブで、この写真は当時のバスケットボール部の先輩らの写真です」

「私はクラブ活動などしていませんでした。当時、府一では盛んに運動系クラブへの参加が呼びかけられていましたが、私はピアノを習っていたので、それでなんとか、部活動の勧誘から逃れていました」

「この写真には私は写っていませんが、当時の府一では、バスケットの選手というとまるでスター。花形のクラブだったのでみんなの憧れだったんです。ですから、こうした写真はまるでスターのブロマイド写真のようなもので、みんなわざわざ、自分は写っていなくても学校で買ったんです。今から思えば、そういう憧れの対象をつくって部活動を盛り上げるという事が、校長先生はとてもお得意だったわね」

「そんな中でも先輩の選手で『おかよさん』て方がいらしたんだけど、長身でとっても美人でね!みんなの憧れだったですよ」

「そう言えば、この写真に写っている校舎正面の横にある丸窓にあった鉄のレリーフは、いつのまにか無くなっていましたね。恐らく戦争で武器を造るために接収されたのでしょうね」

<ベルリン・オリンピック代表選手>

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昭和11年10月15日に行われた水泳大会。京都府立京都第一高等女学校(現・鴨沂高校)プール棟前にて。

「この写真は、日本人女性初の金メダリスト・前畑選手が来校された時の写真です。前畑選手は向かって一番右、その他の選手は、府一出身の先輩たちですね。」

「ベルリンオリンピックからの凱旋帰国のあと、府一のプールで水泳大会がありました。そこで模範水泳が行われたんですが、金メダリストの前畑選手を始め、残念ながら予選敗退された府一の先輩方も一緒に泳がれて、その様子をみんなで観戦したんです」

「ぐいぐいと目の前で素晴らしい泳ぎを見せて頂き、さすが金メダリストの選手の方だとみんなで感動しました」

「そう、目の前であの、今をときめくスター選手が泳ぎを披露されるという事なんだから、みんな大興奮でしたよ」

「私たちの時にはもちろん、水泳の授業がありました。常時温水プール、という事で、水温が夏も冬も一定に保たれているという事ではありましたが、冬ともなるとさすがに冷たくてね。ブルブル震えながら水泳したのを覚えています。泳げる人は25mを、泳げない人はへりにつかまって短い距離を泳ぎました。体が冷えきって、その後で1階にお風呂があったんだけど、そこは40度位のお湯だったから、生き返ったみたいにとっても気持ちよかったわね」。

<府一の恒例行事・適応遠足>

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昭和12年11月の適応遠足。四條畷にて。

「府一では恒例行事だった適応遠足というものがありました。これは一番長い距離で40キロの道のりをただひたすら歩いて目的地まで到着するというもので、大阪や奈良、滋賀県など、その人の体力にあわせて、参加するものでした。そして最も長い距離の40キロの適応遠足を毎回全制覇すると、白馬登山の権利が与えられる、というもので、それに参加出来るということは校内でとても名誉な事だったんです」

「私は適応遠足を全制覇したので、白馬登山の権利を得ました。白馬登山に挑むにあたっては、その前に特訓として、比叡山をノンストップで登頂するという最後の難関が与えられました。雲母坂から登頂するんですが、道中はやがて道なき道となって、獣道、そして崖のような所をどろんこになりながら登ってゆくんです。あれは辛かったですね!」

「家の玄関に辿り着いたとたん、ばったり倒れ込んだものね」

「私は滋賀県の彦根までという距離の適応遠足に参加していたのだけれど、到着すると帰りはみんなで電車に乗って帰るのね。けれど同級生で織物会社のお嬢さんは、お父様が車で駅までお迎えに来られて、それに乗ってお帰りになられたわね。当時、京都市内で車をお持ちのお宅なんてなくて、市内でも車が走っているのを見るのはほとんど無かった時代だったから『うわあ』って、ただ凄いなあと、その走り去る車の姿を見送ったものです」

「そうね、車はほんとに珍しかった時代だったわね。でも、そう言えば当時、島津さん(島津製作所)が、今の北白川別当町のバブテスト病院にお屋敷があってね、電気自動車を造られてお持ちだったの。私は近所だったからそれを時々道で見ましたよ」

「今でこそ電気自動車なんて言い出すけれど、考えてみればあの当時にそんな車を走らせていたなんて凄い事だったわね。もちろん、今から思えば車なんか乗らずに走る方がはやい位のスピードだったように思うけれど、でも、あの坂道を電気の力で登れるんだから、凄い事だったわね」。

白馬登山⑧ 白馬登山⑤

白馬登山

<臨海学校の思い出>

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浜詰臨海学舎にて。昭和13年7月。

「府一で楽しかった思い出といえば、臨海合宿でした」

「私の時代には戦争がいよいよ大変になった頃で、そこでお芋などの栽培をしたりしました」

「女学校に入学してまもない頃の最初臨海合宿。まだ12歳でしかも初めて親と離れて過ごす2、3週間という事だったので、汽車に乗る時にはつい、悲しくて私は泣いてしまいました。けれど、何日かそこで過ごすうちにとっても楽しくなってね」。

