月別アーカイブ: 2013年5月

ミニマムコラム/ときどきおうきvol.11

~「仰げば尊し」

鴨沂高校では欠く事の出来ない学園祭の伝統行事「仰げば尊し」。
3年生による、各クラス毎にテーマを決めて、山車を作り、仮装をして街頭をパレードする。簡単に説明するとそんな行事だが、「仰げば」と聞けば、鴨沂高校を母校とする者にとって、大変思い出深い、響きではないでしょうか。
旧体育館バルコニーでのスローガン、テーマに沿っての仮装、山車作り・・・。懐かしい。が、何故その行事名を「仰げば尊し」とするのか。今回手に入れた、京都府立鴨沂高等学校旧教職員の会が出版されている「鴨沂の歩み」という本から知る事が出来たので、ここにまず掲載しておきます。
「戦後、府立一中生が教師と生徒の親睦を深めるために考え出した行事で、新制高校の学制改革にともなって府一女と同居、ついで高校三原則に基づく再編成で多くの一中生が残り、この行事も当然の如く受け継がれ、幾多の変遷を経て今日に至っている。(創世記)鴨沂高校には大きな運動場が無く、現洛北高校の運動場をごくわずかの間使っていた。学校の周辺から適当な資材を探し出し、山車を作って担任を乗せてかつぎ歩く。仰げば尊しの名はここからきている」。
この「仰げば」はその長い歴史の中で、とくに60年代以降から、社会性を帯びたテーマに変貌していったのだそう。70年代後半頃から、「講堂アピール」が開始され、80年代からはパレード後に講堂でのエンディング行事が行われるようになりました。我々の頃には講堂での行事はほぼパーティー化しており、仮装したまま軽音部等によるコンサートが、本当に懐かしく思い出されます。
鴨沂高校の学園祭と言えば、1年生は合唱コンクール(現在はいつから変わったのか、ドミノ大会になっているそうですね)、2年生は演劇コンクール。そして3年生の仰げば尊しパレード。特に、2年、3年生ともなると、その行事には社会的メッセージのこもった、単なるお祭りでは無い鴨沂高校生らしい取り組みだったなあ、と、それが他校とは違う、強い個性の現れだったなあと誇らしく思います。
これらのアツい鴨沂高校の愛すべき伝統行事は、一体今後も、ピカピカになった校舎に移っても、受け継がれてゆくのでしょうか。旧体育館バルコニーも、講堂も、失ってしまっても、そして、制服化した学生達にも、これらは受け継がれてゆくのでしょうか。
ちなみに。当方の押し入れ衣装ケースには、バカじゃないの?!とどん引きされるかもしれませんが、体育祭の時のでっかいクラスフラッグと、仰げばの時のクラスのテーマフラッグが(勿論当時の自分のクラスのものだけですが)保管されています。当時、これらのフラッグの下絵デザインは自分が描いて、クラスのみんなできゃっきゃ言いながらペンキで塗った、大事な宝です。本当なら当時、終了後は表彰されて、学校に渡さなければならなかったものですが、「ちょっと記念に家でしばらく飾りたい」と担任の先生に嘘をついて、持ち帰ったままにしたのです。当時、こんなフラッグ、毎年学校が回収してたら、いつか廃棄されてしまうだろう、それは絶対にイヤだ!と思っての嘘でした。今はせめて、それらを持ち帰った事が正解だったと思う事にしています。学校が解体されたら、きっと、そんなみんなの大事な思い出はもろとも、この世から消えて無くなってしまう。そう思うからです。

名門・鴨沂高校、再び|毎日新聞社発行/週刊エコノミスト

週刊エコノミストに、再び、名門校・鴨沂高校の下、掲載

先週フィードにアップしておりました通り、週刊「エコノミスト」誌に、前回の続編が見開きで掲載されております。
今回の内容は、そのご卒業の皆様の、素晴らしい面々のご紹介ページ。ほぼほぼウィキペディアでも掲載されているような内容なのでが、学者、経済界の重鎮、文化人、芸術家・・・こうして羅列されると、ううむ・・・威圧すら感じる程の素晴らしき面々。詳しくは、誌面をどうぞ。

こういう側面から語られると、いやはや、我らが母校のそうそうたるや。もう、自慢にすらなりません(苦笑)。当方、あまりにも、平民過ぎて。さて、このような母校についての活動をするにあたり、あちこちの方から言われました。「そんな長い歴史がある学校なんだから、凄いバックボーンもってらっしゃる同窓生の方、おられるでしょうに。助けてもらえないの?」「知恵、もらったら?」「って言うか、なんでそんな人らから、反対運動とか、起こらないの?」。

