月別アーカイブ: 2013年6月

京都府庁へ。署名と要望書と共に。

京都府立鴨沂高等学校校舎解体に関する署名趣旨説明及び要望書

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7月1日、皆様から頂きました書面による署名用紙及び電子署名の途中経過と共に、京都府庁へとこちらの要望書と共に、直接お届け致します。

5月20日より始めまして約1ヶ月。書面による署名活動では、同内容の電子署名をあわせまして、6月29日現在にて1000人超えの方のご署名を頂戴致しました!この短期間の中で、これだけのお声を集める事が出来たのは、ご協力頂きました皆様のお陰です。まさしく、自分達だけでは、とうてい及ばない事でした。本当に、ありがとうございます!

「校内樹木を守る」「建材のリサイクル」「鴨沂のピアノを再生する」の署名を合わせますと、のべ約1500人の方のご賛同を頂戴致して居ります。

本当に、ありがとうございます!

書面による署名運動は、取り急ぎ要望書と共に提出致しますので、いったんストップ致しますが、まだまだ、これでは山は越せないだろうと律しております。

電子署名については、引き続きましてオープンにしておりますので、どうぞ、ご賛同下さる方のご協力を、かさねがさねお願い申し上げます。

「鴨沂高校の校舎を守る会」は、お一人お一人の皆様のご協力によって成り立つ、いわばチームです。既存のような組織力はありませんが、その分だけ思いはクリアで、アツさだけが取り柄です。「一緒に頑張りましょう」とメッセージを寄せられて、うれし泣きするような、どうしようもなく人間臭い、素人集団です。

軸はこんなではありますが、必要な情報発信と、要望への根拠と、そして肝心の要望内容は日々の訴えの通りです。頼りない事はどうか、これからも皆様で補って下さい。更に仕入れた情報は、どうかこれからもお教え下さい。
そして、鴨沂高校について、これからも引き続きまして注力して下さい。

これからも、どうか、宜しくお願い致します!

ミニマムコラム/ときどきおうきvol.14

制服を着せられた鴨沂っ子と、これから何が繋げられるかな。

「鴨沂高校の校舎が全面解体される」という話を昨年秋頃の報道で知った時、それは勿論驚いたけれど、その頃はまだ、どこかで「そんな簡単に、あの校舎が壊される訳がないだろう。反対運動ぐらい、起こるだろう。」とタカをくくっていた所があった。「アクの強い、それぞれの世代の諸先輩が、そして先生達が、黙っている訳が無い」と。

けれども次に飛び込んできた、「鴨沂って、制服になるらしいで」という話を聞いた時に、正直、鴨沂高校の校舎が解体されるらしいという話よりもショックで、「ああ。もう鴨沂は終わってしまったんだ。いよいよ潰されたんだ。」という気持ちに至った。

もう。自分たちが大好きだった鴨沂は、この世から消えてしまうんだ、と。

当時、校風も、学生達の大人びたような雰囲気も、校舎の雰囲気も、そして私服であった事も、中学生だった頃の私には夢のように思えた高校だった。だから、鴨沂高校に行きたいと願った。

中学も3年になると、今と同じ位の背丈で大人顔だった自分には、制服というものが窮屈に思えて仕方が無く、スカートの丈がどうとか、ストッキングの色がどうとか、靴下の色がどうとか、そんな、人間の個性の尊重という観点では、躍起のなってつぶされるように学校に追い回される事も、それに必死で小さく反発するのもバカらしい事に思えて仕方が無かった。まさかいわゆる不良、というカテゴリーには含まれていなかったけれども、スカートの上にはもう、制服ジャケットを着るでなく、カッターも着るでなく、普通に私服をあわせて毎日登校すると、勿論先生達には追いかけ回された。イキがっていた訳でもない。「何故なら制服が、私には似合わないから」。そう言うと、先生達もそんな新手の言い訳に、返す言葉も無く愕然としていた。

