月別アーカイブ: 2014年9月

パブリックスピーチが出来ない高校生の作り方。

「ちょっとヨコミチ。グローバル化を掲げる一方で。」
〜パブリックスピーチが苦手な日本人の作り方?

つい先日頃の事。主にネット上で、女優エマ・ワトソンが行った国連本会議場で行ったスピーチがバッシングを受けているとの話題がありました。内容の賛否はともあれ、以下、いわゆるパブリックスピーチの可能性やその危険性(と言っても、世界にコミットする事自体の危険性では無く、その内容がいかに届くか、届かないかの危険性)について、ハフィントン・ポストで記事がアップされています。また、パブリックスピーチ力がいかに今必要とされているか、という事も述べられています。
http://www.huffingtonpost.jp/takao-hirose/public-speech_b_5894692.html?utm_hp_ref=mostpopular

かつて鴨沂高校では、仰げば尊しパレード、アッセンブリーや校内討論会、また高校生春期討論会などへの参加など、その学校の記録物を紐解くと、盛んな議論がその時代毎に内容を変えて行われています。人前で話す、自分の意見を人に伝える、議論する、社会に起こる様々な問題に関心を持つといった機会が多くありました。
こうした事がいつしか、いやそれは初めからか、京都において教育行政の方向性が変化したからか、これらの活動内容はどうやら「政治的」というくくりで怪訝がられるようになった様ですね。毎度議題に挙るものが、目の上のたんこぶだったのでしょうか?
例えば「京都の高校生春闘」をネット検索すると、かつては府教委や市教委が主催であったものが、現在もどうやら年1回開催されているものの、学校単位の参加では無く、勿論主催も外れているのか、会場も公立高校での開催はNGとなっている様です。
一方、こうした動きに関して反対を掲げる団体サイト(学生運営のサイトでは決して無い模様)なども見ると、その行政批判になるほど、そういう事かとその主張の意味が分かる一方、なんだかその批判の矛先も、また昨今の高校生らがそうした事が苦手となっているのはあたかも、昨今の教育行政の成せた業だ、と言い切るのは、それだけが原因とは、違う気がするなあ、というような心地にもなります。

そもそも、残念なのはこれらかつての京都に、いや日本における高校生らの活動に、結局の所政治レッテルに等しい窮屈なシバリが加圧される事で、本来の、人が人前で自分の意見を言う事やその機会、まとめる能力や発信する能力、その訓練を積む事に、何故ゆえそんなに恐れる事があるんだろう?という事にあると思います。

こうしたほぼアレルギー反応に等しい政治的だ、いやそうではない!の綱引き合戦の間に挟まれ、両者のほぼ遺恨に近い時代遅れの価値観に挟まれ、現代の主役である筈の若者が置いてけぼりになってしまっている、という現状。狭間の若者がこれら両者をいずれもなんとなく嫌煙しているというのは、そうした裏側を察知している若者の探知能力がある意味、正常に働いている、とも言えるのでは無いかとも感じます。

昨今の若者は討論するのが苦手?
昨今の若者は自己主張をするのが苦手?
こうした活動を規制する側は一方でグローバル化を主張し、こうした活動を援護する側は、それは圧力のせいだと打つ。
果たして、そうかもしれませんが、世界各国の若者のパブリックスピーチを見れば、少なからずこうした動きは決して、時代遅れでも無く、また偏屈な政治レッテルを貼られるものでもなんでも無い事が分かります。
いずれにせよ、「パブリックスピーチ」とは日頃の鍛錬が必要で、こうした事は、せっかく、学校という、社会に本格的に出る前の、様々な価値観を持った人間が集う場によって養われても良い筈であり、そうした意味でも鴨沂高校につい近年まで残されていた筈の様々な活動は、これからを生きる彼等にとって、必要な事では無かったのかな?と思える次第。

それとも、日本、とりわけ京都は、未来のリーダーたるべく、意志や意見を持った人間を輩出させたくは無いのでしょうか?
リーダーと言っても、それは一国一城の主から、経営者、組織の長と様々あって、勢いみんながみんな、政治団体のリーダーかなんかになると言う訳ではありませんから、恐れる事など、元来無い筈なのですが・・・。

鴨沂高校にフォーク村?

「1枚の写真には、かけがえのない物語があります」

~鴨沂高校にフォーク村?!

             ♢

こちら写真は33期卒業生(1980年度)から頂きましたものです。恐らくは文化祭での1コマで、場所は北運だったか、校舎中庭でのものか、記憶は曖昧、との事。

当時の鴨沂の文化祭と言えば、合唱コンクールに演劇コンクール、仰げば尊しパレードは勿論、各部活動の展示や模擬店など、大学顔負け、盛りだくさんの祭典でした。

残念ながら、89年度卒の当方らは、こうした野外音楽イベントは禁止されていましたので、講堂内でのコンサートのみでした。恐らく、その頃にはバンドブームでほんの少し前から音楽ムーブメントがパンク、ロック、ハードロック、メヴィメタル・・・と、音楽系クラブは学校側にいわば騒音クラブとして煙たがられた存在でしたので、野外のアコースティックライブに、取って代わる事が出来なかった、つまり、学校側からの許可が下りなかったのでしょう。

野外イベントが出来ただなんて、

とっても羨ましいです!


