月別アーカイブ: 2013年4月

ミニマムコラム/ときどきおうきvol.5

~生徒手帳に詰まっている鴨沂。

同級生がFBのフィードに「生徒手帳が3冊とも家にあった!」とアップしていた。それを見ながら友達同士で心底羨ましがって、まあ、自分のはまさか、家のどこにも無いだろうなあと残念がった。何せ卒業してから20年以上。その間にその存在を見た事も無く、何度も引っ越しを重ねたし、何よりもう当方、親も亡いので実家が無い。が、どうにも羨まし過ぎるので、押し入れをひっくり返して家捜ししてみた。
で、発見した。親の亡き後、ずっと手つかずのままにしていたでっかい押し入れケースから。それも3冊とも。親に改めて感謝した。守ってもらってなければ、多分月日の過ぎ去る中でさして大事にも思わず、捨てていただろう。

卒業以来どころか、在校中、配布されてろくに開きもしなかった生徒手帳。いや、1年生の時には配られて嬉しくて開いてみた記憶が蘇った。もっと言えば、先に鴨沂に通っていた兄の生徒手帳を中学生の頃にこっそり開いては読みふけっていた。在校中は、冒頭のスクールソング(校歌を何故だかそう言った。)もろくに覚えもせず、謳う時に開いていたかも微妙。応援歌、校章の由来、沿革に続き、日本国憲法の前文、教育基本法、ろくに守りもしなかった学則、そして教育目標及び方針と続く。

これは全くの主観かもしれないけれど。
鴨沂高校の校風(少なくとも当時)を親に例えるなら、子供を伸び伸びと育てる、懐の大きな親、と言った感じだろうか。門限も、生活態度も、大きく制約しない。でも干渉しない訳では無い。ただ自分でまずは考えろ。生き方に責任を持て。望むような金銭や、より素晴らしく整った環境を与えてやれは出来ないけれど、そのかわりに考える事、自由を謳歌する事を全力で応援してやる。そんな親。
門限は何時ですよ。この範囲の中で自由に居ていいわよ。素晴らしく整った箱を与えます、金銭もあたえます、栄養はたっぷり過ぎる程与えます、習い事等の望みを全て与えます、そしてよりステージの高い環境で暮らせるように、さあ、勉強してね。という親では、決して無かった。
「自由過ぎて恐い」と言う子も居た。そんな子も、また我々のようにその環境の中で大きく泳いだ子も、同じ箱の中、同じ親の元で育った。

改めて「教育目標及び方針」を読む。
当時あまりに訳が分からなくて、けれどもなんだか、型にはまったような、本音では思ってもいない理想が掲げられている訳ではなさそうだ、なんだか、凄いな、とは強く思った事は覚えている。そして、今更改めて読んでみても、その言葉の奥の深さに唸る。正直、まだそれらの言葉から何かを掴めた感覚もはっきりとはしないけれど、親の教えやありがたみが、あとでジワジワとしみ渡ってくるのと、きっと同じ感覚だと思う。
だから、この素晴らしき高校の理念は、今後も残って欲しいと願ってやまない。何故ならひとつには、こんなにも面白い学校が、京都、いや日本にひとつくらいあったっていいだろう、と思うし、加えてまだ我々は、その言葉の意味を、理解し、履行しているとは、到底言え無いからだ。

以下。本校教育目標及び方針を転載。

目標
 世界の平和を希望し、すべての人々が幸福になりうる社会を目ざして、事実に基づいて真理を追求し、それに従って実践しようと努力する人間をつくる。

方針
1、自発的・積極的に学習し、基礎的学力を培い、かつ思索力を養成する。
2、自治的活動に進んで参加し、相互の人格を尊重し、正しい方法で討論して、その結果に基づき、責任をもって行動する習慣を養う。
3、現実社会に関する関心を高め、批判的精神を養成する。
4、勤労の誇りと喜びをもち、社会的活動に耐えるような体力を増進する。
5、芸術的関心を深め、豊かな情操を養う。
6、人間の尊厳という観点から、基本的人権についての科学的な認識を培う。
 (2013年4月28日)

ご指導下さった劇団「人間座」|鴨沂高校演コン

「演劇コンクールでは長年御世話になりました。」

毎年恒例の学校祭。
2年生はクラス毎に演劇(略して演コン)を行い講堂にて公演し、それは学校全体で観劇され、また投票されました。我々の頃は劇自体は勿論、主演・助演俳優を始め、ポスター、舞台美術等、総合的に表彰されましたが、今もそのシステムは変わらないのでしょうか。