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浜詰臨海学舎にて。昭和11年8月。

浜詰臨海学舎

現在の京丹後市網野町に府一臨海学舎「浜詰臨海学舎」があった。

昭和16年勤労奉仕

昭和16年。食糧難による勤労奉仕にて、ここで芋栽培を行っていた。

<鈴木校長先生の思い出>

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前列の向かって右から5人目が鈴木校長。昭和10年。

「府一では随分長いこと(大正末から府一最後まで)、校長先生をなさっていた方でしたね」

「私は講堂で『教育勅旨』をお読みになっている姿くらいしか、印象が無いわね」

「娘さんも府一の生徒さんだったわよ。残念ながら、もうご存命では無いそうですが・・・」

「私の母親世代は『博也校長先生』と呼んでいたそうで、その頃はまだお若かったんでしょうね。その後、私たちは勿論『鈴木校長先生』とお呼びしていたけれど。鈴木校長先生は適応遠足を取り入れたり、教育環境を改革したり、また優秀な教師陣を獲得したりとたいへん実力のある方だったんだと思います。それに、校舎もあれだけの設備を誇ったものを造るのですから、その予算を通す事に尽力され、またそういう予算を獲得する実力のある方だったんだなと思います」

「鈴木校長先生の前任者の大石校長先生は、奉職中にお亡くなりになられたのよね。私はその先生は拝見した事が無かったのだけれど、その先生の頃にはもう少し、府一はゆったりとした教育内容だったんだとは聞いています。その当時にもおられた先生に、大石校長はどんな方だったのかをお尋ねした時、とてもゆったりと間合いをとった話し方をする人で、その様子を、『まるで牛のよだれのような』、という表現をなさったのが今でも印象に残っています」。

<府一の自慢・スタンウェイピアノ>

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京都府立京都第一高等女学校(現・鴨沂高校)の講堂で行われた卒業式の様子。中央のグランドピアノはスタンウェイ。

「当時はあれほどの高級ピアノがある学校は、京都の中でも府一だけだったので、とっても自慢のピアノでした」

「私たちの頃は、あのピアノは大切に保管されていて普段はカギもかかっていて、生徒が常、自由に弾けるという環境にはありませんでした」

「戦後は京都市内にあれだけのピアノを保有していて、また音楽ホールも無かったことですから、校舎の講堂ではたびたび、音楽会が開催されていたんですよ。クロイツァー(注/レオニード・クロイツァー。ドイツと日本で活躍したピアニストで指揮者。門下生も多く、国内で多大な音楽的影響を与えた。)を始め、大変著名なピアニストもあのスタンウェイで演奏会を開かれた事があるんですよ」

「私は卒業後、現在の東京芸大(当時は専門学校であった)に入学し、ピアノの指導を職業としましたが、そのピアノとの出会いはこの府一であったと言っても過言ではありません。小学校の時は、周囲にはクラスでも一人か二人ほどしかピアノを習っていなくて、府一に入学すると、大勢、ピアノを習っている人が居てね。そこで比較対象がようやく出来るようになったんです。勿論、自分がどれだけ弾けるか、という事もね。どの先生に習っているか、あの先生は教え方が素晴らしいなどという事も。鈴木校長先生がお呼びになられた音楽の先生も大変素晴らしい指導者でしたし、府一には特別、音楽科などと特記したコースがあった訳ではないけれど、卒業生でピアニストになられた方も大勢いらっしゃいます」

「その後、現在の鴨沂高校にあるスタンウェイの姿は、久しぶりにその姿を見た時には大変心が痛みました。いつからいったいあんな場所に放置されてしまったのか・・・塗装もはがれて鍵盤もボロボロ。あんな西日の強くあたる、講堂の外に放置するなんて考えられません」

「私も、あんな姿のピアノはこれまで見た事がありません」

「所有者が分からないという事で修理出来ないというお話だそうですが、私たちの時代から学校にあったのは事実。修理して大事にしなければならないと思います」

「専門家の人に言わせると、あの時代のスタンウェイは修理すると驚くべき回復力を持っているという話を聞きます。それらを大事にするという心を多くの人間が持つという事が大前提ですが、あのピアノも女学校から鴨沂高校へと至る大切なものです。きちんと修理し、その後しかるべきメンテナンスを行われる事を希望します」

<集合写真などと共に>

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「当時の女学校は、入学したら5年間は同じクラスのままで進級するのが普通でしたが、府一では1年毎にクラス替えが行われましたので、ずっと同じ友達と過ごすのでは無くて、いろんな人と交流出来たのも特徴でした。まさに卒業するまでにお友達が5倍に増える、という事だったんです」

「私が入学した昭和10年というと、プール棟と体育館は既に完成していて、校舎本館は建設の最中でした。ですので、授業はというと、すでに完成していた北側の特別教室棟側で授業が行われていたんです。調理実習の試食室とか、音楽教室とかでね。私の過ごした府一時代というのは、戦争の影響を受ける事もなく、ただひたすら楽しく美しい日々だったと思い出します」