だから、鴨沂高校に入学した時は、心から晴れ晴れとした気持ちだった事を覚えている。ようやく、あんなにつまらない(と思えた)システムから、開放されるのだ、と。勿論中身は全く伴っていなかったとは思うけれど、私は自分を一人の人間として扱って欲しいという思いだけは確かにあった。

鴨沂高校の先生に、制服化した時の経緯を聞いた。新聞報道では、「生徒達が自主的にアンケート等をとった。さすが鴨沂生らしい」的な内容が書かれていたけれど、実際にはどうだったのか、と。「制服化に決まったのはもう、制服にするけれど、どうか?という質問があった訳もでなく、つまり是も非もなく制服にする、という決定事項からスタートした。生徒達に相談するという形式では全く無かった。ただ、どんな制服にするか、というアンケート等は行われたけれど。」という事だった。その決定事項に対して反対するという動きは無かったのか?との質問には、「それは無かったし、もしも制服にするしないの賛成反対のアンケートがあったとしても、案外今の子供達なら意見は半々に分かれたのではないか」との言葉だった。ふむ・・・。我々の頃だって、私服は毎日選ぶのも大変だし、お金もかかるし、という子だって居たけれど、それもこれも、鴨沂だったと思うのですが、と言うと、そうねえ、と、先生は諦め顔をしてみせた。制服化にして、志願者数もあがった事ですしね、と。

母校でちょうど制服化がスタートしている新入学生達の5、6人組の女の子達に出会ったので、声をかけてみた。
「制服って、やっぱりいいもんなん?」。「えーいやや、ほんまは私服がいい」。「私は制服でいい」。一人の子が言った時、「ええ!そうなん!」と他の子達がいっせいに口を揃えた。そうだろうな、こんなもんなんだろうな、実際は。そう思った。膝上のスカート丈の女の子達を見ながら、「その長さがほんまなん?」「ええ!ちゃうよ、今日は授業違うし、折ってるねん。学校の日やったら、先生に追いかけ回される」。話している所に1年生の制服を着た男の子が近づいてきて「こんなことにどうせなるんやし、最初からそういうスカート丈にしといたらええねん。っていうか、そんなん、どうでもええ話やのに」とシュールな事を言った。「違うと思う事は、言えばええねんで」。先生に聞かれたら、どやされるかもしれない助言をしたら、彼女らはにっこり笑って「うん!」と言った。

いったい。
この鴨沂高校は、同じく名前を冠して、今後も運営されるのだけれど、恐らくはたくさんの鴨沂卒業生が思う所の、「自分たちが居た頃の鴨沂とは、もう今や違うんだ」と痛感してならない。私個人の、一卒業生としてもっとも憂うべき点は、歴史の積み重なった伝統が色濃く薫る古めかしく重々しい学校校舎があって、その上に乗っかって自由を謳歌する鴨沂の校風があって。そのセットこそ=愛すべき母校であったから。これらの片方が失われてしまった場合には、イメージの中の母校というものは、もう既に喪失しているのかもしれない。

ここの所の活動の中で、この鴨沂を母校とされる様々な世代の方とお話をする機会があった。最も上の世代では、90代の、「府一」と呼ばれる頃の女学校時代の方々もおられ、この方々にも有り難い事にご署名をして頂いた。「男子が来るようになって、もう1ヶ月もしたら学校はめちゃくちゃに汚れてしまったの。私たちはそれまで、どんなに大切に校舎をピカピカにしてきたか」と、もう70年以上も前の高校の体制が変わった時のことを、苦々しくお話になるのが印象的だった。

そう。この学校は、そのあまりにも長い歴史の中で、それぞれの世代の方が愛してやまない、そして恐らくはなかなか交わる事のないそれぞれの時代の校風、というものが、存在しているのだ。