夏休みには教室でリハや舞台装置等の製作にとりかかり、何せ集まりも悪くてみんなのやる気も萎え萎え・・・、放課後も遅くまで練習し、鴨川に移動してまた練習(略して鴨れん)。当時の演コン文集をめくると、ポジション毎にみんなの気苦労が延々と書かれていて、読み返すとなんとも微笑ましい。学校祭が近づく頃にはクラス全体が結束して、絶対総合1位狙うぞと躍起になっていました。

さて、そんな鴨沂恒例の演コンには、下支えを何十年にも渡ってして下さった方々がおられます。
そう、「人間座」。京都は左京区にある劇団です。

昨年からは、違う劇団による演技指導が行われるようになったそうですね。この人間座の元代表である故人の田畑実氏は、京都大学文学部を卒業後、しばし鴨沂高校の先生であられた事もあり、そんなこんなのご縁にて演コンの指導に当たられる事になったそうです。クラス毎にあたられる担当の役者さんによっては大変厳しい指導で、他のクラスの子は恐いって、泣いたりしてたっけな。これもまた良い思い出です。

1957年結成の人間座は、チェーホフやイプセン、モリエール等の近代リアリズム演劇や西洋古典、創作戯曲等の公演を、現在も1年に1、2度のペースで行われているそうです。また、現在こちらのスタジオは公演は勿論、稽古場や作業場等にも一般に開放されているそうです。

代表の菱井喜美子さんは、今も大変お元気なご様子でしたよ!

ミニマムコラム/ときどきおうきvol.4

~写真に出来る事とは。

先日、面識は全く無い母校の大先輩で政治活動家の方にFBを通してメッセージを送ってみた。何か、力になって貰えないか、繋がればそれも可能かもしれない、そう思って。
当方が写真を生業にしている事をプロフィールでご承知されたのだろう。
「たくさん写真を撮って、たくさん思い出残して下さいね!」。ただ、そう書いてあった。繋がる事は、無かった。

これは決して、個人批判をしているのでは無い。
それに似た言葉は、他からもあった。時には心からの応援と共に、時には解体やむ無しと諦めた方からの「せめて」の懇願と共に。
私も当初は恐らく、そんな「せめて」の気持ちから、写真に記録する事を始めたのだと思う。「恐らく」「思う」、と動機が曖昧なのは、はっきりとした意思を持って、例えばメモリアル的に、または懐かしみの気持ちから、などと自分の気持ちがまとまって明確な程、自分の心の中でしっかりと整理がついて、母校の存在と別れが告げられているとは、開始時点では到底言い難かったからだ。
ある同窓生が私にくれたメッセージにはこんな文言があった。「鴨沂は自分にとってアイデンティティーそのもの」だと。その言葉はまさしくで、私も到底、自分のアイデンティティーが解体されるなど、我慢が出来るものでは無かった。

だから、前者のまるで突き放したような言葉には違和感を感じた。が、ある意味では有難い事に、その言葉を受けて自分のもやもやした気持ちがしっかりと明確にもなった。
所詮、写真になど、どんなに頑張った所で残せるものはたいしたものでは無いし、少なくとも私が残したいものはそんなものでは無いんだ、と。
確かに、写真は記憶を記録するためには有効な手段のひとつだとは思う。が、所詮は二次元の世界であり、例えばある被写体が放つ匂いを嗅ぐ事も、被写体の質感に直接触れる事も出来ない。それを醸し出す写真を撮る事に、我々写真を生業にする人間は心血を注ぎ、また写真を見る人にまるでその場に居るかのような心地にさせるのだけれど、(自身の腕が足りないと言われればそれまで、そう揶揄されても言いきれるのは)それは必ず、その被写体を知る人間で無い限り、正確にはそれらの質感なり、匂いなり、その他実在が内包する多くの要素を伝達する事は、写真には出来ない。
つまり、簡単に言えば、例えば鴨沂高校を写真につぶさに記録したとする。そして高校の実体が全て無くなった後、未来の同窓生にそれらの写真を見せながら「ここに桜がこんな風にあってね」「ここに段差の狭い木製階段があってね」「ここにはこんなクラブボックスが並んでてね」と説明したところで、未来の同窓生の返事やリアクションなど、想像がつくだろう。
「ふうぅん」。
私逹だってそうだろう。例えば校舎の写る古写真を見て、そこには何ら物体が実在しなくなっている場合、何て思いますか?
「ふうぅん」。

