日別アーカイブ: 2013年11月18日

女学校時代の記憶と共に。時の流れと共に、変わらず大切にするという事の教え。

昭和11年に府一にご入学された、京都の老舗旅館の大女将。

ある日の電話。

ある日。一本の電話が入りました。

「あなた方の活動に賛同します。私は専門家では無いから、校舎をどう残せるのか、それは分からないけれど、出来る限り建物を大事にして、後世へと繋ぐ事は大事な事です。今在るものへの感謝の気持ち、もったいないという気持ち。そういう思いを大切にしなければならないと思います」。

しばし、電話の向こうでお話される内容をお聞きしながら、鴨沂高校の前身である女学校時代の方である事は分かったので、当時のお話を聞かせて頂きながら、お相手の方がどなたかを分からずままに居ました。「この活動の中で、女学校時代の方とは何人かとお話させて頂きましたが、そのようなお話をお聞かせ頂き、皆でいつも喜んでおります」とお伝えしたら、「もし宜しかったら、私どもの所は大正、昭和、そして平成に渡って建物が使われておりますので、あなた方の活動のお役に立てるようでしたら、お越しいただければ」と言われたので、「是非とも喜んでお伺い致します!」とあつかましくも即答してしまいました。

そこで住所を聞かせて頂いて、ここまでおよそ、お電話で15分ばかり。よくよく気が付けば、恐らく生きている限り、当方らにはまず、お呼ばれされる事も無いであろう、京都の中心地にある、あの老舗旅館の大女将さま。その方直々のお電話だったのでした。

昭和11年。現在の校舎が竣工された時に、ご入学された大女将。

どっしりとした構えの玄関を通り、テーブルがしつらえられた和室に通されると、大女将がお越しになられました。その表情は実に穏やかで柔らかで、先ほどまでこちらがその暖簾を潜る前の緊張で思わず吸った深呼吸など記憶が飛んでしまう位の、素敵な面立ちでいらっしゃいました。

「お役に立てるか分かりませんが」そうおっしゃって、こちらがモゴモゴしていると、まずは女学校時代の思い出話を色々として下さいました。

「当時私は堀川中立売あたりに暮らしていて、学校には当初、電車で通っていました。時々友達と一緒にタクシーで学校までつけて、門の前で先生が立っていたら、先生にタクシー代をポケットから出させたりしてね。そういう緩やかな時代でした。ある時から2キロ未満の生徒は徒歩で学校に通うという事に決まって、それからは御所を突っ切って学校へと辿り着くのだけれど、当時の制服は釣りスカートでとっても暑くて、夏になると大変。御所は広くて日陰もないですからね。帰り道はかき氷屋さんとか、冬になれば焼き芋屋さんとかに立ち寄ったりして。そうそう、適応遠足では、学校でもたされるお菓子はゆいいつキャラメル1箱だったけれど、そんなの足りる訳がないから、みんなでポケットに忍ばせたお菓子を、こっそり渡し合いっこしていたものでしたね」。

「学校生活は、みんな活き活きと活発で、楽しいものでした。教壇の高さを利用して、演劇が好きだった子は劇の台詞を真似たり。若い先生をちょっとひやかしたりして、黒板に壁新聞を作って『○○先生、昨日、見合いす。』なんて見出しつけて、先生が真っ赤になって否定するのを面白がったり。毎朝の登校に遅刻して先生に呼び出されたら、ある子は『電車の中で一生懸命走って、間に合うと思ったんですけれど』なんて、茶目っ気たっぷりの冗談を言って先生を困らせたりね。そういう、ちょっとしたいたずらや面白みをもって、みんなで楽しく過ごしていましたよ。その頃の先生と生徒という関係は、ちゃんと尊敬と親しみの垣根がしっかりしていて、時に厳しく、時に優しく。今はやれ体罰とか、なんとかってやかましいし、あれやっちゃ駄目、これやっちゃ駄目ってばっかりのようだけれど、そんな事は当時無かったし、けれどもちゃんと、親も子も節度をもって、また学校の先生も先生らしくおられた様に思います。今はなんだか、私のような古い人間にとってはおかしいな、と思えて仕方ない事があります」。

「ヘレン・ケラーさんが講堂で講演された事も覚えています。手を演台につけて、そこで講堂に居るみんなの拍手とかを、手から伝わる振動で感じられていたのだそうです。また、久邇宮様も御学友で、私のお友達は宮様と一緒のクラスで居ました。ある時、友達が素敵な万年筆を持っていたのを、宮様が「素敵ね」っておっしゃたものだから、差し上げるしかないじゃない、なんて友達が言っていたのも記憶しています」。

