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このままでは解体を免れない校舎の歴史⑤鴨沂高校・北運動場

◎女子教育における、体育振興の歴史と共に

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(↑写真手前左手が清荒神さん。荒神口通りを挟んで左手が本館校舎。そして右手側が北運動場があり、この通りを地下トンネルが繋がっており、本館敷地と運動場が結ばれている。)

京都府立鴨沂高等学校は、現在のその立地には、本館校舎がある南側敷地の他に、北側の通りである荒神口通りを挟んで、北運動場と呼ばれる敷地があります。

この北敷地には独立棟であるプール棟、本館側にある、昭和40年代に建てられた新体育館に対して旧体育館、そして、本館敷地と北運動場を繋ぐ地下道の上屋が存在しています。

北運動場には元々、明治33年頃に幕末公家屋敷であった開校地の九条家敷地から現在地に校舎が移転した際、明治34年に竣工された寄宿舎が存在していました。

日清戦争以降、女子教育に対する関心の高まりと共に、明治32年には高等女学校令が公布され、国による女子教育制度の整備が着手されるようになると、入学志望者募集定員が超過し、前年より初めて、比較試験(今で言う所の入学試験)が行われるようになるなど、順調に入学希望者数を伸ばしてゆきました。そこで更なる教育施設の充実を計るため、現在の校地へと移転されたという事です。

現在の校舎へと改築される際には、明治期に建設された校舎の老朽化という理由が掲げられていますが、一方では当時の全国的な流れとして、大正末期頃より盛んに言われるようになった、女子教育への積極的な体育授業の充実が計られようとしたのでは、と見て取れます。京都府立京都第一高等女学校の創立60周年記念事業の一貫として、在校生や卒業生、ご父兄らより要望され、また寄付金も集められていた図書館建設より先んじて、まずはプール棟、そして体育館、その後本館、最後に図書館の建設という順序を見ても、この高等女学校に体育施設の建設が急務であったのでは、との推察が出来るのです。

1928年のアムステルダム五輪での陸上銀メダリスト・人見絹枝さんの活躍、1932年のロサンゼルス五輪での水泳銀メダリスト・前畑秀子さんの活躍・・・日本人女性選手の世界を舞台にした大活躍も、大きく影響したでしょう。これまで、女子教育の中で運動となれば遊戯の延長でしかないレベルであったものに、本格的な教育面でのてこ入れが成されてゆきました。

大正14年には府一は初めて、東京・明治神宮で開催された全国大会にて、籠球部、庭球部が出場。その後ほぼ毎年、全国大会に選手出場を果たし、昭和7年(1932年)には高等科の女子選手が陸上競技にてオリンピックの出場を果たしています。これらの成果をもって、「従来の知育に加えて体育推奨の方法を講じ、その成果を見るに至る。かくて校運隆々たる中に、創立60周年を記念し祝賀することとなる。」と、当時の沿革史は校舎改築の機会について結んでいます。また、当時の鈴木校長の野心をもって、口癖であった「府一を東洋一の学校に」という言葉の通り、学問も一番、運動も一番を目指し、ただひたすらに遠距離を歩かせる「適応遠足」を取り入れ、また登山で精神力を養わせ、バスケットやバレーボールなどの競技に力を入れ、ついにはオリンピック選手を輩出するなどし、この学校施設を本当の意味で一番の学校へとすべく、奔走されました。

そうして、現在の北運動場は、それまでの寄宿舎を解体して更地とし、運動場として活用すべくスタートを果たしたという事です。

ちなみに、運動場の総敷地面積は約5000㎡。勿論、街中の事ですから、充分な敷地面積とは言えず、女学校時代にも運動会を開催するには毎年、京都植物園にあったグラウンドを借りていたとされます。これはその後の鴨沂高校に至っても運動場の面積不足は問題であり、近く鴨川敷地、または御所内の通称「西運動場」と呼ばれたグラウンド、昭和32年より願い届けが出されていた、京都市北区にある紫野グラウンドの使用をもって、体育授業や部活動、学校行事等を行ってきたのです。