海外ドラマ風に例えて言えば、大きく分けて、高貴な子女が通われた女学校時代が第1シーズン。戦後の学校改革で共学となり、東大京大の現役合格者をバシバシと出したのが第2シーズン。60年代以降の民主的な風を吹かして自由を謳歌した第3シーズン。それぞれの時代の価値観の論点が違い、その母校への思いはまちまちであろう。我々世代が愛した校風も、先にも述べたように、そのシーズン違いの方々らにとってみれば、苦々しく思われた事も大いに想像出来るというものだ。

が、こんなにも時代の中で校風なり価値観なりの違う世代の移り変わりにあっても、何が共通し、共有出来うる接点があるとするならば、「鴨沂高校の校舎」というものの存在であった筈だ。
いったい。今後続く第4シーズンでは、ただ正門が唯一残り、あとはきれいさっぱい、このままでは失ってしまう事になる。よって、この第4シーズンに訪れる鴨沂高校生という、キャストどころか、舞台背景も全て、総替えという仕立てのドラマが展開される事になる。
そんな事が、一体想像出来るだろうか。

残念ながら、もはや卒業生という部外者には、その愛すべき鴨沂の校風を守るような援護射撃など、することはなかなか出来ないし、いや、多分それこそ容易な事では無いと思えてならない。「仰げば尊し」も、校風も、制服化の反対も、教育理念を継承する事も、それを我々がどんな手だてでもって、守る事が出来るだろう。それらの継承については、それを守りたいと願う、在校生が存在するなら、彼らの手によって、委ねるしか道は無いんだろうとそう思う。
が、私が思う、唯一の可能性としての「継承」は、この、校舎を可能性のある限り、そして出来る限り守る事を訴える事なんじゃないか?と本気で思って取り組んでいる。一方ではもう、「何もかも変わってしまったんだから、諦めれば?」という冷めた気持ちの視線を受けながらも、こうして無益に思われる活動を行っている。
何もかもきれいさっぱり亡きものにして、新たなスタートを切らねばならないほど、まるでしがらみを捨て去るような夢の無い母校だったのかな?と思うし、愛すべき母校を、今後も未来の同窓生達に、どんなにも素晴らしいものなのか、って事を伝えたく思うからだ。
これまで幾度となく変革されてきた母校の校風であっても、いつの時もベースにあった、幾多の世代にも共有出来得た校舎の風情がここまで残されてきたことには、必ずや意味がある筈だと、思えてならないからだ。

府一時代の方とお別れする際に、「頑張って、私たちの校舎のこと、守ってね」と、強く握手された時の感覚が今もこの手にある。全く違う次元で過ごした筈の私たちにも、共有出来る思いは、まだ、この校舎が存在する事によって繋がれている。

京都府立鴨沂高等学校既存建築調査報告書より

 <京都府立鴨沂高等学校既存建築調査報告書より>

注)以下の文章引用については、2012年6月。校舎全面解体が決定される以前に、京都府教育委員会管理課による依頼の元で鴨沂高等学校校舎群についての歴史的文化的価値側面よりまとめられた「京都府立鴨沂高等学校既存建築調査報告書」より部分的に引用させて頂くものです。

「発行部数が限られていた」との理由によって、結果論的に広く公開されずままに存在していたこれらの内容の全貌については、現在知る所では京都府立鴨沂高等学校、そして鴨沂高校同窓会、京都府資料館にて閲覧は可能です。また、京都府教育委員会管理課でも、要求されれば閲覧は可能となっており、「鴨沂高校の校舎を考える会」代表も、その場で閲覧させて頂いて居ります。資料内容は膨大でありますゆえ、鴨沂高校の創設期における沿革に始まる、歴史的価値への記述につきましては、大部分をカットしております。女学校時代からの歴史背景など、より多くの内容について知識を深めたい方は、閲覧の出来る環境下での実際の報告書をご覧頂ければ幸いです。

これら調査報告書を受けて後にもかかわらず、校舎群の全面解体の決定を下した京都府の判断について、当「鴨沂高校の校舎を考える会」としては、大変疑問に感じ、今一度、これら報告内容について、または報告書の存在自体を知らなかった、多くの皆様へと発信する事により、改めて共有の情報とし、再考されうる機会となればと願っております。