その後の情報にて、こちらが開催されていた場所は、ウィーンの森の横、中庭で行われていた、との事が分かりました。ちなみに舞台の後ろは図書館棟、だそうです。

完全保存版/鴨沂高校の自由服(私服)の歴史。

<鴨沂高校には開校から65年間にわたり、制服はありませんでした。>

「校舎の改築は、制服化などの改革の集大成となります」。

これは京都府教育委員会の前高校教育課長で、2013年より鴨沂高校に赴任した藤井直校長による、当年6月に開かれた校舎改築前の学校及び全期同窓会主催による「ホームカミングデー」における冒頭の挨拶だ。

時を同じくして「京都文化コース」なる新たな設置コースの名前がスクールバスの側面にも掲げられた。これらの言葉を読み解けば、これは単なる校舎改築の話では収まらないのだ、つまり校舎改築と校風改変はセットなのだ、と解読出来たが、それと共に、この説明はいずれもが外側ばかりを謳ったものであり、一体これから鴨沂高校はどうなるのだ、果たして在校生である当事者らはどう捉えているのだ、という実体がまるで掴めずにある種、不気味な印象を持った。

ホームカミングデーと称された校舎見学会の先導には、新たに制服を身につけた1年生ばかりが呼ばれて居り、これは多くの卒業生らに「鴨沂は変わったんだ」という事を印象づけさせる演出なのか?という風にも見えた。NHKでの大河ドラマ「八重の桜」放映時のゆかりの地を巡るショート映像にてこの鴨沂高校が撮影された際にも、教室の風情はあくまで1年生の制服姿のみが映像で流された。

これらの光景を同じく外側で見た卒業生らは、何を感じた事だろう。

この翌年における2014年には京都府内の入試制度も改革され、地域制もいよいよ無くなり、各高校の特色が全面に押し出された高校を、中学3年生が選択し、受験するという事になった。そこで言われ、また大いに宣伝材料になった文言が、「(これまで人気の無かった)鴨沂が勢い、人気校になった!」という主旨である。これには、私服から制服になった事で、受験生の人気を獲得したという理由が噂の主だ。が、「そもそも、この年から始まった受験制度の改革で、前年比など出る訳も無いのに」と冷静に感じた卒業生も、おられなかった訳では無いだろう。

「学校特色で受験生が高校を自由に選べるなら、鴨沂をあえて私服校で残せば良かったんじゃないのか?中学生みんなが制服が良いという訳でも無いだろうから、自由に行きたい学校を選ばせる幅も持てばいいのに」。卒業生の中には、そんな声もある。

鴨沂高校が私服から制服化になった事をうけて、それを残念に思う卒業生も多い。「自分達の鴨沂はもう無い」「鴨沂は終わった」「でも、人気校になったらしいよ。時代やな」などと諦めつつも止むなし、という声。様々だ。加えて長年鴨沂高校に勤務してきた教員側ですら、今回の制服化について意見を聞くと「管理側の方から一方的に通達された。まあ、けれど在校生に制服にしたいか、私服のままでいいかというアンケートをとったとしたら、半々の答えになるんちゃうかな。最近の子は『なんちゃって制服』が、好きやからなあ」と言う始末。「それは単なる今現在の実情であって、本来の意味合いとそれはかけ離れてるんじゃないか」「『なんちゃって制服』と、学校側が制定する『制服』とは意味が全く違うのを、私たち若い世代は身をもって分かってるのに。学校側が分かって無いなんて・・・」と、こうした教員側の発言に憤る若い世代の卒業生の声も聞く。

少なからず思い出せる自分が居た頃の鴨沂にも、私服である事が当たり前ではありながらも、また制服化の声が叫ばれるような風潮では無かったにしろ、同級生の中には色々な意見が実際にはあった。ちょうど自分が居た頃は日本がバブル景気でファッションに関してはブランドを身につける傾向が強く、お金持ちの子は相当服装や持ち物にお金をかけており、またお金の無い子で周囲の風潮に流され易い学生は必死でバイトをしては身の回りにお金をかけていた。そうしたせめぎ合いのようなものに疲れている学生もいたし、それこそ時代という意味ではこの頃は恐らく最も、金銭的にもかなり無理のある、学生の本分から外れたとんでもない恰好をした学生も居たと言えるだろう。大人にとってみれば、どうしようもなく厄介な、目もあてられないような風情だったと思う。むろん、こうした背景にはおかまい無しで我が道スタイルでぶれずに居た学生も多く、友達には「自由すぎてコワい」と呟く子も居た。「制服だったら毎日何も考えなくていいから楽だろうな」とも。