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(↑府一時代における体育祭の様子。運動場が手狭であったため、当時から体育行事は植物園のグラウンドを借りて行われた。球技大会では女学生自らがバスケットゴールを運び出したとされる。)

◎戦後の混乱期の中で

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(↑バスケットボールと並んで、当時は「排球」と呼ばれたバレーボールも、府一では盛んな部活動だった。昭和11年夏の北運動場の様子。)

昭和20年の終戦を迎えた京都府立京都第一高等女学校。

終戦最中の混乱期にあって、 進駐軍であるGHQによる介入は、教育現場にも及びました。そんな中、昭和22年には府一の創立75周年記念の年となり、喰うや喰わずの時世の中、「創立75周年を迎えて記念式典が挙行され、父母の寄付により全校舎に放送設備が設置された。今では公立高校で親がこのような費用を負担するなど考えられないだろうが、親たちは苦しいタケノコ生活の中からこれを負担したのだった。(中略)大宮御所東側にあった西運動場も、記念事業のひとつとして、関係官庁と折衝して作られた。」と、府一から鴨沂高校へと移行された時期にこの学校に在校されていた、元府一ご出身の卒業生の記述があります。

その後、翌年である昭和23年には、府立第一高等女学校、第一中学、嵯峨野高等女学校の3校が合併し、新制高校として発足しました。これは、進駐軍の指令による「高校三原則」、いわゆる「地域制・男女共学制・総合制」という制度に基づいたものでしたが、この発足当時には、勿論大いなる問題や歪み、葛藤があったのではと推察されます。特に元々この校地にて既に学生生活を過ごしていた府一女学生には、「高校再編成の気運が日一日と高まり、生徒にとっては男女共学になるか、通学区がどう設定されるかが一大関心事であった。自由志望で府一に進学した学年では、府下全域さらに隣県から来ていた人もあったから、府一の校舎を去らねばならない事に強い抵抗を覚えるものも多かった。(中略)(先の75周年記念事業での母校への尽力にも関わらず)その結果がほとんど利用もしないままに校舎を去るのだから、その悔しさも分かろうというものである・・・」と、当時の心境が綴られています。

これら、この運動場の手狭さを解消すべくご尽力し、獲得した西運動場でしたが、府一の女学生が満足に使う間も無く、この校舎群ともども、新制高校である鴨沂高校へと移行されました。

そしてその後、この西運動場は、紫野グラウンドの利用が可能となった後、高校側の一方的判断の元、昭和40年に御所側へと返還されてしまったのです。

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(↑鴨沂高校学内にて発行されていた学生による「鴨沂新聞」。昭和40年において、この学校でのグラウンド問題について触れられている記事。)

◎北運動場は戦後しばらく、GHQに占拠されていた

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鴨沂高校3期生による手記に、当時の北運動場の様子が記述されていますので、引用します。

「体育館やプールは占領軍の接収下にあり、北運動場は駐留軍やアメリカンスクールのバスが占拠し、当初は立ち入る事さえはばかれる状態だった。私が所属していたバスケット部は、立派な体育館を目の前にしながら利用出来ないという悲運に見舞われていた。北運動場西側のアウトコートで、体育館に出入りする米兵を横目に見ながら暗闇の中で練習を続けた記憶がある。三高、一中、工繊大のコートも借りたし、雨天体操場も使った。(中略)当時、体育館は、入口左側の階段の所に事務所が作られており、そこにマキューという名前の米軍人が常駐し、数人の日本人雇用者が維持管理に当たっていた。館内は、その時々でいろいろ作り替えられたが、コートの左右に階段状の観覧席がつくられ、ボクシングのリングが設置され、サンドバッグがつり下げられ・・・そこはまさにひとつの別世界だった」。