「新しい校舎の完成は、私たちにとって大変自慢でしたしまた誇りでもありましたね」

「木造の平屋建ての、当時は『行啓記念館』と言った建物では、お作法の授業を行いました。お茶室は私たちの時には授業などで使う事は無かったけれど、あのお茶室の改修費のご寄付と改修に直々にあたられたのが裏千家のお家元であるのは、当時、お嬢さんが府一に通われていた事もあってのことでしょうね。そう言えば表千家のお嬢さんも、府一に通われて居られましたよ」

「とにかく、掃除ばっかりさせられていましたね。ですから、校舎は内も外もいつもピカピカ。その後、戦争が激しくなって軍需工場となってあそこで飛行機の部品を作っていたにもかかわらず美しいままでした。終戦になって教育改革で男女共学になると、それまで上履きだったのが土足になって、男子学生たちが大騒ぎしてあっというまにボロボロにされてしまいましたね・・・」

「戦争が終わって物事の価値観がひっくり返りましたからね。当時の日本人は色んな規制に縛られていましたから、若者ともなれば、エネルギーが有り余ってますでしょ。戦争が終わって、それっ!て事で、校舎が大騒ぎになったのも今となれば分かるような気がします。いろんな学校から、一気に生徒が溢れんばかりに集まりましたからね」

「私は戦後最後の昭和21年に入学しましたので、この校舎で過ごしたのは3年ばかり。学制改革でしばらくは色んな学校が統合を繰り返して、一時期には校舎正門に6つもの校名の看板が掲げられていた事もありました。午前と午後に女子、男子と校舎を分けてつかったりして、その後男女共学となって、なんだか大騒ぎで私は楽しく思いましたよ。ところが、学校が地域性となってしまって、私は住んでいたお家が洛北学区だったので、洛北高校に編入する事になってしまいました」

「私は昭和12年に入学したので、だんだんと日本が戦争の陰を落とす日々が近づいてきていた頃でした。翌年に図書館が完成した頃のことです。学内におられる先生も、新しく赴任された方はそうした時世の中で厳しく監視するような体質の先生がおられるようになりましたね。また、そうした先生が目を光らせるようになると、学内の雰囲気もそういう雰囲気に影響されていって、厳しく監視する先生にとりいったり、告げ口する生徒も出て来たりで・・・私はとてもその雰囲気がイヤでした。上級生になるとそれまではおかっぱだった髪型も、後ろでふたつに結ぶようになって、髪を決して切ってはならない。時々抜き打ちの検査があって、定規をあてて髪の毛を切っていないかチェックされたり、スカートの長さなど、違反が無いか厳しく言われるようになりました。やかましく言われる事に従うしか無かった時代でしたが、はいはいと言う事を聞きながら、うしろでペロッと舌を出しているような、そんな過ごし方をしていましたね」

「ただ、戦後、当時の先生方とお話すると、先生方も戦時中は相当に規制に縛られて大変であったとの事をお話されていました。私たちに言う事をきかせたり、規則で縛るどころでない、先生方も大変な目に遭われていたんだという事がのちに分かりましたね」

「鈴木校長先生は、きっと戦時教育の責任をとらされたのか、気が付かないくらいに静かに退任されていて、新制鴨沂高校となって片岡校長先生が赴任されてこられました。私たちの印象では決して、そうした教育に先陣切って加担されていたという印象はありませんでしたが、そういう政治的判断が当時、成されてしまったんだと思います」

「当時は例えば映画館に行くのも父母と一緒でないと駄目、例え兄弟であってもそれが男兄弟であれば一緒に並んで外を歩くのも駄目。外出時には必ず制服を着るように言われるような時代で、寄り道してお友達となにか甘いものでも食べる、なんて事ですらとんでもない時代。学校が終われば、ひたすら真っすぐ帰路につくんです。もっとも、戦争が激しくなる頃には通学に電車など使うのも制限されたので、私は北白川から学校まで通いましたから、結構な距離です。毎日毎日、学校と自宅の往復の日々でしたけれども・・・。なにせみんな、結構な距離を毎日歩いて通っていましたね」

「どうやら、今の時代になって世間ではまた、制服化される学校が出来たり、色々と厳しく校則が設けられたりするようになったと聞いて、それは大変驚きですね」。

校内清掃・昭和15年頃校内清掃の様子。

<北運動場の写真と共に>

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昭和11年5月。京都府立京都第一高等女学校(現・鴨沂高校)北運動場にて。