そう、そこがなかなかのミソ。恐らく誰もが、これはあまりにも多くの同窓生が、特に若い人達を中心に、思い願っていた筈。この、学校の歴史の中の素晴らしい大先輩方が、きっと何らかのアクションをとってくれるのではないか。そう、自分なんかより動くにふさわしい、桁違いに凄い人脈かつ知恵のある先輩方が、何らかの形で動いてくれる筈だろう。そう、みんなが恐らく、思い込んでいた、またはそう願っていたんだろうと思います。当方は少なくとも、確かにそうでした。

が、
よくよく考えれば。
思うのですよ。

もしも、そのような方々の中に、この母校への愛情が今もあたたかく、強く、お持ちである方がおられるならば、そして、そんな方々が、今も母校の例えば鴨沂同窓会理事会の方々と密な関係でおられるなら、例えばあんな状態でピアノひとつが修復もされずままに、哀しい姿をさらしている筈も無く、鶴の一声並に、いとも簡単に、寄付が寄せられポンとなおされた筈です。あんな状態で茶室が放置される事無く、しかるべき寄付で、ポンと修復されるか、しかるべき場所に移築して幸せな保存の形をとられた筈です。地位も、名誉も、また文化的活動なり、チャリティー精神なり、きっとお持ちの筈なのですから。

または、この母校の窮状について、今はご存知ではいらっしゃらないだけの事と、思うことにして。

こちら「エコノミスト」誌については、
校舎の建て替えについて、文章末のわずか数行に、まるでとってつけられたようによせられて居ただけでした。「老朽化による耐震化を計るために解体」。かくして、その校舎についての正しい見解を述べる場ではここは無く、またこのように経済誌を読まれる読者には、「ふーん。解体ね」と、思われるだけにページをめくられる、そんな鴨沂高校名門校話。で、ございました。