その後、彼らと接触を重ね、コートの掃除をするという条件なども提示し、非公式で彼らが使わない時間に、これら施設が使えるように交渉をし、また成立させるというのが、当時の鴨沂生の逞しさというべきか。

時に彼らと試合をしたり、交流を重ねつつ、学校の一部が接収され、米軍と同居をするという異常な時期をも、鴨沂生はかかんに自らの成すべき事に対応されたと記憶されています。

「当時、北運動場の温水プールは進駐軍用となっていて、米兵がよく遊びに来た。昼休み、僕らは覚えたての英会話で話しかけ、ジープに乗せてもらって荒神口から出町、寺町と回り得意がった。」とは4期生の記述。

また、3期の方による座談会での発言には、「温水プールに焚く石炭を(GHQが)運んでくるのですが、雨が降った後にテニスコートにダンプが入られるとテニスコートがぐちゃぐちゃになるというので、進駐軍に何とか言って欲しいと言った所、校長先生が申し入れをして下さり、私たちの要求はすぐ実現し、塀の外からダンプの荷台を持ち上げて石炭を落とす事になった」と、当時の鴨沂校長が、進駐軍側にはっきりとモノを申した事の凄さについて、感想を述べられています。

加えて、グラウンドの狭さについては当時から言われている所である事が分かる記述として、「余りにも狭いグランドは一般男子にも不満が大きかったが、運動部には誠に気の毒だった。(中略)立派なプール・体育館があっても、残念なことに進駐軍に接収されてオフリミット。真冬でも派手な水着の米兵を横目にし、敗者の屈辱を感じ入らせたのである。」とは、昭和26年度卒業生。

今やのんびりと、そのような事などはまるで無かったかのように、静かに佇む北運動場の様子。

そこには確かに、高い教育思想の元に築かれ、多くの女学生が心身ともに鍛えた場所であり、また戦後には一時、敗戦国としての困難期を経ても、逞しく全身いっぱいに活動する、当時の鴨沂生の姿がありました。

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(↑地下トンネルを上がると、出入り口建屋が。)

◎地下トンネルは、過去現在を繋ぐ

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明治33年というはるか昔。現在地に校舎が移転された頃から、この地下トンネルは設けられています。

当時の校舎は教室棟と、その北敷地にあった寄宿舎棟はそれぞれに渡り廊下が設けられて居り、上の荒神口通りを土足に履き替えて渡らずとも、この地下トンネルを通れば上履きのままに行き来出来るという事で、開通されたとの事です。

現在も残り、また活用され続けてきた地下トンネル。この道を一体どれほどの学生が、行き来したかと想像すると、なんともロマンのある話に思われます。

専門家にも「道路を挟んだ敷地の連絡用に、このような地下トンネルを設けた事例は全国的にも稀であろう。しかも明治33年の開削以来、今日もなお校地内の重要な通路として使用され続ける地下トンネルは、鴨沂高校にとってその成立事情に関わる不可欠な施設であり、近代化遺産としての価値が高い。しかも個性的なモダニズムデザインによる両地下出入り口がこれに伴うことで、昭和初期の学校建築の意匠性を端的に示す好個の事例としても価値が高い」とされています。

このように、近代建築の専門家から絶賛を浴びる地下トンネル及び出入り口。

この出入り口に関しては、当初は正門以外の全ての校舎の全面解体を方針として打ち出し、校舎の意匠の部分的継承を検討としていた、京都府教育委員会側の提示していた素案ですら、保存される事が決定していました。恐らくは、この建屋については、地下トンネル共々、各方面の専門家による歴史的に貴重であるとの進言があったのではと、推察されます。

ところが、悲しいかな、その特には出入り口の老朽化、及び長年に渡って予算を投入されず朽ち果てるにまかせた姿には、あまりの過去の在校生による落書きが施されているというのが現状です。