そうした事を振り返ってみて、果たして、この制服化の論調については、何も今に始まった事では無いのでは?と、これまで何故、鴨沂は私服で居続けたのか、また、どんな声がこれまであったのだろう、学校は?父兄は?そして学生らはどう考えていたのだろう、という事について、歴史を紐解いてみる事にした。そうすると、特にこの学校の創設期において、大人側や学生側で現在と同じような論調が繰り広げられてきた事が分かった。

時代。などという言葉によって、それは決して括れないのではないか。

新旧における大人側の論調と、そして学生らの意見について、読み解き、比較していくとなかなか興味深い事が見えてくる。

これはいわゆる鴨沂に限った事では無い、「学生の本分」という軌道をつい外しがちな年代において、それは普遍的なものであるという証拠と共に、こうした迷いやブレを自らで律したり、疑問を持ったり、互いを批判するという、いわば警鐘を鳴らす自浄作用を持ち合わせていた長年の鴨沂生らの歴史と、こうした多感な世代に対して「自ら考えろ」、「自主自律を待つ」とする、学生側の大きな振り幅を許容してきたこれまでの鴨沂高校の歴史である。

本題に入るその前に。日本における学生服誕生の歴史。>

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(↑大正時代の府一女学校の様子。女学生らは思い思いの柄の袴姿である。)

日本において洋服の学校制服が採用されたのは、明治6~7年頃と言われています。学生服というワードを調べてみると、定義としては学校の制服・標準服として定めており、それは学生向けのフォーマルウェアを指すと示されています。

創成期時代において、学生服は西洋の生活様式の試みの一貫とも言われています。また、日本の学生服は元々、軍服をモデルにしていると言われており、男子学生がまず袖を通しました。日露戦争以前の兵装は「黒色」で、この学生服の黒色はそれを踏襲しています。また、当時には中等教育以上を受ける学生は僅かな時代にあって、富国強兵の一端である軍服モデルの制服は、エリートのシンボルでもありました。東京帝国大学や学習院と採用されてゆきましたが、一方で当時はまだまだ着物が主流の時代でもあり、素材も大変高価なものであったために都市部以外の地方にまで浸透するには時間がかかりました。大正時代に入ると、当時のモダニズムブームも追い風となり、また第一次世界大戦における好景気に湧いた日本では、それまで贅沢品扱いとされた洋服が一気に消費されるようになり、全国的に学生服も普及されたそうです。しかしながら、昭和10年代には戦時色が濃くなり、昭和15年には勅令にて「大日本帝国国民服令」が公布されて、いわゆる「国民服」が誕生します。追って昭和17年からはこの国民服が全国共通の通学服として用いられるようになり、従来の学生服は徐々に姿を消していったとされます。

さて、それでは我が鴨沂高校の前身である京都府立第一高等女学校には制服があったとされますが、それはいつ誕生したのでしょうか?

沿革史を読み解くと、制服の制定は1930年、昭和5年の3月に「生徒の制服を定む」とあります。これには、この年の春に宮家からご入学される「久邇宮恭仁女王殿下」にあわせて制定したと言われています。それまでは制服は無く、女学生らは思い思いの服装にて通学していました。また、この頃からそれまで木造であった校舎の全面改築の計画も進められており、女学校の最新化がまさにスタートするという時期でもあったのです。

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(↑府一女時代の久邇宮様。女学校の制服姿。)

ちなみに、よく言われている鴨沂高校の段差の低い階段は、「袴姿の女学生が上がり下りし易いように」とされていますが、実際に校舎が完成する5年も前に制服化が完了しており、袴姿で階段を上がり下りしたのは女性教員が主であったと想像されます。

戦後における日本では、敗戦の混乱期に着るものにまで手が回らず、学生らはそれぞれにまちまちの服装で通学していたとされます。GHQによる教育改革には軍国主義の払拭や教育勅語の廃止、中等教育における三原則などの様々な改革内容があったものの学生服に関する介入は無かったため、戦前戦中の学生服はそのまま残る事になりました。1950年代には大学生も主に男子は詰め襟学生服を着用し、60年代に入ると学生運動の盛り上がりと共に服装は自由になりました。

50年代頃の鴨沂高校における学生の姿は、学生服を着用している人や、府一時代からの制服を着用している人、ズボンやスカートは学生服を流用しつつ、上には好みのシャツなどを着用している姿も見られ、学生服の様相でありながら、今様に言えば「なんちゃって制服」のような、バラバラの学生っぽい服装をしている、とも言えます。

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(↑男女共学時代を迎えた鴨沂高校創設期頃の学生集合写真。「鴨沂のあゆみ」より引用。)