もちろん「鴨沂の自由」なんて、どこにもかしこにも、書かれていた訳では、ありません。

ミニマムコラム/ときどきおうきvol.10

〜失う、ということについて。そのまったく個人的な心うち

昨日、高校の同級生と集まって呑んだ。
今はどうやら鴨沂には亡き「民謡研究部」というクラブで一緒だった旧友ら。「民謡?」なんやそれ。我々の頃には音楽系のクラブがふたつあって、恐らくこのクラブは60年代70年代のフォーク全盛期に作られたものだったのだろうか。ともあれ民謡とは、先輩からはフォークの事だ、と教わった。我々が在校していたのは80年代後半時期、フォーク等はもはや時代の彼方にあったので、民研は広く邦楽を中心に、そして軽音部はその頃大全盛だったハードロックやパンク、洋楽を中心としたジャンルに分かれて活動していた。
ともあれ。
その頃から、跳ねっ返りで頑固者、人の言う事などまず聞かない私に、まっすぐと前からモノを言ってくれる、そういう友達が居て、「そう言えばあんたに、お前の声には個性が無いから、ボーカリストになるんは無理や。とか、言われたなあ」等と言う話をしながら、呑んだ。
それからふいにその友達から「で、お前がなんで今更、鴨沂高校の校舎がなんとかっていう署名活動とかやってるねん」と。「それが分からんと、俺ら協力とかでけへんで。第一、それがお前のどんな得になるねん。それ教えて貰えたら、仲間のお前の得になるんやったら、俺ら協力したるわ」と。
意義を説明した。勿論これまでここで書いてきた事を、酔いながらも全部、説明した。得になる事なんか、無いよ。下手したら損な事はあるかもしれんけど。例えば校舎全面建て替えで利益が得られる人らには、もの凄い、睨まれるかも、しれへんもんな。と。
「いや、ちゃうねん、俺が言いたいのは、お前がやってるんは、どこまでいっても自己満足の話や。それが悪い言うてるんちゃうぞ。俺かって、たぶんみんなかって、それぞれ生きてる中でやってることなんか、自己満の話や。例えば子供のためとか言うて生きてるヤツもおるけど、それは結局、子供の喜ぶ顔を自分が見たいっていう、自分側の話や。ようはそこや。お前がなんで、こんなことやってるんか、そんな個人的な気持ちを、ええかっこしてんと正直に言えよ。結局は、みんな、情に訴えられると、そこでお前の必死な心が分かると、打たれるって事もあるやろ。ええねん、だから、お前がなんで、こんな事やってるんか、それも、これまでそんなん何もしてきいひんかったお前が、なんでそんなんやるんか、正直に話せよ。第一、これまでそう、古い仲間を、俺も一緒やけど大事にせんと生きてきて、たいした人脈も無いお前が、例えば今回の校舎解体をやりたくてたまらんヤツ、ほんでそいつらがこれまでコツコツ、人脈形成してきてここに至っとるんやからな、それに勝とうと思うんが、無理なんやで。だから、お前はその自己満足を、どれだけの人間と共感出来るんかが、カギなんや」。
ここの所、仕事やらなんやらで体力と精神力の限界で、そして連日の寝不足もたたって、そしてバカみたいに泡盛をロックでがばがば呑んだものだから、どうしようもなく、泥酔した。
以下。こんな事を書くのもどうか、と思いながらも、昨日の友達の言葉には確かに、言い当たることだらけ。自分が何故ゆえ、景観問題や建築物について、また鴨沂高校についてこれほどまでに関心があるのか。そんなことの基軸になっている、全くの個人的な話なんて、そもそもこんなところで書くべきなのか、本当に全く、分からないけれど、これは昨日の友達との約束とも言えるし、その友達とはこの鴨沂高校という場所で出会えた訳だから、それらに敬意を表して?何故に自分が、このような事に関心が高くなったのか、それを書こうと思う。
鴨沂高校校舎について、何故ゆえこれほど頑張ってみたくなったか。それについては、恐らく、ひとつにはここに集まってくださった、この高校を母校とする卒業生の皆さんと、同じだと思う。それは、この高校に、かけがえのない思い出をたくさん持っているから。そして、素晴らしい人間と、出会えたからだ。が、勿論自分はこれまで、自分の人生に必死で、そして是が非でも確立したい、自分の仕事内容について、そしてその経験値や人脈を確保するため、これまで古い仲間と、そう深く関係を持っては居なかった。昨日の友達も言っていたように、仕事と仲間とどちらを選ぶという話では、その友達同様、私も仕事を選んで生きてきたと言える。
よって、そこには常にどこかで、負い目というか、後ろめたさというか、そんな感覚は少なからずあった。母校に至っては、大好きだったであるにも関わらず、既に旅立った場所という認識で居たから、足さえ向けることが無かった。その、まず恐らくは、どうしようもないつぐないのような気持ちが、きっと必ずあるのだと、そう思う。まず、これは恐らく、人生というものの時間の慌ただしさや短さを感じる人にとっては、共通した思いのある方は、たくさんおられるのでは無いか、とそう思う。
