カテゴリー別アーカイブ: 最重要問題点

鴨沂高校の校舎を考える会として、この度の活動において注意するべき点を皆様にも見ていただけるように、このカテゴリーを制作いたしました。

学生食堂存続を要望する署名を提出!4300を超える声!

本日、皆様から頂いた「鴨沂高校新校舎に現在の学生食堂の存続をもとめる要請署名」の追加分1,674筆、11月1日の提出分と合算すると4,342筆を京都府教育委員会へ提出いたしました。わずか1か月で4342筆もの署名を集めることができました。本当に感謝しかありません。
また、在校生が独自に集め、全校生の8割に当たる544筆が集まった「鴨沂高校新校舎の厨房のある食堂存続を求めるための署名」が11月10日に校長へ提出されたことを告知しました。

 やり取りの中で、現役保護者の方が「是非、鴨沂の食堂へ食べに来てください」と自信を持って発言されていたのが印象的でした。自信をもってこうした発言ができる食堂、前川食堂がある鴨沂高校を、ぜひ新校舎でも続けて頂きたい。他にも、「プールなど、一部の人のための施設に莫大な予算を使うより、みんなの使う食堂にお金をかけましょう」「実際に食堂を利用する立場である生徒の8割が署名している。この重みを受け止めて頂きたい」など、各々が思いをぶつけました。
教育委員会管理課の担当者は、「私の立場ではお答えできないことが多いです」「署名は確かにお預かりいたしました」と述べました。(文責・FBページ「鴨沂高校の図書館」より)

鴨沂高校の学生食堂。存続に関する署名がスタートしました!

前川食堂は単なる一業者なんかじゃ無い。長年に渡る、まさに鴨沂高校の教育環境のひとつ。大事な教育設備のひとつです。

鴨沂高校の校舎改築も進み、来年の夏にはいよいよ、工事を終えた新校舎へと、鴨沂高校の学生たちが戻ってきます。しかし、このままでは同じような形態では、戻ってこない可能性の高い教育施設のひとつがあります。

前川食堂。

現在の仮校舎でも引き続き美味しい食事を提供されている前川ご夫婦によって、学生食堂を切り盛りされてなんと37年越え。さらに遡ること前川さんのお父さんの代から数えると約50年!

現在、60歳代後半以降の卒業生の方から在校生に至るまで続く、まさに「同じ飯を食べる」繋がりを、大事に大事に紡いでくださっている学生食堂が、存続の危機に瀕しています。

鴨沂高校の食堂は、作り手の顔が見える、出来上がるたび名前まで呼んでもらえる、安くて愛情いっぱいのメニューが自慢です。

※当時の学生向けワークショップにて提示された旧図書館棟における食堂図面。

4年前の校舎改築に向けた基本設計図面から、その懸念は当時の在校生からも浮上していました。学生向けの校舎づくりのワークショップでは、設計者から指される新校舎の図面には、確かに旧図書館棟1階には食堂と書かれたスペースがあるものの、厨房設備と明記されたものが見当たりませんでした。在校生らから「今後の食堂はどうなるのか」と質問が寄せられても、はっきりとした答えは、そこに居る設計者や京都府教育委員会、また現在もおられる校長らから、誰からも明言されることはありませんでした。

それから現在に至り、いよいよ新校舎完成が目前に迫る中、全日制の保護者らや在校生からの問いに対し、校長先生からははっきりと「食堂は存続されます」「親子三代(恐らくは、現在食堂運営に従事されて居る前川さんの子供さんを含まれての意味)に渡って食堂を運営されています」「今後もこうした古き良きものは残します」等とパブリックコメントが発表されました。加えて、中学生向けのオープンスクールでは盛んに食堂アピールが成され、前川さんらも学校の要請に従い、彼らに向けた試食会にご協力され、新たに受験される中学生や保護者さんらにも大好評。また、今年夏のNHK京都放送での特集枠で前川さんらの食堂が取材放映されると、これもまた折々の学内の催しなどで、まさに学校自慢としてPRされました。

