京都府立第一高等女学校における最後の入学生である、昭和21年年度の皆さん。今回はこの、最後の女学校から昭和23年以降の新制高校・京都府立鴨沂高等学校時代をお過ごしになられた7名の方より、2014年7月18日に鴨沂会館にてお聞かせ頂きました内容をお届けします。
冒頭写真は、当時記念になるような写真などが無かった時代において、恩師の先生方から頂かれた寄せ書き。記念に配られた、写真の一枚も無いアルバムの中表紙に書かれたものです。
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<入学された昭和21年の様子はどんな時代だったか>
「私たちは昭和21年という終戦間際の頃に京都府立第一高等女学校に入学しました。この頃の入学試験は『口頭試問』という、つまり面接試験だったのですが、後で聞けば、当時は試験用紙にする紙も無かったから、というのが理由のようでした。」
「紙どころか、もう、私たちの頃は何もかも無いという時代でね。制服だってみんな、姉や親族のお下がりだったし、周囲にお姉さんなどが居られない方等は制服を調達するのに大変苦労されたと聞きました」
「なにせ道に草1本生えてないような時ですからね。何故、道に草が無いか分かりますか?もうね、みんな食べられるものは何だって食べた時代だったからですよ。」
「きっとあなたたちにはこの時代の事が想像も出来ないと思います。」
「食べるものは勿論、燃料だって無い時代ですからね。私の所では、家の下駄箱などを潰して、それを燃料にしたりしました。」
「着物やなんかは全部、農家さんまで持って行ってほんの少しの野菜に変わったりして。」
「バッタだって食べたんだもの。袋にいっぱい捕まえてね。袋の口をしばっておくとその中で糞をするでしょ。そしたらもう、毒じゃないから大丈夫なんて言ってね。」
「学校が終わったら一目散に家に帰る。放課後にぶらぶらなんてとんでもない。街は電気も通ってないし、夕方にはすぐ暗くなって、家に帰ったら手伝いが待っているような、そんな毎日でした。いつもお腹が減っていて、でも何も無くて。」
「放課後に立ち寄れるようなお店なんか、どこにも無かったですからね。本屋さんだって、本が無いんだから開いても無いんです。」
「とにかく、今の若い皆さんには想像も出来ないような時代に、私たちは小学校を出て、府一に入学したんです。」
「そんな時代だったから、当時の思い出が語れるような写真などはほとんどありません。わずかに、集合写真くらいかしらね、手元にあるのは。」
<府一の当時の様子と共に>
「教科書だって不十分でしたから、図書館はよく活用しましたね。」
「既にGHQが北運動場のプール棟や体育館を接収していたので、せっかくあった立派なプール棟は、全く使えず終いでした。体育館はGHQの居ない時間は使用出来たんですが、プール棟は常に、GHQの管理人が監視していましたからね。体育の授業では、北運動場と御所を利用していました。」
「年頃の女の子達を抱えているでしょう。先生方もとても、気を配られていたと思います。そう言えばプール棟から私たちの方を見ていたGHQが何か文句を言った時があってね。すると先生は静かに私たちを集合させて、さっと御所のグラウンドに誘導して、体育の授業をしたなんて事もありましたね」
「そんな物の無い時代に、PTAでバザーをしてね。お金を集めて学校の放送設備代を寄付したり、御所の横にある現在の駐車場になっている所を確保する交渉をしたりしてね。何せ、あそこは女学校でただでさえ狭い敷地でしょ。そこにGHQが運動場を占拠しているものだから益々運動する場所が無くてね。当時から色々苦労していましたね。」
「今と違って、イラストやなんかでしか外国人というのを見た事が無かった頃でしょ。だから、学校の北運動場をひっきりなしにジープでやってくるアメリカ兵を見て、みんな大きくて、恐ろしいような・・・。戦中は鬼畜米兵なんて教わって、恐いもんだ、恐いもんだと思ってきましたから。そう言えば戦後すぐの頃には登校停止もあったし、女子は外出禁止になったりね。そんな回覧板が回って来るような時代でした。」
「府一にはその頃、浜詰臨海学舎と、久津川農園と、それと嵯峨野にも農園を持っていましたね。浜詰に関しては、府一の不十分な運動面積を補う目的もあったのでしょうね。後に鴨沂高校になってからもしばらくは活用されていましたが、その後どうなったのかは知りません。噂では、一時どこかの塾か何かが買い取ったのか利用していたそうですが、今はそれも無くなったようですね。あれは確かに当時は府一のものでしたから、今から思えば贅沢な教育環境だったなと思います。一体いつ、誰がどこに売却したんでしょうね。」