「当時、私は数学は大好きだったけれども英語は苦手でした。今になって思えば、あれほど女学校ではしっかりと英語教育がされていたのに、どうしてちゃんと勉強しなかったんだろうと後悔する事多々ですね。元々苦手だった所に、戦争が激しくなる事には敵国語で学ぶ事も無くなりましたから、より縁遠くなりました。今、こちら旅館にもたくさんの外国からのお客様がお越しになるので、そういう時に、ああ、どうしてちゃんと勉強しなかったんだろうって思いますよ。ただ、お習字は大変しっかりと教育されたので、今でもお客様へのお礼のお手紙を書く際に、女学校で教わったお習字は役に立っています」。

そしていよいよ、旅館館内の見学をご案内して下さいました。

幕末期頃より創業された旅館の、時代を遡って代表的なお部屋を次々に案内して頂きました。ただただ歴史的建造物が好きで堪らない当方らは、稚拙表現の連発でただただ感嘆して連れられるがまま。京都に生まれて育ったというのに、こういう様が実に京都であろうという、つまり、華美過ぎず、居心地の良い事この上なさそうな、各お部屋それぞれに光の陰影が美しく、よく知るものにじわじわと伝わるのであろう、優れた意匠の数々を見せて頂きました。よく著名人らがお忍びでこの宿に泊るのは聞いた事がありますが、その噂を聞くたびに「有名人って顔がさすから大変やなあ。宿に籠って京都ものんびり見る事出来ないなんて」と思っていましたが、それは庶民のあさはかな考えだったとつくづく思いました。この宿には、京都を何もたらたらと出歩かなくとも、京都の全てが詰まっている、と言った感じなのです。部屋毎に違った意匠の凝った格子戸、塗仕立ての風呂場の壁や檜風呂。北山杉の様違いの柱、玉虫で装飾をあしらった床の間、屋久杉の天井、作家モノの京都の祭りや風土を表現したステンドグラス、部屋毎の風情に変えられる生け花、文豪らの筆・・・書き上げればキリが無い程の装飾は、それらが決して不揃いでは無く、しっとりと陰影ある空間の中でひっそりと佇んでいるのです。

こちらを京都の常宿としていた川端康成が、「昔から格はあっても、ものものしくはなかった。京都は昔から宿屋が良くて、旅客を親しく落ち着かせたものだが、それも変わりつつある。(こちらの)万事控目が珍しく思えるほどだ。」と表現されるのは、さすがは文豪の言葉でそれを言い尽くしていると思います。

案内は旅館内で最も古いとされるお部屋から次々と時代を経たお部屋まで続きます。

そんな最中、とある渡り廊下で大女将は足を止めて振り返り、「ここが私は一番好きな景色です」とおっしゃいました。それは片側が窓辺で、屋根は舟底天井、突き当たりにお部屋の格子が見える場所でした。

こちらにお嫁にこられたのが20歳。もう、70年も眺めていても、今でも常変わらず「眺めていて良いなあ」と思える場所がある事。その気持ちをずっと、眺め、飽きる事の無い、見つ続ける事の出来る側の、その心に打たれました。

そうして、ずっと、この建物を大切に守られ、また一期一会のお客様の心と共にある事が出来るのだとそう思いました。

古い事と新しい事の調和。ものを大切にするという気持ち。

最後に案内された場所は、この建物の中で最も新しい所、大きな宴会場で、柱ひとつ無い、3面が大変大きな一枚ガラスの、庭を眺める和の洗練された見事な空間でした。釣り天井にして大胆な耐震が計られているというのがそのからくりだと教えて下さいました。

「ここは神戸の震災の時に、建物が傾いてしまったので、その時を機会に新たに建て替えた所です」とおっしゃいました。その昔は、戦争中に一部、建物疎開で道路拡張の為に接収された場所でもあったのだそうです。

「最近では周辺にたくさんとマンションが建ち並ぶようになって、それらの建物が空間から見えないように苦心しています」とおっしゃる通り、窓には大変上手い具合に外の景色が見えつつ、現代的で無機質な景観が見えないよう、様々な工夫が成されています。逆に言えば、私たちが普段、ここら辺りを歩いていても、まさかこの旅館の中に、このような現代的かつ調和のとれた空間がある事も、また各部屋毎に趣きの異なる、歴史の重みが深いきめ細やかな配慮が成された客室が存在する事など、想像も出来ないのは勿論の事です。

「鴨沂高校の校舎も、これからどうなるのか分かりませんが、残せる所は出来る限り残す事が、ひいては京都にとっても大切な事だと私は思います。古いものには、現代には決して再現出来ない貴重なものが多く存在します。もちろん、その時代時代の中での工夫は必要だと思いますよ」と大女将。

確かに、この旅館の中にも、こうして時代時代のニーズにあわせた工夫が凝らされています。その昔には各お部屋に浴室などは無かったそうですし、例えば昭和初期頃に造られた、当時は最先端であっただろう、枕元でカーテンの開閉、お部屋の電気の消灯、音楽のボリューム、それらが一括操作出来る電動リモコンが、それも小槌の仕立てで古風にさせ、空間にちょこんと調和させた仕掛けがあったり、お部屋の不在を知らせるのに外側から点灯する小さなライトがあったりと、その時代毎の良きものを大切に残しつつ、それらと調和し、実にバランスのとれた改修が見事に成されての、つまりいつの時代も大切に使われ、また守られてきた建物なのです。