「この写真は北運動場で行われた園遊会の写真ですね」

「普段はここで体育授業を行っていましたが、体育祭となると植物園のグラウンドまで、みんなでゴザなどを抱えて移動して、運動会を行いました」

「この運動場で朝礼などが長引くと、日射病で次々、女学生が倒れてね。その度、地下道の上屋のベンチまで運ばれて、その日陰でしばらく休まされていたものですよ」

「この運動場のプール棟と体育館を壊した所で、小学生の運動場くらいにしかならないでしょう。それよりも今後は必ず、付近で鴨沂高校のグラウンドを確保すべきです。男女共学ならなおのこと、クラブ活動も、私たちの頃には無かった野球とか、サッカーとか、あるのでしょう?あの運動場の狭さでは、そんな部活動が出来る訳がありませんね」。

「私たちの頃ですら、体育祭は外のグラウンドを借りたんですからね」

「御所にあった、現在は寺町側の駐車場になっている場所は、元々は府一の専用運動場でした。あの運動場は、御所側に返還されたんですね・・・ではなおさら、グラウンド面積は、足りませんね」

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昭和11年 体育大会にご台臨の久邇宮多嘉王妃殿下と恭仁子女王殿下

 _MG_4756植物園グラウンドで行われた体育祭での1コマ

昭和12〜17年/体育祭(植物園グラウンド)

体育祭ではこうして生徒が必要な備品などを運んで行われた。

<校舎の写真を記憶と共に>

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「校舎もあと20年も経てば築100年の歴史を迎えます。府一は、女紅場から続く、日本で初めての公立女学校であり、教育の歴史を伝える貴重な場所と言えます。ですから、あの校舎は文化財指定を受けて、今後も保存されるように願っています」

「ヨーロッパではそうした古い建物を、外観はそのまま残して内観は新しくされるという事例が数多くあります。あの校舎も、内部は色々と傷んでいたり、当初とは様子が違う事もたくさんありますし、私たちの居た頃の状態と同じであるとは言えません。廊下の天井にはあんな線など無かったし、ああいうものは改修して屋根裏側に埋め込むなどしたり、教室も今様に工夫されて改修されれば良いと思います。すり減った階段が今の若い人達にはあの様子が女学校の名残であると誇りにされていると知って驚きもあり、また嬉しくも思いますが、足下が危険でもあるので、張り替えを行うなどの修理もされれば良いと思います。ただし、あの校舎の外観はデザインもとても優美で堂々としていて、当時から残るあの姿が無くされてしまうのは違うと思います」

「あの建物の頑丈そうな姿が、とても地震で壊れるなど、信じられないですね」

「先ほどのヨーロッパのお話ですが、戦争中には多くの爆撃を受けて、各国は壊滅的な被害を受けました。今、私たちが目にする事が出来るヨーロッパの古い街並というのは、戦後、そうした瓦礫を欠片ひとつひろって、もう一度元通りに再生されたものが多いのです。そうした事も出来るのですから、私たち日本人も、日本の大切な文化や景観を保存すべく取り組まなければならないと思いますし、また現在の鴨沂高校校舎も、ただ危険であると言って全て壊して無きものにするのはおかしいと思います」

「傷んでいるからといって、もうなおせない、壊すしかないというのは、改修出来る可能性を想像出来ない事が原因でしょうね」

「現在おられる生徒数は、当時やまた、最盛期よりもずいぶん減っている筈ですから、校舎を残して空間の工夫を行う事は可能な筈だと私は思います」。

2014年5月28日

 

 

語り継がれなかった鴨沂高校の魅力。卒業生による幻となった寄稿文。

<鴨沂高校への受験希望者に向けて語りかけた、幻の文章>

以下の文章は、昨年の2013年に行われた、受験生向けの鴨沂高校オープンキャンパスにて配布されるパンフレットに掲載依頼のもとで卒業生が寄稿され、しかしながら学校側から採用されなかった「鴨沂高校の魅力」について語られたものです。

この度筆者の文章公開及び氏名公開の了解を得て、以下の通りシェアさせて頂きます。

↓以下全文。

 

高校生活は、演劇部漬けの毎日でした。

鴨沂高校に入学したきっかけは、「私服」というところ、そして、「自由」な学校というところです。正直、最初は演劇部に入ろうと思えなくて、当時の演劇部はあまり熱心な活動はしてなかったようです。けれど、なんだかんだと演劇がしたくて演劇部に入って、気づけば、毎朝、部活のために学校に行ってました。授業が終われば、寄り道せずに部活に行きましたし、下校時間が過ぎても、先生にお願いして稽古をしたり、それができなかったら鴨川で稽古をしたりして、真っ暗になるまで稽古をしてました。部活ではしんどいことも辛いこともたくさんありましたし、むしろ辛いことのほうが多かったです。でも、頑張ればがんばった分だけ、自分に返ってくるのは確かでした。鴨沂の「自由」はそういう「自由」です。何かやれば、その分返ってきます。学園祭がそうでした。いろんな催しを、自分たちで作れちゃいますので、どうぞお楽しみに。「やりたい」といえば、先生たちがなんとか実行できるように頑張ってくれます。鴨沂ってそういうところです。めんどくさいことも、しんどいことも、ちょっと頑張ってやってみると、思いがけず楽しいものになります。「楽しい」っていうのを自由に作れるところです。私の「楽しい」は部活でした。