なお、70年代頃より、全国的に改造型の学生服が横行し、幅広でタックのついたズボンや裾の長い学生服、くるぶしほどあるひだスカートもしくは短くカットしたスカート等が流行しだします。こうした改良型学生服は年を追うごとにエスカレートし、また独特のスタイルをも生みました。中には学生服の裏地にまで細かな刺繍など施したものまで現れます。時は暴走族や非行グループが席巻した時代。こうした改良型の学生服の横行には、学校側と生徒側のいたちごっことも言うべき規制と違反の応酬を経て、のちには指導側の苦肉の策とも言うべき、違反改造の出来辛い、つまり型を崩せば軒並み恰好の悪いものになりがちなブレザー型の制服や、規定丈から長く、もしくは短くすれば恰好が悪くなるようなスカート等が採用されるようになりました。スカート丈やズボンのタックのチェック、ジャケット丈の違反、髪の毛の長さのチェックなど、学校側が定規を持ち校則違反を◯センチ単位で計り、染髪していないか髪色見本まで持ち出す始末・・・と、規則縛りのエスカレートは80年代から加速し、極めてヒステリックな学校側の管理体制が敷かれてゆきました。加えて、ベビーブーム世代、また第二次ベビーブーム世代が高校に就学する頃には新制高校が次々誕生し、そうした新たな高校には軒並み制服が制定されました。また、特に私学においては、80年代後半頃のバブル期より、ブランド志向が高まった世代をダーゲットに定めたデザイナーブランドの制服を採用するようにもなりました。

こうした時代の流れの中、では鴨沂高校ではどうだったかと言えば、戦後からの流れに制服を制定しないままに居続け、学生運動の時代の流れにそい、その後の世間で見られる指導者側との細々とした規制と規制破りのいたちごっこという、言い換えれば実に子供じみた日々を過ごす事も無く、または世間に溢れる管理側と学生側の応酬を静観し、これらの風潮に流されず独自路線のまま、自由な校風とセットの形で、長きに渡り「私服」が続きました。

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(↑自由服(私服)姿がすっかり定着した、60年代以降の学生集合写真。「鴨沂のあゆみ」より引用。)

こうした長らくの全国の変遷の中も、継承され続けた鴨沂の学生らによる服装の自由は、2013年の制服制定によって、今年度の卒業生を終わりとして完全制服化するに至ります。

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※ちなみに、全国における制服の歴史やその姿を年表をもって分かり易く資料化されているサイトに、京都で創業明治22年の学生服専門店「村田堂」さんのものがとても分かりやすくまとめられています。ご興味の方は以下リンクを是非。

http://www.muratado.co.jp/historyofu/

 それは本当に、必要な事なのか?様々な意見があった筈の「鴨沂高校における、制服化」問題を紐解く。

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↑昭和26年における服飾デザイナー・藤川延子さんの言葉

「よく学生の服装が派手だという言葉を伺いますが、私はそうではないと存じます。第一に、若い人は感覚的にも感情的にも豊かなのですから、もっともっと色彩について豊かであってほしいと思うのです。若い人の体は生でそして新鮮なのですから、おのずから身につける色彩も決まると存じます。茶色でもネズミでもその点から考えると、派手過ぎる事すらあるのです。若さの表れた服装なら決して派手という言葉はあたらないと考えています。要するに男も女も、もっと色彩についての自由を持つべきだと思うのです。(中略)又、最近制服という事が言われていますが、特定の型にはまった学校、ミッションスクールの様に、清楚とか簡素とかを表す場合だと必要でしょうけど、現在の高等学校ですと、むしろ制服制を設けずに個性を身につける方が良いように思います。だから制服というのは自由の方が良いと常々考えて居ます。でもそれが虚栄とか競争とかの形になって表れないようにそれぞれのお方の教養、良識に頼れば心配ないと思うのです」。(昭和26年2月13日/鴨沂新聞より)

※藤川延子ー東京ドレスメーカー女学院卒。1934年に創立した洋裁学校の「藤川洋裁研究所」後の1948年「藤川女子専門学院」1959年「藤川服飾学院」は、1975年に「京都造形芸術学院」に名称変更。現在の京都造形芸術大学にあたる、言わば創設者。

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↑昭和27年7月19日/鴨沂新聞より

生徒部(学校側)が、華美になる女学生らの服装について警鐘を鳴らし「校内では女生徒の高校生らしくない華美な露出的な服装は控えて欲しい」とする勧告を校内掲示板に提示しようとし、それを察知した生徒側が学校側と話し合いを行い、提示を見直しした、という事を伝える記事。女生徒代表は「個々に注意されるより生徒部として取り締まって欲しい」という発言があり、男子が主体の中央委員会ではこれを意外としながらも結局は学校側による勧告の提示をいったんは取り下げた模様。ちなみに、学校側が女生徒側に伝えたかった控えて欲しいとする具体的な服装は、「ノースリーブのブラウス」「ワンピース」であった。男女共学になってわずか5年目の事である。

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↑昭和28年12月4日/鴨沂新聞より

この頃には市内の各学校が制服を制定しだした頃とみられ、鴨沂高校内でも議論が持ち上がっている事が伺える。どうやら、PTA側からの制服制定に対する要望が挙ったようだ。