老朽化にまかせ、そのままに放置されたのが先か。それとも大事にせず、落書きするにまかせ、老朽化に拍車がかかったのが先か。いずれにせよ、この出入り口がよもや、専門家らの大絶賛を受けるなどとは思われもせず、近代化遺産などと称されるとも思わず、私たち歴代の鴨沂高校卒業生が、この建物を痛めつけてしまったのは歴然たる事実です。そしてその傷の深さ、傷の多さに、これらが更に、その貴重な存在であるという認識を多くの者にとって薄れさせてしまった事。これもまた事実。

この建物については今や、現在の学生らにとって、「グラウンドをせめて広く使えるよう、この出入り口は必要無いのでは」との趣旨の元、必要無しの烙印を押させてしまったのは、根底には勿論、紫野グラウンドを鴨沂高校から無くしてしまう府教委による方針と共に、この運動場に残る全ての歴史物語を鑑みる事無く、その上この建物をむやみに傷つけてしまい、その価値についてはもはや読み取りすら困難にさせてしまった我々卒業生の責任であるようにも思えてなりません。

しかしながら、であるからこそ問いたく思うのは、果たして、この存在の今後の有る無しについて、多くの専門家と、また在校生、そして文化財的価値が認められるのであれば(その市民としての財産という意味でも)多くの市民とで、しっかりと将来について議論が成されなければならないのでは、無いでしょうか。

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無くしてしまうのは一瞬。

例えばこの小さな建屋ひとつをとってみても、その価値を理解せず、朽ち果てるに任せ、またその老朽化に拍車をかけてしまった無邪気な罪を背負ったままでいる私達も勿論、しっかりと過去を反省し、見直しをせねばならないのではという事を、問われている気がしてなりません。

また、鴨沂高校は、その前身である高等女学校の時代においても、グラウンドの狭さについては長年に渡り問題とされ、この北運動場だけでは足りないとの要望のもと、戦前の府一時代には、体育祭は植物園のグラウンドを、また戦後には京都御所内にある敷地を専用運動場として確保する事に尽力し、その後の男女共学時代へと移行した鴨沂高校時代においては、更なるグラウンドの手狭さに対し、府と交渉を重ね、外部グラウンドである「紫野グラウンド」を確保する事に成功したという経緯があります。今後、校舎の再整備にあたっては、紫野グラウンドの廃止と共に、この鴨沂高校の専用グラウンドは現在ある北運動場の更地化により、これをもってグラウンドとするという方針が言われていますが、これは先にも述べたように、女学校時代よりも更に狭い運動場面積によって、体育や部活動、また体育行事を行うという事になります。「質実剛健」や「文武両道」がその校風の根底でもあった鴨沂高校は、今そのエネルギーの比重を、文系へと大きく舵切りされてしまうのでしょうか。

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参考資料/「旧制中学の系譜・京の人物模様・府立第一高女その1~その9」ー昭和55年読賣新聞連載記事、「京都府立鴨沂高等学校既存建築調査報告書」ー大場修、「鴨沂の歩み」ー京都府立鴨沂高等学校旧教職員の会

このままでは解体を免れない校舎の歴史④旧体育館

旧体育館の建物的特徴

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(写真は昭和11年の校舎落成記念帖より。外観及び内観)

先のプール棟から次に着手された建造物である体育館は、昭和9年に竣工しました。

プール棟と同様、切妻屋根の構成をとり、外観には水平庇や丸窓があしらわれ、両側面には柱型を強調した大きな縦長窓を連続させており、館内は充分な採光が確保されています。

出入り口廻りは屋根を陸屋根として庇を深く張り、壁面に大中小の丸窓を効果的にあけて外観意匠の見せ場としています。内部の階段に備えられた大円形の親柱との意匠的な呼応関係が意図され、デザインの統一性が保たれた空間は、我々在校中にも興味深い建物に感じていました。