大学生活の中で、高校で培ってきたいろんなことが、本当に役立っています。京都造形芸術大学舞台芸術学科演技・演出コースに通っていますが、私の大学では「コミュニケーション能力」が必要です。そしてなにかを自分で考える力、実行する力が大事な学校です。最初は不安で、最後まで高校を卒業したくなくて、大泣きしたんですが、「楽しい」を作る力のおかげで、今では毎日毎日楽しいです。

真面目に勉強だけするなんて、鴨沂高校じゃありません。授業でノートをとる行為や、テストのために勉強したりすることは、ちょっと視点を変えるとプラスになります。先生はそのプラスを見ていてくれます。なので、毎日楽しく過ごせます。

授業や部活や学園祭や委員会や、高校生活を送る毎日の中で、社会に出る力、自分を磨く力を身に着けていける、それが鴨沂高校です。

 

京都造形芸術大学舞台芸術学科演技・演出コース 1回生  藤崎沢美

(※文章作成時は2013年ですので、現在は同大学・2回生)

 

2014年2月16日にKyoto演劇フェスティバルで上演された演劇部「S.」はこちら10471377_731818120194532_200377221_o

http://www.youtube.com/watch?v=km2zzAqk2Hs

卒業生インタビュー/ピアニスト・有吉須美人

アメリカ・シカゴを拠点に、世界中のブルースファンを魅了するピアニスト・有吉須美人さん。遠く海の向こうから母校・鴨沂高校への思いを語って頂きました。タイトルは、鴨沂高校の前身である女学校・府一出身のエッセイスト寿岳章子さんの著作から。70年代初頭の鴨沂高校の記憶と共に、自身に影響を与えた学風などが綴られています。

                 ♢

『過ぎたれど去らぬ日々』

<「ブルース」という黒人音楽との出会い>

 私が鴨沂高校へ入学したのは、高度経済成長時代が終焉して安定成長期に入った1973年でした。実家が京都大学の傍だったので、70年安保闘争の学生運動の盛衰を間近に見ながら小・中学校を終えます。また、父親が社会科学系の専門書の出版で知られる「有斐閣」に勤めていたためか、子供の頃から、「反体制」的なものへの憧れがあったのでしょう。それは、大きなものに対峙する側に身を置きたいという、「判官贔屓(ほうがんびいき)」のような弱者への共感だったのかも知れません。

 中学からフォークギターを始め、鴨沂では自然と民謡研究会へ入部しました。世の中に安保闘争の名残はあるものの、彼らと連帯していたフォーク界の中からは、吉田拓郎や井上陽水などが商業的な成功を収め始め、続いてニュー・ミュージックの旗手として荒井由美(松任谷由実)などが登場します。 「売れたらダメ」という近視眼的な思い込みは、デビュー当時の拓郎を深夜放送で聴いてコピーしていた私を、よりマイナー指向にしていきました。

 そんなとき民研の三年生の先輩二人が、「お前ピアノ習ってるらしいな。ほなこれコピーできるか?」といって、一本のカセットテープを渡してくれました。16歳の秋、高校一年生の私と「ブルース」の出会いでした。

 3歳からクラシック・ピアノを習ってはいたものの、楽譜に縛られるのが嫌で次第に落ちこぼれていった時期でした。そう言えば聞こえはいいのですが、要は、譜面をこつこつと辿る地道な努力から逃げていたに過ぎません。ところがそのテープに入っている音楽は、黒人特有のしわがれた唄声にスライド・ギターがギャンギャン鳴る隙間を、カンカンカンとピアノ音が抜けていく単純なもので、クラシックで音感が鍛えられていたためか、直ぐにコツらしきものをつかむことが出来たのです。しかも楽譜のようなものはなく、キーに「合う」鍵盤を自由に弾いて良い。ピアノに劣等感を持っていた私の世界が広がり始めます。

 アメリカ南部の黒人奴隷を源流とする「ブルース」は近代音楽のルーツとも呼ばれ、虐(しいた)げられた黒人の魂の叫び溢れる内省的な歌詞の多い音楽です。”Blues” の語源が、「憂鬱」という意味である “Blue” の複数化したものといわれるように、その調べは暗く憂(うれ)いがあります。マイノリティへの思いは、周りが誰も演っていないブルース・ピアノの可能性と共に、自己のアイデンティティを意識することと重なっていきました。

 結局その先輩たちとは、ギター二本とピアノで作ったデモテープを京大の11月祭事務局へ持ち込み、本部講堂のイベントで、「翼をください」で有名だった「赤い鳥」の前座を務めることになります。しかし翌年、三年生が卒業すると、民研内で音楽的に気の合う仲間は出来ず、またギターの弾き語りに戻ってしまいました。