PTA側としては「①制服の制定によって他校では良い結果を得ている②制服にする事によって学校内の秩序風紀が守れる③生徒個人の自覚を決め規律が確保出来る④外見を良くすると共に校風を維持する⑤父兄生徒らの種々な悩みを解決出来る事」によって、父兄からは制服の制定が強く要望されている。これを受けて学生側は全校アンケートをとり、次の様な意見があったとされる。

<女子生徒の意見>

「友達が自分以上の優れた服装をしていると少しは引け目を感じる。それと並んだ時の服装を夢見る訳で、そうした悩みは制服の制定で解消されるだろう。」

「(制服の制定によって)経済的に安価で流行をいちいち注意する必要もなくなる。」

「制服では個性が表れず、先生に押し付けられているような感を受ける。現在の服装が無駄になり重複する事もあるから反対。」

「制服を着るとかえって不良くさくみえてイヤ。」

<男子生徒の意見>

「制服にする必要は無い。学校は学業を積む場所であって、必ずしも衣服その他表面的なものにこだわる必要は無い。しかし時たま風紀の乱れる事もあるが現在本校では一見そうした所は無い。」

「学校に来て感じる事は現在の世相に相応じて学校内が電車、会社の中に居るように感じられ、学校の秩序が守られにくい。故に制服制定に対し絶対的に賛成する。」

「生徒の関心が無いところへPTA側から制服制定の希望を出すのがおかしい。」

と、これらの意見などを読み込むと、おおよそ、この時代から様々な意見の方向性は現代とあまり変わらないようにも思える。

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↑昭和29年2月24日。鴨沂新聞より

PTA総会によって制服制定の決議があり、それを学校から生徒側へ意見を聞くという手順があった事が伝えられている。

ホームルームでの議論では足りず、生徒大会が開かれた模様だ。結果として制服制定は拒否された形だが、賛成反対の声が中立的に記述されていて、実に民主的な解決であった事が伺える。

<PTA側の意見>

「派手な服装をする女生徒が多くなり、道を歩いてもどこの生徒か街の女か区別がつかない」

「今日まで色々な事件が起こったが制服を身につけることによって自然に鴨沂生としてプライドを持つようになり、以前のように事件も起きないだろう」

「経済的にも3年間身につける事が出来て合理的」。

この問題に実際には見える、女生徒による虚栄心や競争心を制限するという事を学生側が見透かしていて記述しているのも興味深い。また、PTAという一部の父兄による決議であって、生徒全体の父兄の意見では無いだろうという事で、この決議自体に批判の声が挙って居り、その上で賛成または反対の声もまとめている。

<生徒側による制服化賛成の声>

「自由の学園を誇る鴨沂だが自由の奔放が酷過ぎる。少し制服にしてこれを抑圧すべきだ」

「制服と言えば復古調と関連して考えられるが、復古調にも認めるべき点が多くある。何事も観念的に走らずもう少し批判し、良い所などどしどし受ければよい」

<生徒側による制服化反対の声>

「制服をもってプライドを保とうとするのは変だ。もっと他の分野で求めるべきである」

「個性を生かす所に学校の意義があるのであって、服装によって個性を認めず、ただ形式の規律の中に生徒をおこうとするのは間違っている」

「社会の中に学校が存在するのであって社会と学校を区別するため、街の女と女生徒を区別するため制服を定めるのはどうかと思う」

これらをうけて学校側の意見としては、校長談として「今のままで良いでしょう。派手な服装は自分で考えて自重すべきだ」とし、生徒部長の談として「生徒大会では賛成、反対と数が接近しており、またその数も少数(800余)なので重要視しにくい」と述べている。

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↑昭和30年4月21日/鴨沂新聞より

学校の風紀などについて、率直な感想を聞くために入学したばかりの1年生に座談会を設けている様子。1年生が鴨沂を目の当たりにして、その感覚に耳を傾ける姿勢と、その内容に注目されたい。

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↑昭和30年7月4日/鴨沂新聞より。

封建的高校教育の波が、近づいてきていた事を指す記事。

この頃にはもはや全国でも8割の学校で制服制定が実施されている事を示す。また、他校では一旦学校に入ると外に出ることは禁止されており、門番を立たせたりと監視の目が光っているとも伝えている。また、学校から出る際には学校側の許可を取る事など、そのような兆しが既にこの昭和30年において他校では広がっている事を証明している。ひるがえって考えるに、鴨沂高校のこれらにおける自由は、この時代からについ近年までおおよそ、または原形に近い形で守られていた事も感慨深い。加えて、この度の鴨沂高校の学校改革によって、これらの自由は一切無くされてしまい、むしろこの、約60年程前の教育改革が周到されているのだ、という時代錯誤も感じて止まない。

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↑昭和32年9月24日/鴨沂新聞より

自身らの姿や学校生活の送り方について、客観的視点を求めるべく、赴任してきた教育実習生らにインタビューしている。

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↑昭和39年12月24日/鴨沂新聞より

服装について生徒と父兄の懇談会が行われた事を伝える記事。私立は勿論、公立高校でも制服、標準服が設けられてきており、私服の学校が少なくなる中という事もあって議論が進められている。