全125ページにも及ぶ報告内容文章を出来る限り忠実に、建造物の希少性をフォーカスし、ダイジェスト的に引用掲載致しますと共に、著作権等の関係上、実報告書に掲載されております写真類、また校舎古写真等、校舎図面等の引用掲載は、許可上の関係にてここでは差し引かせて頂きます。よって以下資料の写真については、「鴨沂高校の校舎を考える会」が撮影致しましたものにて、著作権や使用権は当方らにあります。文章引用については、当方らから研究会様まで直接許可を得て居りますので、その点につきましてはご了承下さいませ。以降これらの掲載内容について、再引用や複製については、ご拝読の皆様におかれましては、各著作権を有する関係へとお問い合わせの上の程を、宜しくお願い申し上げます。

『京都府立鴨沂高等学校既存建築調査報告書」建築まちなみ研究会/代表・大場修・著より、以下引用。

◎鴨沂高等学校のはじまりについて

鴨沂高等学校の前身、新英学校及び女紅場は、外国語学校建設の一環として、明治5年(1872年)に京都市上京区土手町通丸太町下る駒之町の九条家河原町邸を利用して開校した。華士族の子女の通う英学校と女子が手仕事の技術を習得する女紅場が並列する形をとっていた新英学校及び女紅場は、その後、新英学校及び女紅場、女学校及び女紅場、京都女学校、京都府高等女学校、京都府立京都第一高等女学校を経て、戦後京都府立鴨沂高等学校と改称され今日に至る。

京都御苑の東、寺町通りに面する同校の重厚な木造の門をくぐると、すぐ右手には図書館(昭和13年建築)、左手に新体育館(戦後築)が配され、正面には車寄せ玄関のある本館、本館南に教室棟、本館北には特別教室棟の、3棟が連なるコの字型の校舎(昭和11年竣工式)がある。いずれも鉄筋コンクリート造で、戦前に建てられた校舎群の意匠は「モダニズム」と呼ばれる当時流行した新進の意匠でまとめられている。

一方、本館の背後(南東側)には、木造校舎と茶室が建っている。コンクリート造の校舎群にあって、木造の門、平屋建ての和室、茶室は異彩を放っている。

さらに、同校地の北辺を画する荒神口通りのさらに北側には運動場があり、同地とは荒神口通下の地下通路で連結されている。その両出入口の建物も昭和9年に建設されたものである。また、運動場には屋内プール(昭和8年)と体育館(同9年)が並び立っている。

(土手町・九条家屋敷から現校舎地へ移転後も)土手町の校舎は第二高等女学校が利用することとなっていたのにも関わらず、九条家河原町邸時代より引き継がれた表門、茶室、待合、御座所となった作法室及び割烹実習室の2階建ての教室1棟が敢えて新校地へ移築されたと言うことは、これらの建物が学校の由緒を象徴する存在であるととらえられていたと考えられよう。

明治33年(1900年)に新築された校舎も昭和になると老朽化が問題となった。昭和7年度の通常府会において校舎改築を提案、議決され、昭和8、9、10の3年間の継続事業として校舎改築を行う事となる。新築の鉄筋コンクリート校舎が建ち並ぶ中、表門、茶室、作法室の旧来のまま保存されることとなった。表門について、京都第一高等女学校の当時の校長、鈴木博也が昭和11年(1936年)5月20日に行われた竣工式の挨拶で以下のように述べている。

「表門は当初、校舎新築とともに洋風意匠に変更しようという動きもあったようであるが、京都府立第一女学校側が府に強く保存を要望した。その結果、校舎の設計に際して府議会は、校門を修繕存置することになりました。」京都府学校営繕技師の十河安雄は、竣工式の工事報告の中で、意匠設計については「日本趣味を加味したる」モダニズムのデザイン、御所の中を覗き見る事がないよう配慮されたコの字型の校舎配置、学校の歴史を考慮した仕上げ材料と色彩と、いずれも「御所との関係を考えその調和美を発揮」することが念頭におかれたのである。