そう。物体が全て無くなってしまっては、我々卒業生と未来の同窓生は、もうこれで永遠にコネクト出来る感覚を共有できる事は無くなってしまう。写真など、その両者の距離を穴埋め出来るツールになんてなり得ない。写真はいつまでもただ懐古を誘うものになり、決して未来を指し示すものにはなり得ない。

私は、そんな写真を眺めて、まるで母校に対し、晩年期のような心地になるのは絶対に御免だ。卒業アルバムをいつまでも眺めて、あの頃は楽しかったなあ、なんて憂いでばかりの人生だけは絶対に御免だ。
勿論、言われずとも写真には記録するだろう。何故ならそれが、私に出来る事だから。そしてきっと、いつかはそれらをただ純粋に懐かしむだけの時を、私自身、そして旧友たちと過ごす事があるであろうから。
けれどもそれらの写真は、出来る限り、未来にも繋げる校舎や樹木を残す事で、照らし合わせた上で初めて意味を成すものでありたい。
それらの写真を眺めながら、いつか未来の同窓生逹と、共有出来る何かを今、出来る限り残す為の、そんな写真を私は撮りたい。(2013年4月25日)

ミニマムコラム/ときどきおうきvol.3

~これって例えばめっちゃ鴨沂。

もうずいぶん遠くの卒業生として母校にあまりにも久々に訪れるに至り、何かしら身構えて恐かった理由の他には「変わってしまった鴨沂」を、もろに感じるのでは、という事でした。校舎内部が今の所はどうやら変わっていなさそうなのは、通りから見る外観ではおおよそ見当がついていたけれど、そうでは無く、つまり我々の知る頃からの鴨沂の校風が、すっかり変わり果ててしまって、そこに居る学生達が、すっかり箱の中にきちんと納められているような、もしくはただおしきせルールにちょろっとだけはみ出てちゃらっているだけの、そこらの(ごめんなさい!)結局は子供、みたいな感じだったらどうしよう・・・という事でした。またそれらを感じて「ああ、うちらの頃はなぁ、愉しかったのになあ、オモロい学校やったのになあ、時代やなあ」なんて、そんなつまらん(ごめんなさい!)おっちゃんおばちゃんみたいな思い出話に片付けたくも無かったので、そういった心の側面でも、とても複雑な再訪でした。
学校が休みの期間に訪れたので、そういう当方の個人的危機感を感じる対象であろう学生達には出会わず、ひっそりと静まり返った校舎は、まるで産業遺構の醸し出す、あの空気感にも似たような、独特の雰囲気が漂っていましたが、その空気感は我々の居た頃にもすでに漂っていたのでまるで違和感はありませんでした。
しばらくあたりを上がり下がりして、何人かの学生とすれ違いました。声を掛けると、「こんにちはあ!」と明るく返事が返ってきました。その声や表情は、「礼儀正しくしなさい教育」によるものでは無く、人懐っこい、(あ。卒業生だろな、という)好奇心に満ちた、まるで警戒心の無い犬科動物のような、そんな明るい雰囲気で、そのただの一言がこちらの警戒心を一気にほぐしてくれました。そうそう、自分達だって、こんなんだったろうよ、と。
教室で女の子達が何人か、机を囲んでカップラーメンを食べている様子にもほころびました。そのジャンクの臭気はここで確かに我々も漂わせていたし、その匂いや木製廊下の匂いが合体して、そう、こんな感じがはじめて「懐かしい!」と素直に言える感覚なんだと実感しました。

写真のポスターは、そんな校舎の中で最も鴨沂を象徴するものです。「武器を楽器に」。って・・・
誰が書いたのか、いったいいつの時代の言い回しやら。
もう、ダサイのかカッコいいのか、回り回ってカッコいいわ!
韻もふめてるのか、ふめてないのか、筆字やわ、いまいち字へたくそやわ、古いんか新しいんか、大事にしてるんか、そのわりに留めてるのガムテープやわ・・・。
こんなん書いて、どう思われるかなんて気にしない。オレはオレ。みたいな潔さ。なんせスローガン掲げるの好き。みたいな。
で、周囲もそういうのはまあ、尊重したりする。だから、ほっとく、というか剥がしもしない。

この、A4サイズのポスター(とも言え無い)を見た時、グラグラとなりました。ありがとうなあ!守ってくれてるんやね!後輩!