これらを受けて、在校生や保護者さんらも、今後も前川食堂が運営される、子供達は顔の見える、暖かで心のこもった食事が食べられる、良かった!と一同安堵したのです。

が、しかし一方で同時期、鴨沂定時制の教職員に向けて、同じく校長先生から、「新校舎では現行の食堂はなくなる」「今後はコンビニにすることも検討中」などと言う、まさに寝耳に水、全く相反する発表が成されたのです。そして、運営側の前川さんらには、校長や京都府教育委員会の管理課らによって、新校舎には厨房設備が無いことが告げられました。
これは、実質的に前川食堂が今後は機能されないということを意味します。果たして、出来立て、手作りを信条としている前川さんらに対してこのような申し入れを行うということが、食堂の運営について協議している、などと言えるのでしょうか。

※情報開示請求では、今後の食堂に係る全ての図面の開示を求められましたが、校舎移転後の学生向けワークショップで提示された図面から一つも変わらないもののみしか開示されませんでした。これは詳細平面図では無く、一般的な平面図でしかありません。

これらを受けて、在校生保護者有志さんは、京都府教育委員会に向けて、情報開示請求を行い、新校舎における旧図書館棟での、今後の食堂運営がわかる詳細な図面群の開示を行いました。しかし、詳細な図面を求めたにもかかわらず、それに該当する図面は、詳細平面図でも、設備がわかる設備図でも無く、一般の平面図のみが渡されました。これでは、詳細な事は何もわかりません。しかし、わからないながらも、この図面には、厨房設備が一切、見当たりません。開示請求後の説明でも、保護者さんらには、「前川さんらとは協議中ではある」「今後は厨房設備に関しては、業者側で行うと言うことになるだろう」と言うような曖昧な説明に終始されました。つまり、厨房設備は今後、学校側としては方針として、設置しないことを前提として居るのが図面同様に、語られています。

学校側からの説明からすれば、食堂は存続すると言われれば、それは現行の食堂形態が、今後も引き続き新校舎でも継続されると思うのは当然です。が、しかしどうやら、言葉の意味と解釈は少なくとも、校長先生の説明と、我々の思うところには、大きな違いがあるようです。

これからも、鴨沂高校の在校生には前川食堂で、出来立ての食事を食べて、勉強に、部活動に、励んでもらえるには。私たちにできること。

これら、一連の流れを踏まえて。では、私たちはその方針の決定を、蚊帳の外から待つしかないのでしょうか?今後の食堂のあり方について、私たちにも要望を伝える事、声を届ける事はできないでしょうか?

現在に至り、協議の場は食堂利用者に果たされていない現状にも、新校舎完成は着々と迫っています。もう、何もかもが決まってしまう前に、事後報告として答えを聞くだけじゃない、私たちができる事の小さな一歩。

何もかも、個別の当事者にポツポツと詳細を明かされるような透明性の無い環境に対し、風通しを良くすべく、全てを知り、また議論し、みんなが納得できるような形になるように。

これまで多くの思い出と愛情を与えてくれた前川食堂のファンの卒業生。忙しい毎日にも、子供たちには安心できる、手作りの食事を今後も食べさせたい保護者の方。何より。前川食堂の素晴らしさを知る、多くの方々。

この、貴重な、歴史ある鴨沂の学生食堂を守りたい。みんなが納得できる食堂のあり方を、みんなで考えたい。そう、感じてくださる方らに向けて。保護者有志、卒業生有志、によって、署名運動を開始します。

どうか。請願内容をお読み頂き、ご賛同の方は、ご署名をお願い申し上げます!

※書面による署名活動は、2017年11月15日締め切りを持ちまして、終了いたしました。
4300筆を超えるお声をお寄せいただき、誠にありがとうございました!

◉署名簿。ダウンロード(PDFファイル)

鴨沂高校学食存続要求署名用紙

※A4サイズにプリントアウトして、署名にご協力をお願いします。ご家庭にプリンターが無い方は、USBなどにファイルを保存し、コンビニなどのコピー機よりコピーする事も可能です。お手間お掛け致しますが、どうぞ御協力をお願いします。

※全国セブンイレブンのコピーサービスでは、署名用紙PDFをダウンロードしたスマホから、wifi経由でプリントアウトする事も可能です。

※全国ファミリーマート、ローソン、サークルKサンクスのネットワークプリントサービスにて署名簿をコピーすることも可能です。登録は11月13日00時ごろまでがコピー可能期限です。(期限は後程再更新いたします)ネットワークプリントサービスから、ユーザー番号U6KLUKUZWNを入力し、ファイルを選択して文書コピーしていただけます。