◎表門について

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鴨沂高等学校の表門は、元々上京区土手町通丸太町下るの九条家河原町邸の門が移築されたものである。明治5年(1872年)に鴨沂高等学校の前身、新英学校及び女紅場が九条家河原町邸をそのまま利用して開校したことから、この表門は学校開校以前から建っていたと考えられる。建築年数は定かではないが、様式的に近世末期のものと推察される。
明治33年の表門移築内訳書には、門の左右にある潜り戸も門と一緒に土手町から移築されてきた。開校当初の写真では門の潜り戸は一カ所しか認められないが、明治33年の校地移転時の行政文書には「左右潜り門」も移築すると記されている事から、向かって右側の門は後の増築であることが分かる。
この表門は、昭和11年の校舎建て替えの際、保存か建て替えかで議論がなされたが、保存される事になった。この表門が同校にとって、皇族や公家との関わりや学校の由緒を示す重要な建物であると考えられたからである。
この表門は近世の公家住宅の数少ない現存遺構として貴重である。同時にこの門は、新英学校及び女紅場以来、途中校地の移転の際にも移築され、戦後の鴨沂高校に至る同校の長い沿革を通して、同校の象徴的な存在としての役割を果たし続けてきた。そのことの歴史的意義も大きい。
今後も長く保存されることが望まれる。

◎茶室について
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(注/報告書における茶室の仕様についての明細は5ページに及びます。ここでは専門的説明文言を差し控え、要約した下りの解説のみ引用します。)

鴨沂高校の茶室は開校当初校舎として使用していた九条家河原町邸から移されたものであると伝えられている。
(鴨沂會雑誌/明治33年により)宗匠円能斎がこの茶室で丹精をこめて茶事を行っていたことを伺えば、(この茶室は)もはやありきたりの数寄屋ではない、と記事は述べている。当時の裏千家の宗匠13代円能斎鉄中は女学校教育の中に茶道を取り入れる事に注力していた人物であり、明治23年の昭憲皇太后行啓の際、茶儀の演習を担当していた教員として千宗室の名前が当時の「鴨沂會雑誌」に記されていることから、円能斎が、この京都府高等女学校において教鞭をとっていたことが伺える。
この茶室は、現存する公家の茶室の一つであると伝えられ、表門とともに新英学校及び女紅場以来、長い歴史を経て現在の鴨沂高等学校に至るまで、同校の出自を示す象徴的な存在としての役割を果たしている。また、裏千家宗匠との関わりの深い茶室として、その意義も大きい。今後も、門とともに長く保存されることを望む。

◎木造校舎(通称「和室」)について

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(注/報告書における和室の仕様等についての明細は5ページに及びます。ここでは専門的説明文言を差し控え、要約した下りの解説のみ引用します。)
この建物は旧校地から移築されたものであり、元をたどると明治23年4月、高等女学校時代に建てられた木造校舎の一部である。当初は、1階に音楽室、2階に作法室を備えた木造2階建ての校舎として建てられた。落成後すぐの明治23年4月27日に昭憲皇太后の行啓があり、その際には2階の作法室が休憩所として使用された。明治33年に校地が現在の寺町荒神口に移転した際、旧校地から移築された表門と茶室とともに、この2階建て建物1棟も移築され、階下を割烹教室、職員食堂、第二作法室、階上を第一作法室としている。
昭和11年の校舎建て替えの際にも、表門、茶室とともにこの建物も保存される事となる。そのために、校舎新築に伴い校内で場所を移し、しかも2階建ての建物はいったん取り解かれ、旧材を使用して現在のような木造平屋建て校舎として再建された。
この建物は「行啓記念館」と命名されたが、その建物の名前からも伺えるように、明治23年、昭憲皇太后の御座所として使用された作法室を、2度の移築を経てもなお、そのままの形で保存しようとしてきた事がよくわかる。
この建物は、明治中期に建てられた高等女学校の今に残る稀少な木造校舎であり、明治の女子教育機関に関わる作法室を伝える校舎遺構として重要である。同校と皇族との関わりを記念するという意義も含め、今後保存の手だてが求められる。