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↑昭和43年1月26日/鴨沂新聞より

「鴨沂激動の20年をつづる」と題した特集記事にて、創立20周年の節目に鴨沂高校で起こった様々な問題を取り上げると共に、「鴨沂の自由」を守るために学生らの自覚をうながす意見のまとめとして、服装の自由についても触れられている。

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↑昭和55年度/自治会発行誌「Our School OHKI」より

学校側による「革ジャンパーに対する禁止指導」が突然発表され、前年の「パーマ問題」に続き、サンダル履きの禁止と共に革ジャンパーの着用が禁止された事に対し、幹部会、生活執行委員会による意見表明、また、3年生アッセンブリーでの討論内容が記載されている。また、これに伴い学校側による生徒部指導案も説明されている。

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↑同年には学生側から今回の学校側の一方的な取り決めに対して、このようなビラが配布された。

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↑昭和57年度3年1組による「仰げば尊し」アピール。

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↑平成元年度/自治会発行「Our School OHKI」より

平成元年度(1989年)における3年3組による「仰げば尊し」テーマに見る、鴨沂高校の校則問題。また、この年の3年生のひとつ下の学年より、これまで自由服だった体育授業時の服装について、学校指定ジャージが設けられた。これは突然の学校側による取り決めで事前説明は無かった。恐らくはそれに伴い体育祭ではそれまで恒例であったクラス毎に製作したTシャツやハッピなどの着用も直前に禁止を学校側から伝えられ、体育常任委員会によって学校側に抗議し、許可されたという事が記述されている。紫野グラウンドには、思い思いの自由な運動着姿の3年生と、1、2年生の学校指定ジャージ姿、という混合状態となった。現在の鴨沂高校における私服姿の3年生と、1、2年生の制服姿という状態に、ある種似た状況である。

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↑同年の自治会によるリーダー合宿では、討論資料の中にこの学校指定ジャージの事を話し合った提示資料がある。

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↑平成2年度(1990年)/自治会発行「Our School OHKI」より

生活執行委員会による、生活実態アンケート。通学や服装、バイクなどについて、学生側にアンケート調査を行っている。

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↑平成3年度(1991年)/自治会発行「Our School OHKI」より

巻頭特集としてずばり、「鴨沂の自由」についてアンケート調査を行い、各項目について詳しい意見を記載している。

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↑平成19年度(2007年)/自治会発行「Our School OHKI」より

巻頭特集として平成3年度のリプレイ、同じ項目で再度アンケート調査を行い、その結果に対して丁寧に分析を重ねている。16年越しの同内容アンケート結果には、なかなか興味深い数字が見られる。

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↑平成24年。学校側より配られた「制服導入」を通達するただ一枚のみの配布プリント。この一枚の通達にて、既に制服化は決まった事とされ、議論の余地を与えられているのは唯一、制服につけるエンブレムのデザイン公募のみであったとされる。

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 そして平成26年現在の鴨沂高校レポート

【新生鴨沂高校】かつて大学とも比較された自由の校風は、田舎の中学校にも引けを取らない管理の校風へ

 制服化が進む鴨沂高校。生徒指導部が学内に掲示していたビラをシェア。まずこの文書、言葉が統一されていません。ですます調と、であるだ調を混ぜるなと、国語の授業で習わなかったのでしょうか。敬語を使ったかと思えば、その直後には命令形が続きます。

 ビラの中身は全て服装規制です。細かいことに目を光らせているのがわかります。いつから教員は制服のチェックが仕事になったのでしょうか。こんなことばかりしている教員から、はたして何を教えてもらうのでしょう。文章能力がなくても教員になれるということを教えてもらうのでしょうか。

 鴨沂高校は大学街のすぐ近くに位置していたこともあり、かつては大学生と勘違いされることもしばしばあったと聞いています。私は2007年に卒業後、大学へ進学しました。一流と呼ばれるような大学でも、鴨沂高校より管理的な校風の学校があることに驚いたのを覚えています。自由な校風では大学にも引けを取らなかった鴨沂高校。今では田舎の中学校と競争してるのかと思うほど、がんじがらめの服装規制が始まっています。

               ♢

以下、この掲示内容とレポートに対する卒業生らのコメント引用。

「僕は在学時、自由服の我が校に誇りを感じる一方「平安女学院の制服がカワイイ!」なんて思ってたので、あまり偉そうなことは言えません。(^_^;)
しかし、ここまで管理しなければならないのでしょうかね。なんだか情けない。
ビラの文章が変なことを指摘されてますが、生徒指導部教員の学力レベルが低いことは昔からなので、違和感はないです。(笑)」