「嵯峨野に関しても、いつの間にか知らないけれど無くなったみたいですね。」
「久津川や嵯峨野では畑作業をしていましたが、そう言えば・・・あそこで作っていたものを、ついに一度も貰った覚えが無いわね。笑」
「久津川農園に関しては、鴨沂会が父兄の寄付によって当時購入されたもので、それが戦後も長らく府一の鈴木校長先生の名義になっていたんだそうです。それが分かって、鈴木校長もそれはという事で、鴨沂会(※京都府立第一高等女学校・同窓会が前身の組織で現在は社団法人化されている)に返上されたんですね。そしてその土地を売却して得た資金で、現在の鴨沂会館(※鴨沂会所有)の新館側を建てる事が出来た訳です。」
「なにせ府一の歴史を紐解けば、毎年毎年、多額の寄付が学校運営などに投入されていましたから。プール棟も寄付金で建てられたものでしたし、その他にも多く、寄付によって造られたものがありました。そうした名義が鴨沂高校、つまり京都府の所管となったものか、それとも曖昧なままであったものか、はたまた鴨沂会のものになったかによって、その後の命運が分かれたという事はあるでしょうね。」
「今は京都文化博物館に所蔵されているという上村松園さんの『夕暮れ』も、あれも府一時代に上村松園さん自らがご寄付された絵画でした。私たちの頃は講堂に立派に飾られていたんですよ。男女共学時代になって、男子学生が校舎のあちこちを破壊して、このままではこの絵も危ないという事で、以降校長室に長らく置かれていたんですが・・・」
「とにかく、府一という学校は特別な学校であったという事は、私たちの世代にも勿論、周知されてきた事でした。府一の女学生が通りを歩くだけで近所の人が通りを出て眺めてみたりするような、そんな学校だったんです。戦後すぐの頃にも、現在の天皇が皇太子様でいらっしゃった頃に学校をご訪問されたりね。何せ、普通の学校とは違ったんです。」
「『西の学習院』とも戦前には呼ばれていたんですよ。宮様が代々に渡って通われてましたからね。」
「先生方も大変優秀な方が多くて、それは当時の鈴木校長がとても実力者で、色んな学校から優れた先生を引き抜きしていた、という話も聞きました。学生も優秀揃いだったから、1言われて10分かるようなね。そうした先生方は、府一が終わるとみなさん、大学の先生になられたりしてね、多くが学校から去られました。」
「あら、私は先生があんまり優秀過ぎて、何言ってられるのか全然分からなかったわ、笑」
「そうそう。私たちの2つ上の先輩に、女優の山本富士子さんがおられたんですよ。」
「あの方は元々大阪にいらして、そのお屋敷をやはり終戦になってGHQに接収されてしまってね。それで転校されて、山本さんは当時、京都の三条寺町にあったお家から、学校に通われてましたよ。」
「当時からもう、綺麗どころじゃない。別格でした。」
「寺町三条のお家から通われてるのを、同じ方角だった私は通学路で後ろ姿をよく、眺めていました。後ろにふたつに三つ編みにされて、それが揺れている姿をよく覚えています。」
「当時は学年毎にリボンの色が違って、1年生から3年生がえんじ色のリボン、4年生がブルーで5年生になると黄色と分かれていたので、誰が何年生かというのがすぐに分かります。なにせ先輩にはかしずくようにお辞儀するのが当たり前で、先輩に気軽に話しかけるなんて事は出来ない時代でした。先輩というと、こわくて、そして綺麗な方が多くてね・・・。思えば今と違って、小学校あがって間もない子と、高校3年生くらいの年齢が一緒の学校という事でしょ。そりゃあ、子供からお姉さんまで居るのだから、上下関係はとても厳しかったと思いますね。」
<昭和23年の男女共学時代を迎えて。>
「私たちの時代は子供の頃、小学校3年生までは男女共学で過ごして、その後は男女別で学校を過ごしてきたでしょう。ですから、最初の頃はとても緊張したものです。」
「男女共学になると言われて、それがイヤも良いも、私たちに何かもの申せる時代だなんてまさかなかったんですよ。ですから、私たち子供にとってはもう、寝耳に水というか、それは突然、何の事前説明も無しに上から決められた事として、『明日から男女共学になります』といった具合でしたね。」
「迎える側もそうですが、京都一中の男子生徒達も本当に大変だったろうなと思います。自分達の居た校舎を追い出されてね。彼らが自分達で机やなんかを運びこんで、府一の校舎に来られた日の事を覚えています。廊下に一中の荷物がたくさん積んであった光景をね。」