<鴨沂の校風を愉(たの)しむ>

 鴨沂へ入ると先輩方から様々な教えを受けます。足が早く中学から陸上部だったので、私を否応無しに入部させた先輩からは「部室でのデートの仕方」。自主的に入った民研の先輩からは、「先生が見回りに来ない穴場の喫茶店」。執行委員に選ばれて入った生徒会の先輩からは、「出欠カードの欠席理由記載の工夫」等々です。

 遊ぶことやさぼることばかりで、とんでもないとお思いかも知れませんが、多少羽目を外しても節度のあった彼らの素行が大きな問題になることはなく、時期がくればやることをやって進学・就職をされていました。田代校長を始め、先生方も無理に管理しようとせず、生徒の人格を尊重して自律を促す対応を心掛けていらっしゃったと思います。

 二時限単位の授業を選べるカリキュラム制、普通科・商業科がミックスされたHR以外は、講座ごとの教室移動、生徒会主催のアセンブリー、銀座通りの本日の休講欄など、私服の近衛出身とはいえ子供扱いされていた私の中学時代とは違い、生徒を含め大学のような雰囲気がありました。

 そういった先輩や先生たちが、その制度や校風とともに正門や図書館、温水プールに地下通路、上村松園らの絵画などを紹介するときに見せたのは、鴨沂高校の職員・生徒であることの誇りです。

 もちろん洛星高校や教育大付属ほどではありませんが、当時はまだ進学校としての評判が残っていたので、マスコミの取材や全国の高校関係者からの視察がありました。塾へも行かず、参考書も使わず、学校の授業と教科書の勉強だけで、京大に現役合格した女生徒が週刊誌に取り上げられたばかりの頃です。昼休みにみんなが校外へ出て行くのを見た他県の先生が、『「みんな逃げていきます。あの生徒たちは本当に戻ってくるんですか?」と驚いて質問していた』と笑いながら教えてくれた先生の口ぶりには、 私たちへの深い信頼がありました。

 自律性を伴った自由で自主的な伝統や過去の進学実績は、自分が自分でいられることへの自信を持たせてくれました。ところが、高校受験まで素行や勉強で親に心配をさせたことのなかった私は、その「ぬるま湯」にどっぷりと浸っていきます。さぼる要領を覚えた二年生になると陸上部も辞め、民研とも疎遠になり、留年した年上の生徒とつるみ出して、校外に楽しみを求めるようになりました。

<思い出に残る素晴らしい恩師たち>

 育った地域・家庭環境のため、自然と大学への進学を希望していましたが、在学中、それに見合った準備を始めることはありませんでした。

 受験とは合格するための技術の養成であり、時間を有効に使う、ある種の割り切りと打算です。ここでもクラシック・ピアノで落ちこぼれた時と同様、 単語、構文、年号、公式、化学式などの暗記を基本とする、こつこつとした積み重ねを厭(いと)う、性根の弱さが露呈します。ただ、自己弁護をするなら、好きな勉強は進んでしたし、それなりの評価は得ていました。

 日本史の片岡秀計先生は、受験生のバイブルと謳われた「チャート式日本史」の主要執筆者で、先生のテストで80点を取れれば、東大・京大で90 点を保証すると豪語されていました。実際の考査は小論文を選択することも出来たので、私はそれで「物事を深く掘り下げ、論理的に考察する」力を養いました。

 音楽の田畑先生からは、コードの成り立ちなどの基礎理論を学びます。クラシックや文部唱歌の印象しかなかった音楽の授業ですが、さまざまなジャンルへの理解を示す先生によって、それまで漠然と音を合わせて叩いていた私のピアノ演奏は劇的に変わっていきました。特に男性特有の力強いタッチで、 華麗なアルペジオや隣り合った半音を上から下まで繋げるクロマティック・スケールなど、メロディに沿って自由に伴奏する先生のアレンジに鳥肌が立った感動は、今でも鮮やかに甦ります。

 他にも、ユニークなおばさん先生の数学や、ロマンを語る現代国語に古典らしい古典など、退屈しない授業もたくさんありました。「受験など、どんなに忙しいときであっても、オリンピック、サッカーのワールドカップなどは必ず観なさい。そこには人類の感動があり、あなたたちの人間性を豊かにしてくれます」という鈴木副校長の言葉は、鴨沂高校の教育理念に則ったものでした。

<最終学年での疎外感>

 日本のライブハウスの創生期、「拾得」「磔々」が生まれた頃です。京大学園紛争の文化的拠点であった西部講堂などが中心となり、関西ブルースが盛り上がっていました。全国的には、「上田正樹とSouth to South」「憂歌団」「ウエストロード・ブルースバンド」などが活躍していました。

 出入りしていた荒神口の「よしや楽器」を通じて知り合った大学生や社会人のミュージシャンたちから、ギターよりピアノを求められることの多くなっていた私は、彼らとライブハウスや学園祭に出演し始めると、気分はもうセミプロです。同級生たちが急に子供じみて映るようになり、出席率の下がった学校では浮いた存在になっていくのを意識します。ある部分だけ早熟した、理屈っぽく自己主張の強い、生意気な高校生だったことでしょう。