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内部には職員室、便所、体操器具置き場、体操場、2階には更衣室、シャワー室、観覧室という構成になっていたとされ、天皇の行幸や皇族の台臨に備え、貴賓室も備えられていたそうです。また、2階バルコニーからは、我々の在校中には文化祭の最大の見せ場である伝統行事「仰げば尊し」パレードの終着が北運動場で、最後のアピールはこのバルコニーから全生徒に向けてそれぞれのクラスのスローガンを発表しました。

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(↑87年度卒業アルバムより。「仰げばアピール」の光景。旧体育館から北運動場を望む。)

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(↑89年度卒業アルバムより。)

ちなみに、現在の鴨沂高校においてはこの旧体育館のフロアーはほんの数年前に全面張り替えを行い、大変美しい体育施設として活用されています。また、こちらの建造物も耐震性は公表されている中でも補修にて充分な耐震化が計れるとされます。加えて建物構造の専門家の見解では、「こちらの建物はいよいよ戦争に舵を切る中、物資不足が予想される中で、鉄骨鉄筋コンクリート造という非常に頑丈な造りで建設されている。その事を考察するに、有事の際の避難場所としても、考えられていたのでは無いか」と言われております。

これら、鉄が貴重な時代にも惜しみなく強固な構造を施し、また、ほんの最近には貴重な血税をもって改修されたばかりの体育館も、北運動場の更地化計画の元、解体プランに加えられています。

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(写真は現在の旧体育館内部の様子)

女学校時代における、体育施設とは

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(↑当時は籠球と言われた、バスケットボール。府一はバスケット、バレーボールなど、全国大会の常連だった。当時の学校配布誌には、運動部へは積極参加が再三に渡って呼びかけられている。)

女学校時代の歴史を紐解き、また当時の方々の証言を拾い集めてゆけばゆくほど、我々がなんとなく、当初描いていた「女学校」という、たおやかで、控え目なイメージとはある意味でかけ離れた校風であったという事がだんだんと分かってきます。

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(↑昭和12年の適応遠足第一班は、東寺集合朝6時半。四條畷まで夕方6時頃着の道のりはおよそ40キロ。個人の体力によってコースは分けられていたが、最長コースの40キロには当時参加者557名とある。)

当時を過ごされた方々から体育行事の様子を聞き取りをしていても、例えば「適応遠足」と呼ばれる、京都~奈良、京都~大阪、京都~滋賀と、大変長い距離を1日かけて歩くという、今から思えば大変骨太な遠足があったり、登山と言っても、近くの大文字山どころではない、今なら基礎体力は勿論、かなりの登山経験者でなければトライする事もないレベルの登山があったり・・・と、高貴な子女がやんわりと通った学校では無い、勉強も体育も、どちらもこなすスーパーウーマンを育てる学校だったんではないか、という事、当時はまだまだ男女同権など夢のような時代にあって、男子並に未来を生きるであろう前衛的な女性が学ぶ教育の場でもあった事が見えてくるのです。実際に当時は様々なスポーツ種目において度々全国大会に出場している事も記録に残されて居り、学業はもちろんの事、「運動の府一女」と称される程、運動能力にも長けた女学生の集団であった事が、記述より見てとれます。

そう言った意味においても、この鴨沂高校に現存する体育施設というのは、教室棟同様、これらの歴史の語り部たる建造物である事が言い当てられるのではないでしょうか。

さて、鴨沂高校にある体育館(旧体育館)が竣工された昭和8年頃とは、いったいどんな時代で、また教育における体育というものはどのような内容だったのでしょう。加えて、鴨沂高校の前身である京都府立京都第一高等女学校とは、どのような校風であったのでしょう。

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全国的な女子高等教育の中に質実剛健の気風が高まる中、女性の体力、体位向上は「よい母」になるためにも、また先進国の女性に伍していくためにも重要という考えのもと、これまでは遊戯的色彩の濃かった体操は、1920年頃を境に近代スポーツへと形を変え、陸上競技にテニス、バスケット、バレーボールなどの球技、水泳が盛んになったとされます。雨天体操場(体育館の意味)もこの頃から全国の女学校で設置され始め、体育振興に一役買ったとされます。各種競技会や運動会、季節によって水泳や登山などの体育行事が加わったのだそうです。