そして、確かに自分の中で残る、母校の印象やこれまでの歴史を鑑みても、不思議なほど、声が上がらなかった事についての素直に焦る気持ちがあった。誰にもいちゃもんもつけられず、そんなにすんなり、無きものにするべく壊してしまって、いいのか?!と。そして加えて、私にはこれまでの人生での、「失うこと」についての、ほとんどトラウマと言っても大げさでは無い経験が、それ以降の人生について、または関心事となって基盤となった経緯がある。
京都の岡崎。永観堂のすぐ近くで、私は生まれた。そこは父親が公務員で、公務員官舎が並んでいた一画だった。それぞれに木製の塀で囲まれた50坪という、今から考えればえらい贅沢な敷地面積に、木製の兎小屋のような小さな平家がついていて、何しろ庭面積だけがやたらに広かった。父親はその庭に池を造り、立派な藤棚を造り、季節の花々を植え、大変見事な環境をこしらえていた。
私が三歳の頃。その区画一帯が市に払い下げられる事になり、立ち退きとなってしまった。勿論私は幼過ぎたので、その岡崎での思い出は、実に断片的な記憶しか残っていない。隣の家の庭に並んだ、家族分の雪だるまの事。地蔵盆。恐くてたまらなかったぼっとん便所の事。砂利道で繋がったあたりの様子。近所の銭湯・・・。「立ち退き」という言葉なんて勿論理解しては居なかったけれど、父親の落胆した様子や、最後の日に立ち去った、軽トラックの真ん中に載せられ、遠くなってゆく家の事は今でも忘れない。今や、その辺りは全く違った景観になっており、何度そこを訪れても、自分がどこで暮らしていたのか、まったく実感も持てず、そして何らの感情も湧いて来ない事に焦りを覚える。
それから七条にある公務員宿舎の団地を経て、まずその通っていた木造の、大変趣きある校舎が建て替えられ、なんとも言え無い気持ちを味わった。が、新しく無機質で快適とも言える校舎に移ってしばらく、あっさりとその環境に馴染んでしまった。
その後、小学校5年の時、京都大学農学部の裏あたりに両親が家を購入し、そこに引っ越した。
転校した小学校は、今やこれも建て替えられてしまったけれど、当時は薄暗い木製の渡り廊下が広がる古い校舎で、窓から見えるあまりの山の近さ、そして自然景観の近さがむしろ恐くなって、ぽろりと転校初日に泣いてしまった。そして、その生活から馴染んだ頃、同じような時期に転校した友達とやっていた交換日記に、その校舎の薄暗さや古ぼけた感じについての悪口を書いて楽しんでいたものを、間違って宿題と一緒に先生に提出してしまい、こっぴどく説教された。なんと言われたかは細かい事は忘れたけれど、「古い事は悪い事ではない。それが分からないのは哀しい」と言ったような内容だったと思う。先生は目の前で大変悲しんでいたから、とてもばつの悪い気持ちになった事を忘れない。
そんな日々、そこからいろんな思い出を作り、友達を作り、中学校に通い、そして鴨沂高校に通っていた。高校に行くに至っては、兄が通っていた事もあって生徒手帳も読んでいたし、その子供には読解出来る筈も無い教育理念に、なにかしら素晴らしいと思う所があり、中学生の頃には鴨沂の文化祭にも紛れ込んでいたから、その校風や校舎の趣きにはすっかり傾倒していた。だから、私学の滑り止め受験なんて受ける必要なし。私は鴨沂に行きたいんだから。そう言いはって鴨沂高校に通う事になった。
さて、自宅周辺には、学者さん達が暮らすハイソな家々の間に、京都大学の苦学生がたくさん暮らす、ボロアパートがたくさんあり(今はそれらはほぼ全て無くなり、大変豪華なワンルームマンションが建っているけれど)、銭湯に通う大学生の、時には戯曲の台詞か、何か演説の練習か、オペラの歌か、そんな歌やら声やら叫びを耳に、なんだかんだで不思議な、当時の京大生の生態を窓辺に垣間みながら、そして、京都大学がある、という独特の環境形成がなされた環境の中で日々を過ごしていた。
そんな頃、両親が離婚裁判で争う事になった。関係悪化は私が中学の頃からで、裁判は恐らく、2年程かかった。大変長く、辛い時間だったが、裁判が終わり、最後にショックだったのは、この、大好きだった家から、そして大好きだった周辺環境からまたしても立ち退きにあった、という事だ。てっきり、裁判を起こした母親が、ここから出て行くものなんだろうと思い込んでいたから、まさか父親が裁判にボロボロに負けて、この家の一切が母親のものになるだなんて思ってもみなかった。
裁判の様子が、我々子供らにはどのように進んでいるのか分からず、勿論、我々子供の立場からの意見が聞かれる事も無かった事には子供ながら、不条理で、悔しくてたまらなかった。こんな不条理な事に結果論だけ立ち会わせられるなら、もう、是が非でもはやく大人になって、知恵と発言権を持ちたい。そう思った。父親と、兄と、私は、その裁判決定に従い、大好きだった家から退去させられてしまった。あの頃の引っ越し作業も、なんとも情けなかった事を記憶している。ちなみに、現在もその家に、母親は離婚後翌年に再婚した新しい家族と共に暮らしているようだ。