「可愛そうとなります。」

「僕らの世代なら破壊行動の対象となったでしょう。」

「なんか普通の高校になってしまって残念。別に型破りがいいとか、自由がいいとか議論するつもりはないですが、こういう貼り紙が掲示される事に違和感を持ちます。僕達の頃は、アイビーや浜トラが全盛期で、ボタンダウンシャツやカラフルな綿パンを着こなして下手な大学生よりファッショナブルでした。野球部なんかは詰め襟の学生服着て、お互いが良い意味で個性的でした。新たに導入された制服を今から覆すのは難しいとは思いますが、自由闊達な鴨沂は持ち続けて欲しいと思います。」

「年々、高校生が子どもっぽくなっていると聞きますが、子ども扱いするから大人になれないと言うことがあります。家庭も社会もそうですよね。選挙権が与えられる年齢は世界的に見て18歳が主流で16歳に引き下げようという流れです。服装の乱れについても、10代のこの頃は自己を確立しようと、もがきながら試行錯誤するのであってやり過ぎる事もあるわけです。廻りが余裕をもって見守ることが大事なのにね。」

「自由服をなーんにも考えてないように思われてるんでしょうね。時と場合により、それなりの服装してましたのに。
制服、確かに便利で子どもも好きですが、あんまりにも規制が多すぎて、破りたくなるようですよ。規制するほど服装乱れる。なんか笑ける。」

「どうしても、分からない事があります。今回の制服化について、先の同窓会報誌にて現副校長、及び前校長のコメントが挨拶文の中に記載されていました。一部引用すると、『一目で鴨沂高校の生徒だということが分かるようになりました。自分達の姿が学校のイメージをつくるのだということを自覚し、責任ある言動をとることの出来る生徒に成長してほしい』(中田副校長)、『制服を着用することによって鴨沂高校生としてより強い自覚をもち、勉学に一掃励み、高校生活全体に全力で取り組めるような環境づくりでした。(中略)具体的に鴨沂高校の将来に期待することは、名実共に『名門校の復活』であります』(山岸前校長)・・・と、その長い挨拶文の主たる内容は、今回の制服化に対する、学校側の意見です。この冊子は、在校生に向けられたものでは無く、あくまでも同窓生に対して配布されるものです。である中、こうした文章について、これまでの歴代の卒業生の方々らは、「制服化で名門校復活?自分らの頃は私服でも充分自覚して名門校だった」とか、つまり『そこなの?!』的なつっこみや、はたまた暴動でも起きないものなんだろうか、元鴨沂生のその後の人生は、それほどこれまでの鴨沂の教育は弊害であったか、また、人生の先輩として今回の学校側の言う所の改革が、果たして叶うものだろうかという意見は出て来ないものなのか・・・表現やディティールにこだわりを持たれる筈の大先輩らが、どうしてこうも静かなんだろう・・・というのが、私や、また私ら世代以降の若い世代の卒業生の多くが分からない所なのです。勿論、寛容であれ、自分とは違った意見も聞き入れ、また取り入れようとする懐の深さゆえ、なのかもしれません。けれど、これは私事で驚いた事ではありますが、今回の会報誌において、ある若い卒業生が寄稿文を依頼され、その文章の中で私の名前を『異なる世代で繋がった』との主旨で記載した所、理事会からNGが出たとの事でした。理由は『(校舎保存うんぬんで行動している)私の名前が書かれる事で、気分を害される卒業生らがおられるから』という事で、名前記載は削除され、私の職業名に差し替えされました。私は、この件についてどうというこだわりは、自身が寄稿した文章でも無いのでどうこうの話ではありませんが、こんな小さな事にこだわったり、排除する一方で、今回の学校側管理職の立場にある挨拶文の文章内容について、多くの卒業生がどう思われたのか。それを知りたくも思うし、また、少なからず私個人としては落胆の思いは強くあります。」

「以前のような私服には、確かに高校生らしくない服装もたくさんあって良くない面もあると思っていたので、思い切って制服になったこと自体は全然賛成なんです。が、制服になった以上着こなしぐらいは自由にさせてあげてもいいんじゃないかと思います。誰の目を気にしているんでしょうかね。」

「卒業生のエネルギーもですが、親として反省しなければいけません。今どきの高校生を育てているのは私達なんですから。あれもこれも与え過ぎなんですね。なのに自由は与えていない。ブツブツはくるけど、反撃はこない。」

「制服化に関して、現同窓会長が新聞取材に対して『時代の流れ』と答えたのは、今でも許しがたい。その時に最大の無力感を覚えました。」

「服装ひとつでも、自分の頭で考えて自分の考えで決めるという、生きていく上で大切な事を学んだと本当に感謝しています。それが失われない事を切に願うばかりです。」

「鴨沂高校に制服が無いのは、自由な校風の象徴だと思います。」

「滋賀県に彦根東高校という名門校があるんですが、そこは元々男子校で、旧制中学時代から続く制服がありました。ところが男女共学になってからも女子の制服は制定されず、長いあいだ女子だけ自由服だったそうです。そのうちに生徒側から運動が起こって、女子の制服も制定されました。その話を聞いたとき、『なんで制服なんて欲しがるのだろう』と不思議に思ったのですが、まさか自分の母校も同じ道をたどるとは!?」