印刷ステータスが「印刷できます」になりましたら店頭で印刷してください。
展開中 印刷できます

店頭で印刷する際は「プリントサービス」を選択してください。

◉郵送先・署名簿締め切り期日

署名簿郵送先はこちら↓

〒605-8799

京都市東山区大和大路通五条下る石垣町西側42

東山郵便局留

「鴨沂高校の校舎を考える会」

谷口菜穂子 宛

※署名簿は提出の第一回目を10月末といたしました。11月1日に京都府庁まで署名提出を行いました。第一弾では、2668筆のご署名が集まりました!

※第二弾の署名は、11月15日必着にて、御郵送あるいはアンテナとなっている者へとお渡しください。第二弾を最終とし、11月17日前後にて、京都府庁へ提出いたします。

※約一週間おきに確認しに参りますので、お送り頂きましたご協力の皆様にはお返事が遅れます。どうぞご了承をお願い申し上げます。

お問い合わせ及び連絡先→memory.of.ouki@gmail.com 鴨沂高校の校舎を考える会 谷口菜穂子(鴨沂高校1989年度卒)

<忘れてはならないピアノの事。> 〜女学校時代から伝わるスタインウェイピアノについて

大阪にある「三木楽器」本社にて大切に保管されているピアノの納品台帳。

創業から190年を誇る老舗楽器店ならばこその確かな台帳であると共に、とうに廃棄されていても不思議ではない古い台帳が今現在まで残っている事に、自社、あるいは楽器というものへの愛情や誇りという名の歴史を感じてなりません。また、戦前から戦中、そして戦後と幾多の苦難を乗り越え、戦中の大阪大空襲にも焼かれず今も残っている事にも、現代人である私たちは思いを馳せる必要があると思います。

そんな貴重な台帳より、この度は鴨沂に残るあの「スタインウェイピアノ」が納品された確かな証拠たる部分の写しを三木楽器様より頂戴致しましたのでご報告致します。

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この写しから分かる事は、

①伝票の日付は昭和11年11月7日

②納品されたのはスタインウェイC型

③納入先は「京都府立第一高等女学校」

④価格は5,376円

「鴨沂の備品台帳に載っていないからこのピアノは誰のものかは分からない」というのが、これまで言われてきたこのピアノの処遇について保留された経緯理由のひとつではあったかとは思いますが、納入されたのがまさしく(当時の校長先生など個人へでは無く)女学校自体にである、という事がこの伝票から分かった、という事になります。

さて、金額のお話になりますが、掲載されているのは勿論、昭和11年頃のお話なので、現代の貨幣価値と比較するには想像出来ないと思いますので、以下、鴨沂にあった昭和8年から13年と同年代頃に建てられた建物の建設費に比較すれば、おおよそ、あのピアノが一体どの位の価値のものであったかが想像出来るかと思いますのでいくつか列挙しておきます。

図書館棟建設費(蔵書や什器・備品代含)が当時約70、000円。プール棟約30,000円。平屋一棟建て木造校舎(当時は「行啓記念館」戦後は通称「和室」)が3,000円。茶室改修費が1,000円(現在の貨幣価値にてあの規模の茶室を改修するには1,000万~1,500万程かかるとは専門家の弁)。

ここから察すれば、ピアノ1台で大変立派な家が建つ、と想像すればいい訳でしょう。当時、和室、茶室、図書館建設の費用は保護者や卒業生、地元名士や市民の方々らの寄付によって建てられた訳ですから、このピアノもそうしたご厚意によって購入されたのではないかとも想像出来ます。

女子が男子同様の権利や自由を与えられていなかった時代において、最高の環境をとの願いを込められた当時の方々らの思いと、その高い志の歴史がこのピアノひとつとっても、詰まっているのではないでしょうか。

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今回、三木楽器様より伝票の写しを頂戴したのと同時に、同じように時代を経て学校という場所から忘れ去られてしまったスタインウェイの修復例で、三木楽器様が関わられた例を3つ、ご紹介頂きました。

①ひとつは神戸の松蔭女学院。昭和5年に購入されたものを平成25年にリニューアル。同校音楽室にて活躍し続けている。また、現在も伝票以外に分からない購入経緯などの情報を、学校側で主体的に探されているとの事。