これら、あって当然と思っていたものの、納得すら出来ない突然の喪失が、そしてそこで思い出を詰めていたスペースの崩壊、自身の帰るべき所、そのアイデンティティーの喪失が、どれほど心を哀しくさせるか、どうしようもない気持ちにさせるか、というのが、自分の中では確実に存在しており、そういう思いを強く経験した事の無い人に対し、その、無くしてしまうものの存在の大きさについて、多分、声を反射的に挙げてしまう。そこが基盤になっているのだ、とそう思う。
私は、この、これまで暮らしてきた京都という街が大好きだ。「住めば都」という言葉はあるけれど、やはり、この京都という街を、主観的に、または客観的にみても、この街は日本の中でも実に特別な存在だと思うし、それらが大好きでたまらない。だからこそ一方で、この京都という街を形成して来た筈の、独特の風情が失われてゆくたび、たまらなく腹が立ってくる。
京都の市電が全廃された昭和53年には最後の市電に親に連れられて乗ったときも、なんとも哀しかった。
京都の二条駅の素晴らしい建家が無くなった時も、京都駅がまるで城壁のような出で立ちで存在した時も、京都の四条烏丸エリアの銀行やその他の素晴らしい近代建築群が、若干のレリーフを残したのみで、明らかに質の落ちた建造物に全て成り代わった事も、洛北高校の校舎が、そして堀川高校の校舎が、あのすばらしい風情や風貌が、なんとも言え無い建造物に成り代わった時も、本当に堪らなく、腹が立った。そして、いずれ来るかもしれないロシアンルーレットのごとく、鴨沂校舎が、同じ運命になるかもしれないという想像は、とてつもない恐怖だった。
それを「時代やなあ」と、なんとも懐古主義の裏向けみたいな呑気な言葉に要約する人達も、その時代を堪能した世代に多くみられる。そんな安っぽい表現で、それらの喪失についてひとくくりにするのは、全く乱暴に思えて仕方が無い。現在、建造物の半分をぱっくりと建て替え工事がすすめられている京都会館については「京都を博物館のようなものにするつもりはない」というような言葉を寄せた市長もおられる。確かに、そうだろう。この京都は、一方では観光都市であるが、一方では生活する人達も共存出来る、そんな環境にするのは確かに容易な事では無いだろう。
だから、だけれど、
この、リノベーションや再利用という価値観がようやく定着した観のある現代において、今だ経済成長がうなぎ上りだった時代をむしろ懐古するがごとく、なんでもかんでも壊して建てる、というのは、もう、違うんじゃないかな、と、そう強く思う。今でも本気で(本当にまだ居られるんです)「経済成長期の日本」「バブル期の日本」に戻れたらいいな幻想を抱いてやまない人達が主体の、それこそそんな愚かな幻想を思い描く人達の価値観に負けて、本当に大事なものを失ってしまうのは、どうにも我慢がならない。この少子化の中では、鴨沂高校に再び、往時のような2000名を越す学生が入学する事は恐らく無いし、またどれほどのコンセプトを打ち立て、そして私学との入学希望者争奪競争に打ち勝つべく、たかだた制服と新しい箱を用意した所で、私学の本気度とその確たる戦略には、このままでは多分、勝てる訳が無い。
よって、難関大学に合格者が続出したと言われる誇れる鴨沂高校の再燃を期待しての構想も、いかなるものか。
しかもとってつけたような教育委員会の新コンセプト、「歴史と文化」「京都らしさ」等と言う、その基盤も崩壊させての上っ面な筋書きを掲げられると、では一体その言葉の意味するところは何と考えるのか、という具体性を、是が非でも示してもらいたいとそう思う。それが京都風な京都、と言った薄っぺらいレベルであれば、どうにもこうにも、暴れたくなる。
鴨沂の事、その歴史の事、鴨沂の教育理念、そして自分との関わりがあった時の鴨沂を思い出すと、何かが確実に、これから行われるであろう様々な新生鴨沂高校への企てについて、強く、恐ろしい違和感を感じて、堪らなくなるのである。
ようやく、少しは自分も大人になって、自分の言葉を見つけられるようになったから。そしてようやく、あまたある社会問題や環境問題、または広く世界における様々な問題の山積する現代において、たったこれだけの事、あまりにもささやかな事、だけれども自分がようやく唯一、社会との繋がりを持つ事によって行動出来る事として。何か、母校のために出来る事は無いか。
そう思って始めたのが起点です。
再度。こんな事、こんな所で書くのが果たして良いのか。今もって全く、分からないのだけれど。これも大切な鴨沂高校で出会った、かけがえのない友達との約束だから。許してもらえたら、大変ありがたく思います。
長くなってしまいました。