◎本館・教室棟・特別教室棟について

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  • 外観ー外観デザインの基調はモダニズムであるが、本館と左右の教室棟では変化とつけつつ、本館の中心性が強調されている。本館と両教室棟はともに低い寄棟造りの屋根を載せているが、本館では3階の上部、屋根庇の下部にいわゆるアティックの層を設ける事で教室棟よりも屋根を一段高くし、しかも柱型による太い垂直線を主体とするやや厳めしい雰囲気を持つ外観としている。これに対し左右の教室棟は、窓上部の連続庇による水平線を強調することで、軽快な印象を与えている。
    本館と両脇に続く教室棟の、このような視覚的な差異による本館部の中心性は、さらに本館中央上部に高く掲げられた「千鳥破風」という和風モチーフによって一層強調されている。
    本館三階上部のアティック層には、内部の講堂への採光窓である三連のアーチ窓と円柱が並んでいる。しかも円柱の柱頭には寺院でよく見かける雲文をかたどる銅製の金具が付けられていて、アーチ窓との和洋折衷の不思議な組み合わせが試みられている。
    このように全体的には直線的なモダニズムデザインであるが、本館正面上部に和風意匠が大胆に採用されている点が、同校の鉄筋校舎の最大の特徴である。これは隣接する御所御苑との調和を考慮し、同校の立地条件を念頭に置いた和洋折衷の意匠的な試みとして注目される。
  • 本館の構成ー両端西側には階段室が設けられている。階段室は本館端部の西側すなわち表側に置かれ、しかも中階にある踊り場のレベル差を生かした縦長の窓を設ける事で、外観においても本館表面両端を意匠的に引き締める役割を果たしている。
    階段室の手すりなどは木が使われ(アピトンという濃い色の南洋材)、階段の段板、蹴込み板、踊り場のフローリングとともに、これらの木部がプラスター塗りの白いコンクリート壁面との鮮やかな対比を見せていて、階段室は本館内部の一番の見所となっている。

◎屋内プール及び体育館について

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鉄筋コンクリート一部鉄骨造2階建てで昭和8年に、体育館は鉄筋コンクリート造で昭和9年に竣工している。
屋内プールは、創立60周年記念事業のひとつとして校舎改築の最初に着手された。天井の一部をトップライトとして昼間は採光を充分に取り、夜間も使用出来るよう照明が設置された。温水設備、濾過設備は当時の最新設備が採用された。屋内プール棟の内部は、貴賓室、休養室、化粧室、浴室、脱衣場、シャワー室、便所、機械室があり、一度に800人の観覧者を収容することが出来る。
プールの竣工式には久邇宮多嘉王、同妃、同徳彦王が台臨した。屋内プールに貴賓室が備えられ、同校と皇族の関わりが窺える。
屋内プールの竣工から1年後に完成した体育館は、プールと同様の切妻屋根の単純な構成をとるものの、プールとは対照的にその外観には水平庇や丸窓があしらわれ、個性付けがされている。
体育館の1階は玄関ホール、階段室、職員室、便所、体操器具置場、体操場、小階段で、2階は階段室、貴賓室、更衣室、4室のシャワー室、観覧席となっている。天皇の行幸や皇族の台臨に備えて、体育館にも貴賓室が備えられていた。