②また、奈良県立桜井高等学校。こちらは大正12年に購入。明治37年に創立した女学校が原点の高校で、昭和23年の学制改革にて新制高等学校に(この歴史的経緯は鴨沂のそれと同じ)。平成22年に音楽準備室で眠っていたピアノが発見され、翌年に同窓会、育友会等の協力にて復活プロジェクトが企画される。これらの経緯はマスコミにも報道された。多くの方々による寄付金にて修復された。

③最後は、以前もフィードで紹介した事がある滋賀県の豊郷小学校。昭和3年に寄付により購入される。平成24年に公益財団法人芙蓉会(豊郷小建設の際にご寄付された近江商人・古川鉄治郎氏のご親族が主体)による寄付にて大修繕された。

恐らく、あらゆる全ての関係者からどう思うかをヒアリングし、それらを集約して初めて解決を計るにはあまりにも、この鴨沂に残るピアノの今後について、その未来の在り方を模索するには時間も無ければ、まとめように無いように思う今日この頃です。

あのピアノが学校のものであるか否かという議論はそのまま、「では誰が修理するのか」「学校か?」「府教委か?」「あるいは無くしてしまうのか」という地点で立ち往生してしまう(あるいはもう長年そのままで留め置きされている)ように感じてやみません。

こちらフィード発信側の思いとしては、行政による修復に頼るのでは無く、このピアノに思いのある人を探し、繋げ、また考えの在る者達で力を出し合って修復し、あるべき場所である鴨沂自体にて今後も存在させる事が出来れば、と考えています。

そして、あのピアノがどのような歴史背景と共に鴨沂の前身である女学校にやって来たのか、それは私たちの学校のルーツを象徴している大切なひとつの形ではないか?との問いかけと共に、あのピアノがこれまで奏でてきた、美しいクラシックを、時にはブルースを、あるいはジャズを、ロック、ポップス、恐らく誰もが弾いただろう「猫ふんじゃった」までも許容してくれた大きな存在に感謝すると共に、数々の年代を経てもそこに居続けた事、誰かに弾かれた事と同様、今後もまた、その歴史が若い世代に繋げられるのであれば、と願う思いです。

そして、今後はこれまで大事に語られる事の無かったあのピアノの歴史物語を引き継いでゆけば、乱暴に扱われる事も、タバコを押し付けられる事も、また弦を故意に切られる事も、いくら邪魔だと言え激しい西日の当たる場所に追いやられる事も、また忘れ去られる事も、無いのではないでしょうか。

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一人や二人ではどうしようも出来ない事も、多くの思いがあわされば。

是非、思いのある方は声と力を挙げて下さい。

※「三木楽器」について

1825年(文政8年)大阪で「河内屋佐助」と称した書籍業を創業。後の1888年(明治21年)に楽器部を創設し、前年創業のヤマハオルガン等の販売を開始。明治維新によって輸入された西洋の音楽文化が国全体に広まりつつある中、西洋の著名な楽器輸入や楽譜の翻訳、出版業務を手がけます。ドイツ・スタインウェイ社と契約して日本総代理店となるのは1921年(大正10年)の事。ここから本格的に楽器・楽譜類の輸入を開始されます。今年の2015年(平成27年)には、創業190周年を迎えられ、三木楽器の歴史はまさしく日本近代音楽文化の歴史とも言えるでしょう。ちなみに、戦中における大阪の大空襲にも残り、現在も現行の本社ビルとして使用されている「三木楽器本社ビル」は、大正13年、創業100年を記念して新築されたもので、平成9年には国登録有形文化財として登録されています。戦災を乗り越え、貴重な歴史が残ったのにはこの社屋あってこそ、とも言い換えられます。

詳しい沿革史は三木楽器の公式ホームページより↓

http://piano.miki.co.jp/190years

山口玄洞という実業家と、鴨沂に残る図書館。

山口玄洞という方を皆さんは知っていますか?