            

谷口。

特集!名門・鴨沂高校|週刊エコノミスト

毎日新聞社発行/週刊エコノミストに、鴨沂高校が載って居ります

5/28日号付で只今書店にて並ぶ「週刊エコノミスト」の見開き1ページ分にて、現在「鴨沂高校」が特集されています。「名門高校の校風と人脈45」というページですから、これまで名だたる高校が掲載されているのでしょう。その、45校目が、鴨沂高校、という事になるのでしょうか。来週には、この続編が掲載される予定だそうです。

今回の特集記事は、また店頭でお読みになれば分かると思いますが、女学校時代の創設期からの歴史が書かれております。そして、難関大学合格者続出の、華やかかりし時代、そして、著名人輩出の歴史等。この高校を母校とする卒業生も(勿論当方を含め)、細かい所は知らない事も多々ありますので、参考になる記述も多々、あろうかと思います。

それにしても。
次回の号ではどのような文章へと続くのかはお楽しみ、という所でしょうが、この、名門校と謳われた時代。ご卒業された皆々様にとってみれば、その後の「鴨沂の自由」を謳歌した時代への移行は、どのように映っておられたのでしょうか。

名門と謳われた、誇り高き時代の卒業生の皆様にとってみれば、昨今の(これは鴨沂に限らず)少子化、また私立高校の勢力に取って代わられ定員割れの続く公立高校。その運営の刷新を計るべく学力の向上を念頭に、また私学からの入学希望者奪還を狙うべく、校舎や校風を一掃し、子供達に再び振り向いてもらえるような、ピカピカの校舎や校風を打ち出したいとする教育委員会の思惑。

名門校ノスタルジーとその復活を、個のプライドにかけて願う母校関連組織の皆様においては、その利害というか、向かう方向がある意味では同意見であるというか・・・そんな風に思えてならない今日この頃です。

ちなみに、
その後の鴨沂の歩みにおける、およそ60年代以降に続く、これも立派な誇るべき高校の歴史を物語るべく、民主的な校風に育った我々。例えるならば貴族主義的なヨーロッパにおける、もっと例えるならブリティッシュ的というか、ゴシックでクラシカルな歴史や文化、そして建造物に囲まれて跳ねっかえる、パンクでロックな子供達。だったのかもしれませんね。

愛だの恋だのが主軸の、アメリカンロックでは決して無い。歴史的背景があればこそ、その反動の中で育ったのだから、やっぱりノーメッセージではいられない。

そういう環境に在った事も、我々鴨沂高生の特徴だって事。一体次号へは、記載されるのかな。まずは、取材元がどのお立場の方から主には聞かれたか、に、よるところでは、あるのでしょうが・・・。ともあれ。

ミニマムコラム/ときどきおうきvol.9

〜春には桜、秋には紅葉って、みんな親しんでいる、筈なのに

ここのところ、立て続けに3回に渡って、仕事からみで京都市植物園に出向きました。
北山通りから北大路に渡る、広大な敷地面積を誇る植物園。歴史も古く、そこで大切に育てられた樹木や季節の花は、見るからに幸せそうなものだから、こちらの方まで幸せな気持ちになる。そんな、素晴らしく居心地の良い所。そして、これは本当に行政に感謝。何せ、民間運営ではありませんので、入場料が大人200円。ありがたい限りです。

さて、今最も見頃を迎えているバラ園にて水やりをされていた職員さんをちょっとつかまえての質問。
「桜の樹って、移植とかって、可能なんですか?いや、母校が建て替えられる事になって、いったん更地にされるみたいなんです。学校に質問したら、残そうって事になったら、工事期間中にどこか預かってもらえる場所さえあれば、それも出来るでしょうけどね、とあっさりお答えされたんですけど、そんな簡単な訳、ないですよね?」。
植物園の職員さん。「桜はねえ・・・。植え替えに適した時期もあるし、そもそも、そこで長年根付いたものを、そう簡単には植え替え出来るもんじゃ、無いですよ。特に、桜は難しいんです。よほどレベルの高い造園屋の手にかからんと・・・」との事。
「椿は?金木犀は?」
「まだ、それらは根付き易いですから、移植の成功の可能性は高いですね。ただ、桜はねえ。難しいんです。ほんとに。」と。

ちなみに、当方の兄。京都の某造園業で職人として働いております。同じく鴨沂高校を卒業して、高校時代からの就職斡旋にて、現在も同じ会社で働いております。
聞くと、職人らしく、ただぼそっと。「そんな、簡単や、ないで」。

「敷地面積が狭い」。ただこの言葉をもって、樹木の行く末を聞いてもその先の具体的保存の返答も無い、鴨沂に生きる、多くの樹木の運命。
そんな、簡単な結論と結果によって、これらの寿命は、人間の手から奪われても良いのでしょうか?
本当に、それらを取り除いてまで更地にせねばならない工事の様相になってしまうのでしょうか?

季節毎。日本人は春は桜。秋は紅葉。
それらを愛でに、あちこちを訪れます。
花の咲く頃。色づく頃。
そんな、最も美味しい所だけを堪能し、あとはさして注目しない・・・
いや。花が終わり、実をつけ、また落葉させて翌年も、我々を魅了するというサイクルが、樹木には存在するのです。

これら自然に癒された事の少なからずある人へ。
守り、大切にするのも、我々人間の、取り組まなくてはならない事なんじゃないか。
そう思えてなりません。