「男女共学になるという事は、私たちはまだ年齢で言えば今の中学生位ですから何とも言えず、という時でしたが、父兄や先輩らには勿論、反対される動きはあったようですね。私は先輩らに連れられて、男女共学反対の決起集会に参加した事がありましたもの。そして決議してGHQに直談判されたんですが、もう、当時はそれまでの戦前の価値観から一変して、今やGHQが天下という時代でしょ。昭和23年の4月から始まった新制中学までは義務教育だけれど、その後の高校に関しては『青空教室だって構わないんだ』という事で、そんなに文句があるなら無くしてしまって結構と突っぱねられてもう、それでおしまいでしたね」
「当初の半年位は、午前が女子が校舎を使い、午後から男子が使う、なんて期間を経て、10月より本格的に男女共学時代に突入しました」
「始まってみれば、男女すぐに仲良しになってね。とても活気があって、楽しい学校生活になりました。私のクラスでは学級新聞なんてつくったりしてね。でも、GHQが勧めた学制改革には地域性が導入されましたから、せっかく仲良しになった学友と、私は学区が違うという事でその後洛北へ移動する事になったのがとても辛かったです」
「私も府一に入ったというのに、その後の学区制で途中から朱雀になりました」
「私は堀川に」
「そうやって友達とはバラバラになりましたが、戦中はとても暗くて毎日おびえるような生活を送ってきましたからね、相変わらず物は在りませんでしたが、一気に価値観が変わって、それまで駄目だとされた事が突然良しとされるような時代になって、戦中は国民みんなが同じ意見であらねばならないというような空気感から一気に、自由となったでしょ。戦中は夜も寝られない程怯えて、日々暗い気持ちでいたのが、パッと明るくなってね。『自分達は、これからの時代をしょっていくんだ』というような気持ちには確かになりましたね」
「一気に自由が叫ばれる時代になってね。」
「そうそう、学校のすぐ並びに映画館があってね。そこの脇から入って友達と映画をタダ観したりね、笑」
「私はその頃、バスケットボール部でね。当時は体育館でアメリカ兵がよくバスケットの練習をしていたんです。そこでみんな、本物のバスケットのスタイルを間近で見たんですよ。私たちの頃は両手シュートばかりだったんだけれど、アメリカ兵の片手シュートがかっこいいとなって大流行りになってね。男子はみんな、片手でシュートを打つようになりました」
「校舎に関しては、それまでの二足制から土足になって。みんな、靴なんか無いもんだから、それは土足に決められたというより、やむを得ない事情でなし崩し的にそうなってしまったのでしょうが、まあ、男女共学になって一気に、校舎はボロボロに壊れてしまいました。男子生徒は下駄でどかどか歩き回って、そこら中のものを壊していましたからね。エネルギーが有り余ってるというか、一気に、まるで、闇市のカオスのような風情になりました。」
「男の子達にしてみれば、この学校校舎はなにせ女学校校舎だったでしょ。おトイレひとつとってみても不足ばかりで、わずかにバラックのような手洗いが造られたりしたけれど、当時は色々と足りない事ばかりだったと思いますね。内部の壁も防音用テックスなんか、すぐにボコボコにされてしまったし、教室のロッカーだって、めった打ちにしていたものね。色々、不満な事が多かったのでしょうね。」
<当時を知り、今思う事。>
「私達が当時体験した事というのは、戦中そして戦後と、価値観が一変してイデオロギーに大きく左右された時代でした。それらは否応無く従うしか無かった時代で、全ては上からの命令でした。反発するとか、抵抗するとかは全く、そんな余地など無かったのです。ところが一方では、戦争が終わって、自由になった、これからは民主的な時代になるぞという事で、みんなが勢いづいた訳でもあります。私たちが当時体験した事は、もう二度と体験したくは無いし、また、皆さんにも体験してもらいたいとは思えないですね。」
「鴨沂高校においてはグラウンドが無くなってしまうという事で、残念な事に北運動場のプール棟と体育館がもう既に解体されていますが、運動場の狭さに関しては、あの学校は今に始まった事でなく、ずっとその面積の不足については問題だったと思いますよ」
「元々は女学校でしたから運動場面積が狭いというのは、当時としては不足無しだったでしょうし、街中というので仕方が無かったかもしれませんが、男女共学となると、そういう訳にはいかないでしょう」
「私たちの時代にも、御所のグラウンドを利用したりしていたのですから、男子学生が入って来て、それでも面積が足りずにみんな苦労していましたからね」
「その後に交渉を重ねて外部グラウンドを確保した経緯もあり、そこでこれまで確保していた御所の西運動場を返還したのですから、今やその両方も無くしてしまっては、あの北運動場だけでは足りないのではと思います。」



