当方は今回、鴨沂の件で色々とお世話になりました大学の先生から初めて教えてもらいました。

山口玄洞は戦前の実業家です。

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1863年(文久3年)、現在の広島県尾道市で医業を営む長男として生まれました。若くして父親が急死したため学業を諦め、家計を支えるために16歳で大阪の洋反物店に丁稚奉公に出ました。その後、事業で大成功を収めて巨万の富を得て、明治37年には多額納税者となり貴族院勅任議員になりましたが、商人が政治に関わる事をよしとしない思いからわずか2年で議員を辞めてしまいます。

その後、日露戦争以降には更に業績を伸ばし、大正6年には56歳で実業家を引退して持病の療養生活を京都の本邸で過ごしながら、信仰にのめり、資産の多くを寄付・寄進に使い、また表千家後援者としても活躍しました。

事業の成功の初期には特に教育関係、また社会事業関係に寄付を重ね、その後の隠居生活では仏教を篤く信仰し、多くの寄進を行いました。生涯に渡る育英や慈善関係の寄付等、当時の金額にして総額7~800万円とも言われて居り、「大正昭和の寄付金王」とも呼ばれています。

この地元京都でも教育関係、あるいはたいへん多くの寺院への寄進を行って寺社関係の存続を守った事で「京都の恩人」とも評されますが、実際、現代にも残る功績を知る人はこの地元京都でも一般にはかなり少ないのでは無いでしょうか。

しかしながら山口玄洞の故郷である広島の尾道では、かつて水不足で悩まされ続けた市民の為の上下水道確保の為の大事業でその予算の大部分の寄付を行った事などから、現在も記念行事や教育の場で、山口氏の名前とその偉業が語られ続けています。

「人は脂汗をしぼって資産を作ったが、自分は血の汗をしぼったのであるから、よもや道楽や名利のために寄付することはできない。ただ、信仰の道に入って、寺院の前途を考えるとき、やむにやまれぬ気持ちから寄進するのだ」と語り、また生前、地元尾道での偉業を称えるべく敬意をはらって銅像を造ろうとする向きがあった際には「銅像はいったん緩急の時には人を殺す材料となる」と言って断ったのだそうです。

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座右の銘は「明明徳」。設立の際には山口氏の篤志により始まった、大正9年に開校した現在の尾道南高校には、山口氏の書が今も掲げられています。これは中国の古典「大学」の一部を引用したもので、「明徳を明らかにすること」「徳を明らかにすること」という意味があり、「しばしばかすみ、隠れがちな明徳を明徳であらしめようとするのが人の道、人の行い、また学問でならなければならない」、「偏らず不正がない人間として、立派な行動を自分の中ではっきりとさせていく」という真意が込められています。

さて、ここで何故、山口玄洞という人物を取り上げるに至ったのかというのには勿論、訳があります。それは、我々の鴨沂高校にも関わりのある事が分かったからです。

1927年(昭和2年)の事。山口玄洞は鴨沂高校の前身である京都府立京都第一高等女学校の図書館建設に対して1000円の寄付を行っています。

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現在も残り、また今後はもう、図書館としての機能では無く別用途で使われるという方針が、京都府教育委員会により立てられてしまった図書館棟。この建物は、現在改築と改修が進められている校舎本館や、既に解体されてしまったプール棟や体育館よりも先に、これらが昭和初期には木造建家であった頃、女学校卒業生や保護者らが何よりも先にと図書館建設を願い、寄付を募った結果、蔵書に至るまで全額寄付によって建てられたものでした。これには無数の関係者が関わりをもって建設が叶いましたが、その無数の有志の中に、このような著名な人物も存在していた事がこのたび分かったのです。

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一体、山口玄洞が何故、府一の図書館建設のための寄付を行ったのか、そして一体どのような経緯をもって寄付をお願いしたのかは現在の所分かってはいません。けれど、鴨沂の図書館が建つ寺町通りには、ほんのご近所並びに山口玄洞に関連する建物がありました。それは現在、京都市歴史資料館として土地は転用され、残念ながら当時の建物は残っておらず、僅かに山口玄洞の名前が刻まれた石碑が傍らに残る「旧・山口仏教会館」(1923年/武田五一設計)です。こちらの建物は元々、仏教普及のために建設されたもので、戦後は映画館として使われました。また、これもご近所と言って良いでしょう、京都府立病院の裏手には、山口氏の本邸である「旧山口玄洞邸」(こちらも武田五一設計)が現在も残っています。この建物は戦後、進駐軍に接収された後にカナダ人が買い取り、現在はドミニコ修道会聖トマス学院となっています。