近代オリンピック草創期の大正15年に開催された第二回万国女子オリンピック大会。単独出場し、個人総合得点で優勝、ついで昭和3年のアムステルダム5輪では800m競争で2位入賞、日本女性初のメダリスト・人見絹枝(1907~31年)は、大阪毎日新聞から声がかかるまで、京都第一高等女学校にて体育教師として奉職していたとのこと。陸上競技に女子が参加する事が出来なかった時代にあって、このような陸上女子の礎とも言われる選手を教員として迎え入れているという事を鑑みても、文武両道という表現は違うのかもしれませんが、この女学校の並々ならぬ前衛振りが推察出来るように思います。多忙の日々を送る中で体調を崩し、僅か24年の命を終えた彼女は「私が死んだら世間の人は何と思うだろう。人見は運動をやり過ぎて死んだ、女の子にスポーツをやらせるのは危険だと言わないだろうか」という最期の言葉を残しているとされます。

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(↑アムステルダム大会で800m走で接戦する仁美選手)

「私が入学して5年生の頃には戦争が激しくなってしまったので、だんだんと部活動が充分に出来なくなってしまったけれど、私たちの先輩の頃には、バスケットボール(当時は『籠球』と言った)が大変強くて、全国大会で優勝したりしたんです。全国大会出場となると、東京の神宮で試合があって・・・と、とても自慢された事を覚えています。」とは、当時のお話をお聞かせ下さった府一出身のご婦人。この体育館で毎日練習をしていたと語られ、「私はお勉強より毎日、授業が終わってバスケットをする事ばかり考えていました」と笑っておられました。また、府一のバスケットボールチームは、当時の女学生の憧れの的であったとも言われています。今の鴨沂高校には男子は勿論、女子バスケットボール部はあって、今もOB・OGの繋がりや交流戦などが行われていると聞きます。つまり、女子バスケットボール部は、この学校において水泳共々、大変伝統ある部活動であったという事になります。

女学校時代の校風にみる、鴨沂高校のルーツ

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京都府立京都第一高等女学校に学んだご婦人のインタビュー(1980年/読賣新聞)に、母校の当時の様子が語られています。当時、どのような校風であったのか、という事がこれら以下の言葉から読み取る事が出来ます。

「五代目大石校長(大正6年から14年)で府一のムードが大きく変わった。『人間は顔かたちで判断するものではない。勉強して中身をみがけば美しくなるものだ』『摘出子の女子が庶子の男子より下位ということは男性上位の法律だ』と旧民法の相続の矛盾を指摘。さらにそれは『男子がつくった法律だからで、男女平等を改めなければだめだ。それには女子も男子と同等の教育を受けねばならん』と教える。『婚姻の話の時、絶対に結婚式と同時に入籍する事、多くは結婚式のあとで嫁の入籍をする風習があるが、それは絶対にいけない』と。これは強く主張して教えて下さった。乙女の私はぼんやりと実感が伴わなかったけれど、先生の熱意ある語調に強い感銘を受けた事を記憶している。大石校長は『法律と経済』と題した自著の教科書を使い、修身は女性の人権の高揚を説いた。補講の時間は、種々の文学をとりあげ、また芸術をとく。特にフランスの文豪ビクトル・ユーゴー。『わしはユーゴーが好きじゃ。』と言いきる。真善美を平易に説明し、人間の生き方を文学作品を通じて生徒に教えようとしたのだ」。

また、昭和10年代にこの学校に学んだご婦人による当方がお聞かせ頂いたインタビューでも、当時の鈴木校長が全生徒の前で語った言葉が印象的であった事を教えて頂きました。「当時の府一には、はっきりとした校則というものが無かったので、入学した時には驚きと戸惑いが正直ありました。戦時中にあって統制強化がますます厳しくなる時代でしたから、そんな学校はまわりに無かったからです。当時の鈴木校長は、私たちに『みんなの自主自立に待つ』と言われました。今でもはっきりと、その言葉を覚えています」。