「いよいよ校舎という形の上でも校風という無形の上でも鴨沂は無くなるんだな、と実感。」

(参考資料及び引用/「学校より家庭へー京都府立第一高等女学校/鴨沂新聞復刻版/Our School OHKI各年代号/京都府立第一高等女学校沿革誌。)

 

仰げば尊し。80年の記憶と共に。

「1枚の写真には、たくさんの物語があります。」

~仰げば尊し・1980年の1コマ

33期(81年卒)卒業生の方からお送り頂いた写真アルバムです。

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「1980年度卒業生です。中学校は修学院中学でした。私たちの頃は、前年までは商業科の一部が鴨沂で、ほとんどは洛北高校に入学しました。私も、受験場所も合格発表を見に行ったのも洛北高校でした。ところが振りわけられた先は、この鴨沂高校だった訳です。当時は洛北高校も鴨沂と同じく自由な校風で、合格発表を見に行った時はショックでしたね。学校が見つからないんですもの・・・通り過ぎて、え?あのお寺の門の所が鴨沂なの?という感じでした。

高校生になっていちばん驚いたのは、先生方が我々を大人扱いしてくれたこと。何かを強制されたことはありませんでした。最初に喫茶店に連れて行ってくれたのも、担任の先生でした。

その頃はブランク(休講)も多く、図書館で勉強する人、食堂へ行く人、体育館で運動する人、そして喫茶店に行く人と様々でした。もしかしたら私たち世代頃までが、伸び伸びとさせてもらえた最後の世代だったのかもしれません。はめも外したし、その分責任も伴いました。

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このアルバムは私たち1980年の『仰げば尊し』の写真です。当時は3年生は全部で9クラスあり、パレードの様子はその一部です。この写真は、なんと各クラスの担任の先生!みんな、先生もクラスのテーマに沿った衣装で仮装しています。こうした衣装はすべて、みんなで手作りしたもの。考えてみれば、山車を作ったり、絵を描いたり、衣装をぬったりと、みんなそれぞれに得意な仕事で何でも器用なもんだったなと思います。

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私のクラステーマは「ゴミ地獄」。当時京都で問題になっていた空き缶のデポジット制にするかどうか、増える一方のゴミ問題をテーマに、新聞でも度々取り上げられていた話題だったので『このテーマで新聞掲載を目指そう!』とクラスで一致団結し、見事、京都新聞に写真付きで掲載されました。

今から思えば、実にヘンテコで自由な高校だったとは思いますが、こうした自由な雰囲気の学校は、京都にはまだ、当時たくさんあったと記憶します、」

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先生達も喜んで仰げば衣装をまとっている姿を見ると、元々の仰げばの起源である、先生と学生の親睦、という意味をも果たしているという事で、これは鴨沂の伝統行事、「仰げば尊し」パレードの、円熟期とも言えるかもしれませんね。

思わず、自分達の頃はどうたったかと、記憶を辿って卒業アルバムをめくってみました。先生はみんながみんな、変装している訳ではありませんでした。

が、自分のクラスの担任の先生は、張り切ってクラステーマの海賊の、親玉の恰好をしてくれていました。

思わず、いい先生だったんだなあ、と振り返りました。

 

この度も貴重な写真の数々を、本当にありがとうございます!

コラム。知ってほしいこと。

京都府教育委員会のみなさまへ
工事関係者のみなさまへ

 

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現在、校舎北側の解体工事が着々と進む中、北門前の桜の木は、今のところ伐採の危機から逃れています。
これは、きっとこの大切な桜の木を、その他、既に多く伐採された鴨沂の地で長年育った樹木達と同じく扱わないように、残して下さっているのだと感謝しています。

この北門の桜は、正門側、校舎東側、並びにウィーンの森にある桜たちと同じく、これまで長きに渡り、鴨沂高校生を出迎え、成長を見守り、また見送ってくれた大切な桜のうちのひとつです。

鴨沂には他にも、流れる季節を彩り、また花を咲かせ、実をつけた樹木達が多くありました。これらのうちのどれほどが今後も残されるのかは分かりません。
昨年の仮校舎移転の為の搬出口として図書館横の壁が解体され、その際に壁の側で植わっていた松の木が勢いよく伐採された時の、あの悲しい程の周囲に放った清々しい薫りが今も、忘れられません。

鴨沂高校北門の桜は、
大きく空に枝を広げて、春にはこんなにも美しい様を見せてくれます。
自分達が居た頃よりもずっと立派になって、自分の成長なんて、なんともちっぽけなものだなと、見上げて思うのです。
時に、人間はわけなくこうした崇高な存在を、また長きの時間を見守り続ける存在を、あっさりと無くしてしまいます。

けれど、どうか知って欲しいのです。
これらは時間の経過を経て、どれほど見事な花を咲かせるのかという事を。

来年の春にも。
また将来に渡っても。
どうかこの光景と変わらず出会えますように。