そんな鴨沂っ子が今も、ここには確かに存在します。

さあ、ここで問いたいんです。こういうスローガンを、当時べたべたと掲げ、意気揚々と学生生活を送っていたであろう、リアル60年代、70年代の諸先輩方。あの頃はもう、と、思い出の片隅においやってはいませんか?「時代が違うしなあ」と逃れて、学生運動やらなんやらは、所詮思い出の1ページだったのでしょうか。
「最近の子は声も挙げない」と言われる事が多い昨今ですが、長いものにはまかれろ、何言うたって、どうせなんにも通らん、諦めろ。そういうムードを醸し出したのも、そして言われる最近の子の親世代も、実は皆さん自身じゃないでしょうか。
ちなみに我々80年代後半時期。ときはざんねんなバブル期と呼ばれる頃。今度はあぶく銭で浮かれて踊り狂う60、70年代大人方を片目に、しらーっとしていた世代です。

怒られちゃいますよ、ね・・・こんなん言うたら。
すみません!

いや。でも、この鴨沂には、そんな我々がいとおしく、また大事にしていたこの学校の空気自体を、なんとか守ろうとしてくれている学生達が居るのです。そんな後輩達のために、もう一回くらい、かっこええ所見せてあげなきゃ、ひとはだ脱いであげなきゃ、いかんのちゃうかな!と。若輩ながら、思う訳です。
自由を謳歌した大人には、それをまた還元し、手本たるべく伝えてゆく責任があるのではないか。
そう、思えてなりません。 (2013年4月24日)

ミニマムコラム/ときどきおうきvol.2

~この春の桜の下での出来事。

こんなにも美しく咲き誇り、また衰弱など微塵もしていない鴨沂の桜。来年の春はもう、ここで咲かせてもらえないばかりか、二度とこの世に生きさせてもらえない、かもしれないだなんて・・・。大げさでしょうか?自分がまるで、病いに蝕まれて、死亡宣告されたような、そんな気持ちになって、何度も何度も見に出掛けた今年の春の事です。

北門、そして校舎東裏側で満開に咲き誇る桜をしげしげと見つめている一人のお年寄りに出会いました。
「卒業生でいらっしゃいますか?」。ここ何日も、そんな光景に出くわしたので、もう、声掛けが普通になっていました。「はい。そうです。山本富士子さんと同級でした」とそう、おっしゃいました。「ここで主人と出会ったんです」。女学校時代のある時期には、2部制で男子、女子、と別れて併設されていた時代があったそうですね。

「校舎が無くなると知ってやって来ました。ここで主人と出会って。本当によくしてもらいました。幸せな人生でした。」と。
私が持っていたカメラに目をやって、そして「この光景を、私は心にしっかり焼き付けて、冥途の土産に、主人に報告します」とおっしゃいました。「あと六ヶ月、待ってくれたらこの桜も一緒に見に来れたのにね」。

こんな言葉の次に、何が言えるでしょう。
一体、この桜ももう、無くなりますからね、解体工事の邪魔ですから。なんて、この目の前の方に向かって、誰が言えるでしょう。そんなものは懐古主義だ、忘れてしまえだなんて、言えるでしょうか。

別の日。教育委員会との窓口になっている同窓会組織の理事の方に、鴨沂の梅や桜等の木々について存続できるよう提案してもらえないかと打診した時の事。それは無茶だろう。と顔を曇らせ、「せいぜい、たくさん写真に撮って、思い出に残されたらどうですか」と、言われました。
その時、あの桜の下で話した、おばあさまの言葉を思い出さずにいれませんでした。
写真のような、二次元の世界に、そして撮らえた瞬間から過去性へと繋がる記録媒体に、一体何が残せると言うのだろう。
正直、腹が立つやら悔しいやら、誰に怒っているのか、自分に怒っているのか、訳が分からなくなりました。

この学校の前身の女学校時代、創設期に教鞭をふるっていたという新島八重とゆかりのある鴨沂高校。大河ドラマ「八重の桜」にあやかって、八重とゆかりの岩手県の高校生達と交流をするなど、盛んなPRがなされています。子供達との交流がこのような機会で実を結ぶのは大変素晴らしい事だと思っています。
女学校時代の経営難では何度も京都府に直談判をし、まさしく学校の存続を守った新島八重。そして当時のキリスト教を根幹とした学校設立を目指す新島襄と婚約すると同時に、仏教界からの圧力によって京都府から解雇された新島八重。まさか140年程の時の経過によって、今、本校のキャンペーン的存在とされている事。恐らく豪傑で心大きな女性でしたから、そこは笑って許して下さるでしょうね。
が、まさしくタイトルバックにも冠された桜の一本すら、本校が守ってくれないと知ったら、きっと、この世に新島八重がおられれば、きつく怒ってくださるだろうにな、と思えてなりません。 (2013年4月23日)