これらの証言を読み取るに、男女共学となった戦後の鴨沂高校。全国でも有名な「自由な校風」と謳われたその学校の方針は、実は戦前の女学校時代にすでに始まっていた、そのルーツを垣間みる事が出来ます。

「当時、最先端の女子教育の場」という言葉で言われる現在の鴨沂高校校舎群には、こうした時代背景と共に女学生達へと注がれた、運動も勉強も男子と同等に学べる環境づくりという理念の元、未来の女性像の確立のために設備された学校施設であり、これらが現在に至るまで残っているという事はすなわち、貴重な歴史の語り部であるという事が分かってきます。

また言われる所の「これら当時の教育施設が総合的に現在も残され、活用されているという点も貴重である」との専門家評価は、なるほど、そういう事なのだとも理解出来ることでしょう。

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(↑昭和16年に育館で行われた「救護法講習会における担架作業」。非常時局せまる頃には、沿革史に見る限り、こうした有事の訓練なども数多く行われている。)

参考資料/「京都府立鴨沂高等学校既存建築調査報告書」(大場修・京都府立大教授)、「高等女学校の研究~1920年代の教育実態をめぐって」(山本礼子・福田須美子)「学校より家庭へ」(京都府立京都第一高等女学校)

大正末期から昭和初期にかけて。女学生時代を過ごした俳人のエスプリ。

大正末期頃に御在学されていた方による、京都府立第一高等女学校の記憶

「レモン風呂足の指より洗ふくせ」

ある日、ネットで京都府立第一高等女学校の事を色々と検索している時に、ひとつの俳句が画面から飛び込んできました。

なんて洒落た俳句だろう・・・!スパッと感覚に入ってきて、そしてありありと映像が見えるような心地になりました。

この俳句がどんどんと、大変頭から離れなくなってきて、作者の経歴を読んでみたら大正元年(1912年)生まれとある。と、言うことは101歳・・・そこに続くのは京都府立第一高等女学校卒、とある。

記事掲載が去年であることを確認し、作者であり、大先輩でもある方に、どうしてもお会いしたくて記事元に連絡し、ご家族と繋げて下さいました。

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(↑女学生時代頃のお写真より)

京都府下にお住まいの作者は、現在娘さんとの二人暮らし。

「寝たり起きたりの生活ですが、質問されれば当時の事は喜んで答えますよ」とおっしゃって下さり、ありがたくもご自宅にお伺いさせて頂きました。

質問を娘さんに伝え、その娘さんに介添えされてお答え頂くという形にて、以下の通り、大正末期から昭和初期頃の女学校時代の記憶をお話頂きました。

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(↑大正11年に行われた創立50周年記念帖より。校長式辞)

「母はどうやら、名門の府一の中では、異端児であったようですよ」と娘さん。横で茶目っ気たっぷりに笑われる作者のお顔に、どこか当時の様子が想像出来るような心地になりました。

作者であるご婦人は、大阪の船場にあった商家の7人兄弟姉妹の一番上の長女としてお生まれになられました。作者のお母様も府一のご出身であった事から、長女で一番可愛がられた作者は、お母様の母校である府一に入学を希望し、母方の実家でお祖母様がおられた京都市内に下宿し、そこから毎日女学校へ通われたそうです。

当時は制服が無かった時代でした(昭和5年に制服は制定された)ので、「お着物か袴で通学されていたのですか?」と尋ねると、「ううん。洋服だった。」と作者。お話を聞くと、当時いわゆるモダンガールであった作者は、何事も和より洋物に興味があられたそうで、府一を卒業後にご結婚されたご主人とも恋愛結婚、出会いは趣味のダンスがきっかけであったのだそうです。