◎地下トンネルについて

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鴨沂高校の体育館、屋内プール、および運動場は、荒神口通りを挟んで北側の校地に配置されているために、南側校地とは荒神口通り下の地下通路で結ばれている。
地下道の双方の入り口はともに鉄筋コンクリート造で、昭和9年にできている。北側の地下道口は、半円形の庇を12本の独立した円柱が支えるだけの吹き放しの施設とし、外側の円柱の土台部分の立ち上がりにはベンチを設えている。南側の地下道口は、対照的に壁で囲まれた閉鎖的な長方形平面であるが、やはり半円形の天窓が陸屋根の上部に突き出していて、北側のそれとの意匠的な関係性を表現している。
道路下のトンネルは、明治33年、現地に校舎が移転してきた時に設けられたものである。現在、体育館、屋内プールのあるこの北側校地には、明治33年当時は寄宿舎が建てられていた。南側校地の教室棟との連絡のために地下トンネルが設置されたのである。
(当時の)校舎の配置図で見てみると、教室棟と寄宿舎棟は渡り廊下で連結されており、下足(現在の上履き)に履き替えることなく行き来出来るようにとの配慮から、トンネルが設置されたと推察できよう。
道路を挟んだ敷地の連絡用に、このような地下トンネルを設けた事例は全国的にも稀であろう。しかも明治33年の開削以来、今日もなお校地内の重要な通路として使用され続ける地下トンネルは、鴨沂高校にとってその成立事情に関わる不可欠な施設であり、近代化遺産として価値が高い。しかも個性的なモダニズムデザインによる両地下道口がこれに伴うことで、昭和初期の学校建築の意匠性を端的に示す好個の事例としても価値が高い。

◎図書館について

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昭和13年、昭和の御大典記念事業として、また昭和8年の屋内プールに始まる一連の校舎改築の仕上げとして、鉄筋コンクリート造2階建ての図書館が建てられた。表門の右手に建てられ、校庭側と寺町通側の二カ所に出入り口が設けられた。寺町通に面した入り口は、同窓生など、校外からの利用を想定したものという。

1階建ての各階は、他の校舎等と比べて階高が高く、1階閲覧室及び2階に設けられた外来者用特別閲覧室の天井高は一様に高い。
高い階高を結ぶ階段もまた長くなる。ゆえに階段室は短形の本体から張り出させて半円筒型にかたどり、外観に変化を与えつつ、先端には湾曲した縦長の開口部を開け、大階段室の趣きを呈している。

同館の高い階高は、大容量の書庫を収容するためである。各階に鉄筋造2階建ての積層書庫が配架されて都合4層の書庫となり、各層は鉄筋造の階段と小型リフトにより直結されている。最上層に昇ると、寄棟屋根が化粧屋根裏となり、梁は登梁となって寄棟屋根を直接支持している事がわかる。

小規模ながらも昭和初期における高等女学校付属施設としての水準の高さを示して注目される。

外来用の特別閲覧室や出入り口が用意され、対外的にも開かれた施設として計画された。それゆえに寺町通りに直に面し、しかも表門の脇が選地された。同校の顔とも言うべき立地に対して、同館は落ち着きのある洗練されたモダニズムで答えている。

昭和初期の学校付属図書館建築の機能性と意匠性を高いレベルで実現している格好の実例として高く評価出来る。

以下、京都府立鴨沂高等学校既存建築調査報告書より主要ページの複写画像をクリックすることでご覧いただけます。

下記リンクをクリックするとPDFで全文をお読みいただけます(同一Windowで開きます)

京都府立鴨沂高等学校既存建築調査報告書

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検証|積極的検討?検討という言葉の行方

<鴨沂校舎の保存の在り方について、京都府教育委員会の言う所の「検討」は、果たして「積極的検討」なのか、という検証>

先ほどの近況報告に引き続きまして。
例えば、以前フィードにも掲載しました文化庁が提唱する「登録有形文化財建造物」について、鴨沂高校校舎において、その登録に向けた保存活用の在り方を模索されたのか、という件について、該当されうる予測のたつ担当部署に、電話質問。