そしてその、独特の空気感や出で立ちが今も継承され、またそこに宿をとる人の心に寄り添う、素晴らしい場所で居る事が出来るのでしょう。

「私たちの居た頃には、あの校舎には作法室と呼ばれた、お作法を学ぶ和室が存在しました。どうやら、その空間は今は無いと聞いて大変ショックを受けました。例えば、私のような者にとっては、現代の方が、日本のお作法を学べる環境に無いという事は、これからの日本の文化を思えば大変危機感を募らせています。加えて、私どものように、戦争中や戦後間もない頃の物の無い時代を生きた人間にとって、今在るものを粗末にする事、もったいないという気持ち、それらを大切にしないという心がこの日本の中で見られる事を大変悲しく思っています。今在ることへの感謝の気持ちをもってこそ、日本文化は継承されるのでは無いでしょうか。また、京都の文化を守るという事は、そういう事に繋がるのではと思います」。

そう、おっしゃる大女将の確たる言葉。

そのお姿には、鴨沂高校の前身である、女学校時代の教育とその信念が見えるように思えました。

心から。

このような機会と、私たちにお気持ちを継承すべく、素晴らしい理念溢れる空間を、惜しみなくお見せ下さった事に、心から感謝を申し上げます。

興味深い新聞記事より。鴨沂高校が現在取り組む伝統芸能への考察。

15日付朝刊、読売新聞京都版に、興味深い記事を見つけました。

記事には、京都府立北嵯峨高校の「郷土研究部」について書かれています。

概要としては、北嵯峨高校には37年間に渡って京都の郷土芸能に親しむ部活動「郷土研究部」があり、その長い歴史の中で何度も部員が集まらずに廃部の危機も乗り越えながら、「一緒に伝統を守ろう」と、学生が友達に呼びかけ、今は14人の部員で支えているのだそう。「京都の六斎念仏」の稽古に励み、文化祭や地元ホールで公演を行うとの事。

この北嵯峨高校は、普段稽古で磨いた腕を、12月に行われる「全国高校生伝統芸能フェスティバル」(京都市左京区)にて披露されるそうです。

そう言えば。

鴨沂高校もこの12月に、同フェスティバルに「能」を披露すべく、昨日のフェイスブックページ「鴨沂高校の図書館」さんのフィードシェアにあった事が、この記事内容にリンクします。

当方には、勿論、北嵯峨高校の事をこの記事内容でしか読み取る事が出来ないので、本当の事は分かりません。ですので、昨日の鴨沂高校の学生への「能」の強要ともとれる、鴨沂高校管理側の実情と、この北嵯峨高校の実情を計ることは出来ません。

が、少なからず、この記事を読む限りでは、北嵯峨高校には「郷土研究部」なる伝統芸能を継承する部活動が実に37年に渡って活動されてきた歴史と実績があり、その取り組みも、学生が主体性をもって伝統芸能に取り組む、その姿を見る事が出来ます。

一方、鴨沂高校では、わざわざに「授業>能楽>クラブ活動」などと順序を教師側から言い渡され、しかも能の稽古への参加希望者が集まらないばかりに強制的に参加意志を迫られ、加えてほんの数ヶ月というぶっつけ取り組みで同フェスティバルに参加させられるという、あまりにも無謀かつ、イベント趣旨からすれば本末転倒な様相を呈しています。

鴨沂生らが、「能」へのまなざしを閉ざしてしまうとしたら、それは要するにこの、学校側の姿勢から来るものでは無いでしょうか。

何事も体験すべしとは、大変良い教育だと思います。

しかしながら、歴史や文化はそんな、目に見えてほんの数時間で構築されるものではありません。

加えて師匠と弟子の関係については、それは今一度、その関係性をまずは構築すべき、教育者側にも求められている事ではないでしょうか。

当方にも仕事柄「師匠」と呼ぶべき人がおります。

師匠は、私に直接的な何かを教えてくれる事は、現場ではけっしてありませんでした。ただ、その師匠の様を見て、師匠の仕事を見て、片付けや周囲の世話をして、少しずつ学び、失敗を繰り返し、また、ただただひたすら、それこそ師匠を見続けるのです。

鴨沂高校の先生方においても、きっと学生らは先生の振る舞い、先生の言葉、先生の行動の全てを見続けていると思います。

つまり。その関係性が信頼や尊敬というもので構築されてこそ、次のステップへと踏めるのでは、ないでしょうか。

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フェイスブックページ「鴨沂高校の図書館」さんのこの件についての詳細記事

鴨沂高校の「能楽」への取り組みレポート