 それでも進学を辞め音楽で身を立てていく気概は生まれませんでした。ブルース系は所詮マイナーであり、私の音楽が職業になるとは頭から想像していなかったからです。また、それを言い訳に、挑戦することを避けたのかも知れません。好きな文学の勉強でもしながら大学に残り、趣味で音楽を続けられればいいなと、漠然と甘い将来を思い描いていました。

 三年生になった最初の授業がなんだったのかは思い出せません。ただ、その授業を選択したのは国立系進学志望者のみだったのでしょう。教室の雰囲気は、それまでの学年とはガラッと変わっていました。みんながみんなではありませんが、そこには真剣に受験する者の張り詰めた態度があったのです。

 そのとき私は初めて、現実に直面したのだと思います。周りを見渡せば、就職組も含め、進路をこれと決めた者の落ち着きが感じられました。校外で付き合っている年上と同じ目線で大人ぶっていた自分は、同級生より子供だったと思い知らされます。かといって自身が変わることはなく、志望校に臨む覚悟を持たないまま、自堕落になりつつある高校生活は続いていました。

 同級生が変わっていくことを認める寂しさは、自らが生み出した疎外感です。新しいモノにすぐ目を奪われ、人の付き合いもどんどん変わっていく。それは見る景色が変わっていっただけで、自分が成長したと勘違いしていたのです。もちろん18歳の私に自己分析をする力などはなく、ただ内面に憂鬱な影を抱え込んだまま、感受性だけが豊かになっていきました。

<鴨沂高校卒業生としての挟持(きょうじ)>

 卒業後もダラダラと二浪した挙げ句、志望していた大学へ進むことは出来ず、好きな日本文学が勉強できるというだけで地元の私立大学へ通いました。それとは逆に、私のあとに続いて鴨沂へ入学した二人の弟は、クラブ活動も勉強も充実させ難関校を突破します。

 学校でも家庭でも追いつめられていましたが、自己嫌悪になったり、自己否定をすることはなく、将来の可能性に対しての自信が衰えることはありませんでした。「自分もやれば出来るんだ」という、やらなかった人間の言い訳ではなく、鴨沂高校でみんなと同じスタートラインから出発し学んだという事実が、自身の誇りや自信になっていたからです。

 高校入学の10年後である26歳の夏、その力はようやく発揮されます。

何となく教師を目指していたものの、大学を出てもモラトリアムは続いていました。そこで、教員採用試験を受ける準備を真面目にするために音楽活動を休止し、邪念を捨てようと思いました。1983年の7月、一緒に演っていたバンドのメンバーたちから誘われたシカゴ旅行で音楽三昧することを、その最後の機会と考えたのです。

 ブルースのメッカと呼ばれるシカゴは、街中に数十のブルースクラブが点在し、世界中からブルースファンが集います。ブルースは黒人文化であり、非アフリカ系のアメリカ人でさえない日本人が、そこでミュージシャンとして生きていくことなど、想像すらしませんでした。ブルースの本場で本物のブルースマンを生で観て、出来れば一緒に演奏をして「良い思い出」にしよう。ただそれだけを目的に渡米します。

 ところが、英語や音楽情報など、あらかじめ準備をしていたバンド仲間と違い、安易にくっ付いて行った私は苦手な英語に苦労して途方に暮れます。仲間がいないと何も出来ないのです。大人でありながら、言葉が分らないだけで文字通りひとり歩き出来ない。高三で味わった疎外感とは比べ物にならない、無力感を伴った自己への、生まれて初めての懐疑でした。

 それまで自分は、親や学校の先生、地域、ひいては日本という国の庇護の下で、如何に甘えて暮らしていたのか。そうなると、ブルースを楽しむどころの話ではありません。言葉だけのことでアメリカに負けたくない。自らの存在を自らに証明しなければ、この先の自分の人生はあり得ない。そのためには旅行者としてではなく、この国でまず自立して生活できるようにしようと、「目標を掲げ成し遂げる決意」を終(つい)にします。

 事情を説明して仲間とは別れ、住み込みの日本レストランで昼はウエイター、夜は厨房助手として働き始めます。辞書を片手に新聞の単語をコツコツ拾い、週末になると町へ出ては見知らぬ路上生活者に話しかけて英会話を覚え、クラブで知り合ったブルースマンを訪ねて、黒人のスラム街へも一人で出掛けました。そして同じ年の暮れ、東洋人の飛び入り演奏を観ていた有名ブルースマンのツアーに誘われ、夢にも思わなかった私のブルース・ミュージ シャンとしての人生は始まるのです。

<来(こ)し方、行(ゆ)く末>

 これまで30年以上、暖かく見守ってくれた両親やいろんな方の支えもあり、好きな音楽だけで生活してくることが出来ました。

 回り道はしたけれど、それがなければここに辿り着いたとは思えません。価値観、物の考え方、人格の形成などは、本人の資質や家庭環境・人間関係などの影響が大きいでしょう。しかし、こと学校教育においては、鴨沂の三年間で、後の生き方を模索する意識が萌え立ちまし た。