◎京都市/京都市教育委員会・文化財保護課

「京都市指定か、もしくは京都府指定かについては、校舎所有者が京都府である場合には京都府指定の、という事になるであろう。が、その中でも最も法規制などのしばりがゆるやかで、活用方法もおおらかな考え方である国指定の登録有形文化財に指定するのであれば、文化庁からの窓口は京都市が担当するので、京都府が保存に向けて活用したい、という意思表示があればこちらの京都市が調査や審査を担当し、国に報告する。ただ、これは京都府が現在の所保存活用では無く、全面解体をするという意思の元では、所有者がそう決めている以上、どうする事も出来ない」。

◎京都府/京都府教育委員会・文化財保護課

「登録有形文化財などへの検討については、その判断や検討について行われた訳では無いが、教育委員会管理課が依頼し、調査報告された京都府立鴨沂高等学校既存建築調査報告書によっても様々には検討された結果、校舎敷地を今後も活用するにあたり、充分な教育環境を提案するという事では、難しい判断が迫られ、今の所はそのような考えには至っていない。京都府の方針として、保存活用に向けた検討があれば、こちらも意見書として提案する事はあろうかと思われる。(それでは京都府がそのような意向は今の所は無いけれども、民意が挙ればそれは変わるかもしれない?の質問に)=それもひとつの検討材料にはなるだろう」。

◎京都府/京都府教育委員会・管理課

「国の登録有形文化財へ向けた検討は今の所行われてはいない。(校舎の部分的保存や意匠の継承、茶室や和室、図書館や体育館等の独立棟などをいかように保存するかは「検討」しているという教育委員会のお考えを素直に聞けば、保存にむけて検討しているという内容は、例えば国の登録有形文化財建造物へと指定すれば、活用方法や特徴的意匠の継承も国指導にて行われる訳であり、また昨年に行われた細やかな専門家による校舎に寄せた調査報告書に基づき、検討し、登録に向けて取り組めば、積極的保存活用に向ける事も、またパブリックな公表も出来、かつ教育環境としても柔軟な活用が出来る訳であり、歴史文化の継承も、実に指針として広く分かり易いものになるのではないか。また、この登録を受ければ、例え全体の何%かでも国からの補助にて建築予算の削減にも繋がり、かつ、今年度9月市議会で決定される予定の近代建築に向けた条例改正のテーブルにも載せられやすくなり、あらゆる面でメリットが多いと思われる。その点が考慮されていないのは何故か?という質問には・・・)今後、京都市の条例改正にも内容は照らし合わせた上で、検討はしなければならないという認識ではある。」

・・・との事でした。
何故ゆえに「登録有形文化財建造物」という、実に明確なパブリックな指針に基づいた検討が成されていないのか、という質問には、京都府教育委員会の両課から、明快な回答は得られず、いずれも「京都府がどういう方針であるかによって考えられますが」というお言葉ではありました。

さて。この鴨沂高校校舎の所有者たる「京都府」とは。
この文化庁の推奨する「登録有形文化財」を登録したい、という言葉を発する事が出来る立場なり、決定を下すのは、誰なのか、もしくはどちらの課、なのか。

もしくは、京都府民が声を合わせて陳情すれば、それは叶うのか。
確か、少なくとも京都に在住の方は府民税を納めている訳なので、その税金が投入され、学校運営に活用されている訳ですから、その声を挙げ、意見し、求める事も、大いに出来る筈です。

文化庁が推奨する「登録有形文化財」についての資料は、公式ホームページにもPDF資料で閲覧可能です。保存活用についての未来ある方法論について、こちらの資料は大変分かりやすいと思いますので、ご参考までに、どうぞ。
今後、鴨沂高校は、京都文化コースなる、どのような具体的内容なのかは計り知れませんが、タイトル通りに推察すれば、京都の文化に特化したコースが設置されたりもするようです。

だとするならば、校舎の文化財的価値をパブリックで発信し、また登録する事によって、いかにも特化されたポテンシャルを継承出来うる筈と・・・そう思えてならないのですが・・・。