「勉強で好きなのは何でしたか?」との質問には、「ぜーんぶ、嫌いやった。」とにっこり。ご謙遜でしょうとお伝えすると、「とは云え府一は勉強が出来なかったら入れない学校とは聞いていますから、母も当時はそれなりだったのかもしれませんが、どうやらお友達から聞いていると、先ほども言いましたように母は学校では異端児で有名だったみたいですよ。下級生だった方からも聞きましたが、母が『卒業する翌年には宮様がご入学される事が決まっていたから、学校も早く卒業させたくて、落第させなかったのよ』と冗談を言われる程だったようです。」と娘さん。当時は授業で在った筈の茶儀も苦手で、当時お茶をされていたお父様の自宅にお茶の先生が教えに来られていたそうですが、「先生が来るとなると逃げ隠れてばかりいた」とのおてんば話も聞かせて頂きました。

ある日のこと、作者は学校から呼び出しを喰らい、その事が恥ずかしくて元母校に行く事を拒んだお母様の替わりに、お父様と一緒に先生にお叱りを受けたのだそうです。

「何をして呼び出しされたんですか?」と尋ねると、「(学校にある)木に登ったから」とまたにっこり。

帰り道で振り返ったお父様も、「あの先生、えらい怖い先生やなあ」と、一切叱らずに娘と共に笑ったそうです。

木に登って呼び出し・・・なんて微笑ましくて、緩やかな時代だったんでしょう。

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(↑大正11年に行われた創立50周年の際の園遊会の様子。「向かって右は珈琲店、左は菓子店」と記載されています。)

「色々と当時、府一に通われていた方々からお話を聞くにつけ、またお会いするにつけ、どうも私たちがぼんやりイメージ付けされていた、お嬢様で、かよわくて、たおやかで・・・という印象では無く、運動もし、勉強もし、利発で、洒落た方がたくさんおられた、という事が分かってきたのです」と伝えると、作者の娘さんも、「そうね、少なくとも、母のお友達もみなさん、大変個性的で活発な方ばかりですよ。府一の頃は、あの有名な適応遠足を始め、『歩いてばっかりいた』と母はよく言ってましたし、ですがその頃の勉強と運動のお陰か、年を重ねても元気で知性のある方ばかり。母も95歳くらいまでは、毎年同じ時期にお友達と集まって食事会に出掛けていましたし、また皆さんも大変お元気でしたよ。」と、おっしゃいました。

どうやら、府一は当時の他地方における「良妻賢母型」教育方針では無かった事もあってか、「結婚後も家事は一切ダメ」であったけれど、結婚されたご主人もそういう作者の個性を尊重し、「今から考えれば実に現代的で、自由で、束縛のない夫婦だったと思う」との事。同じく府一出身で俳句に親しかったお母様に連れられた句会等に連れられた事をきっかけに、俳句に興味を持たれたのがスタート。これまでの人生でお詠みになられた俳句の数々を拝見すれば、その時代に生まれ育ち、女学校時代を朗らかに謳歌され、また個性を育まれた事が、山と話をせずとも、大いに想像出来るように思いました。

終始お話をお伺いしつつ、茶目っ気たっぷりににっこりされるそのお顔に癒されての時間。

最後には作者のこれまでの人生でお書きになられた句集を頂戴し、握手をしたら、その握手のあたたかくて強い事!

帰り際。もう一度、気になっていた質問を聞いてみました。

「で、どうして木に登りたかったんですか?そこから何か、見たかったんですか?」

「ううん」。

「ただ、登りたかっただけ」。

そう、登ってみたかっただけ。

あの高貴な校舎に建ち並んだ木々のてっぺんに足をかける、可愛いスカート姿の女の子が、見えた心地がしました。

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作者による、春の句からいくつか。

「思い出し笑い不貞寝の恋の猫」

「ルノアール女のほしい春帽子」

「春に逝く指切りげんまん幾度せし」

「愛するはやさし別れは難き春」