 時勢に流されず、自分らしさを失わず個性的でいられる。難関校現役合格者もいれば留年組もいて、定時制を含め多様性溢れた豊かな教育のお陰で、今の私に至っていると確信しています。

 かといって、自分の時代の鴨沂を一律に美化したくはありません。

 伝統や校風、教育制度を批判する人たちが決まって持ち出すのは、京大の現役合格者数を中心にした有名大学への合格者減であり、それは同時に、京都の公立高校全体への評価ともなりました。進学志望の生徒だけではないし、進学率のみをその基準とすることに抵抗はありますが、世間がそうみているのは理解できました。少し前から全国で蔓延していた無気力・無関心・無責任という「三無主義」は、私たちとも無縁ではなかったからです。

 自主性を重んじるばかり、厳しく指導できない。公平性を保つため、学習到達度別のクラス選別、受験に特化した授業ができない。そういったジレンマに、当時の先生方は悩んでおられたことでしょう。

 受験の失敗を校風や制度のせいにするのは簡単です。それでも、難関を突破した生徒がいたことを考えると、やはり私は鴨沂を裏切り続けてしまいました。なぜあのとき自分を試す覚悟ができなかったのかと、学歴が話題になると、それがトラウマとなって、今でも忸怩たる思いに苛まれます。ただそれらを含めたすべてが、自分がここまで来た道であると納得して受け入れているのです。

 去年、母校の全面改築の計画を知り、またそれに対して、歴史的な校舎などを保存して欲しいという運動があることも知りました。海外在住のため、インターネットなどを通じて断片的な情報しか得られませんが、在校生のグランド確保のことなど、問題は改築か保存かだけではなさそうに感じました。

 たとえOBであろうが、これまでの経緯や科学的な根拠などの実状を知らないで、感情論・心情論の保存を言うと無責任になるので控えますが、自分なりに調べて気になることがひとつありました。Youtube に音声がアップされていた現校長先生と生徒たちの会話です。

 生徒たちの疑問に、忍耐強く、ひとつずつ丁寧に応える校長先生の態度に誠意は感じますが、その説明は、まるで行政や業者の代理人のようで、最後は、「そう決まったことだから」の一点張りだったのが残念です。管理・監督する立場は分りますが、私の知る鴨沂高校とは、校長を筆頭に生徒の立場に立ち、生徒を守り、ことあらば文部省とも戦う先生方が圧倒的多数で、それが伝統・校風を受け継がせていく力添えになったはずです。制服の導入と共に、改築されて普通の学校になっていくのでしょうか。

 みなさんの運動の成果で、一部でも保存されることが決まったことは朗報です。理路整然と校長先生に詰め寄る頼もしい後輩たちの声に刺激され、私も過去の自分とじっくり向き合うことができました。

 遠い地に住み、懐かしい故郷を偲ぶときは、風情ある古都の町並みと共にあの学び舎がいつも出てきます。それは感傷的な思い出だけの外観ではなく、私自身の歴史の象徴のひとつだからです。

 一人でも多くの鴨沂高校卒業生が、誇りと自信に満ちた人生を悔いなく送れるよう願ってやみません。

                               有吉須美人 ピアニスト

<プロフィール>

有吉須美人 1976年(昭和51年)卒業。

世界のブルース・ファンの間では、Ariyo(アリヨ)の名前で親しまれている。

1983年渡米。”Jimmy Rogers Blues Band”に加入。全米/カナダをツアー。

1985年、”Robert Jr.Lockwood”の日本公演に参加。(P-VINEよりDVD)

1986年、”Valerie Wellington Band”に移籍。翌年、世界最大のブルース・フェス『シカゴ・ブルース・フェスティバル』に東洋人として初めて出演。

1988年、”Otis Rush”ヨーロッパ公演に参加後帰国。日本ではソロ活動や自己名義のバンド”Ariyo’s Shuffle”を率いる傍ら、憂歌団、ウエストロード・ブルースバンド、近藤房之助、上田正樹、甲本ヒロトらとセッション。

2000年再渡米。グラミー賞に三度ノミネートされたビリー・ブランチのバンド、”Billy Branch & The Sons of Blues”に加入。

2003年、2007年『シカゴ・ブルース・フェスティバル』

2005年『シカゴ・ジャズ・フェスティバル』にソロ出演。

レギュラー・バンド以外に常に3-4バンドの掛け持ちをしていて、アメリカのみならずヨーロッパのミュージシャンのレコーディングに参加することも多い。最近は単独でヨーロッパや南米から招聘され、年間200本前後のライブをこなしている。

・今年発売されたCD、”Blues Shock” (Billy Branch & the Sons of Blues/Blind Pig Records)は、ラジオ・チャートの「ルーツ・オブ・ミュージック」部門で全米3位にランク・イン。自己名義の曲もイリノイ州の24位に。

・ソロ名義での代表CD “Piano Blue” (P-VINE)