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いずれも、これほどまでに近くに山口氏の存在を知る事が出来た筈のものを、私たちは全く、感じないままにこれまで過ごしてきたという訳です。

残念ながら、1937年(昭和12年)に、山口玄洞はその生涯を本邸にて終えました。府一のプール棟、体育館、そして本館と先に建てられた事で竣工の順番が狂ってしまった図書館棟は、その1年後に建てられたという訳です。

あまりにも多くの時間の経過や、戦前と戦後で大きくものの価値や捉え方が変わってしまった現代にあって、多く忘れられ、また埋もれてしまった貴重なもの、また人々の思いというものも多くあった事でしょう。けれども、その本質や根源となる心というものは、決して変わるべきでは無いように感じます。

例えば、生前の山口玄洞という人が残した言葉にも、色々と考えさせられるものがあるように思います。

私たち現代人が、せめて今一度その思いを読み取り、また大切にする事で、次へと伝え、教えられる事は無いでしょうか。

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(参考資料/「安井楢次郎と山口玄洞」日本建築学会近畿支部研究報告集 「山口玄洞のことどもと公共奉仕」大阪大学史記要 「山口玄洞という人」奈良文化財研究所 「山口玄洞が尾道の人々に残したものは?~尾道市の発展に尽くした思い」中村恵 「武田五一」東京文化財研究所)

注/肖像写真並びに書については、フリー画像より転用しております。

2015年の思い。語ります。

<2015年の思い>

2015年は、いよいよ春から新校舎の建設がスタートされると言われています。

そこで今年の目標として、私たちは今後、重点的に以下2点の未解決問題について、注力したいと考えています。

①鴨沂高校に今もまだ残る地下道及び上屋についての保存運動。

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②現在伏見にある旧養護学校敷地内にあるとされる、スタンウェイピアノについての保存と修復についての運動。

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この上記の問題について、それぞれに訴える矢印は異なると、私たちは考えています。

まず、①について。これは、その今後の処遇について京都府教育委員会の判断いかんにかかっており、一方で京都府教育委員会としては上屋についてはレプリカを別の場所に造るという方針と予算案を既にたてている事からも、その計画の変更と、あらたに造るとされるその予算を、本来の位置で本物を改修し、残すべきだというのが、私たちの運動方針であります。また、この問題については、鴨沂高校におけるグラウンド問題にも繋がっている事から、部外者である立場で何がどこまで出来るかは分かりませんが、当事者らの声がある限りは、応援してゆきたいとも考えています。

そして②について。これは、京都府教育委員会も、そして鴨沂高校としても、その今後の処遇について全く明言をしておらず、一方で全国にいくつかある事例として、市民、卒業生、PTAなどの有志が協力し、改修し、学校に再び寄贈するというものがある事に習って、ピアノについては心ある人達でなんとか、仮置き場から救い出し、しかるべく手当を受けさせ、そして楽器として復活させるというのがベストであろうと考えています。現在は府教委側の手の内にあるピアノであり、まずはこのピアノの正確な歴史やいわれ、また販路の正式な確認も必要であり、出来るだけ多くの協力者の声と、各方面への働きかけ(これは、府教委や鴨沂高校、また同窓会組織など)も必要とされますので、いくつかのハードルはあります。ですが、出来るだけ心ある方々らの声があって、しかるべき資金が集まれば、そう難しい筈は本来無いと思っています。

これらの2点について、何か共通するものがあるとすれば、それは共々に老朽化した姿を見て、「こんなのは今更なおせるのか?」と思われるか、「いや、みんなで声を挙げれば出来る筈だ」と思われるか。また、これらを「今後も鴨沂に残すべき」と思われるか、「もうそんなものは必要無いだろう」と思われるか・・・そう、いずれかの選択を、自分達側が問われているのだという事では無いかと思います。

しかしながら私たちは、「出来るだけ多くの人達で声を挙げれば、今後も鴨沂に残せる筈だ」というスタンスの元、今後の活動を行ってゆきたいと考えています。

出来るだけ、同じく意志をお持ちの方の声をお待ちして居ります。

また、何故、これらを今後も繋げてゆくべきかという事についても、度々にフィードで触れてゆきたく思っています。

どうぞ、宜しくお願い申し上げます。