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ミニマムコラム/ときどきおうきvol,22

 「週末の雑学コラム。上履き制にみる学校の歴史雑学」

鴨沂高校新校舎における学生向けワークショップで、学生側から「2足制にしたらどうか?(校内が汚れずに済む)」という意見が出たとされます。この声が発展し、校内敷地の動線についても意見が出てきました。「敷地内を移動する時どうするんだ?脱いだり履いたりが面倒」。それを聞いた行政及び建築業者の大人の方々らは過大解釈にて、本来は独立棟のままの筈だった図書館棟に渡り廊下を造って、上履きのまま移動出来るような計画の発想に至って居るのかもしれません。・・・さてこの意見、今後の校舎プランには反映されるのか?否か?

「意外!(若いのに!)」。正直言ってこれが、私服制・土足制で育った鴨沂卒業生である当方の個人的な感想だったのですが、考えてもみれば、私服から制服制に変わってしまった鴨沂生には、靴もファッションアイテムの重要なひとつだった我々世代とは違う感覚からの発想なのかもしれません。校内が汚れずに済む。なんと利発な感覚なんだ・・・。小学校から高校までずっと土足のままで育った当方ですが、全国的に見ると、校内2足制、いわゆる上履き制というのは多いようですね。京都市内にも今や多くあるのでしょう。

そこでちょっと気になって、「上履き」というワードでネット検索をすると、個人のブログから専門家調べに至るまで、色々出てきました。そこで気になる言葉達を拾いつつ、上履き制における学校の歴史みたいなものを紐解いていきたいと思います。

ある個人の方のブログには、それまでずっと上履きのある学校で育ってこられたのでしょう、「大学に入った時、靴のまま教室にあがる事がこれまでと違って新鮮だった。」「最近では上履きをやめる学校も出てきている。ズック型の上履きは1910年代に登場したようだけれど、考えてみれば広大な下駄箱スペースというのも、上履き文化ゆえの校舎の特色ではあった。上履きが消えて、下駄箱が消える。さて、とするとラブレターはどこに入れればいいのか。というオチも、そのうち通じなくなるのかなあ」と。

なるほど。下駄箱のある校舎というのも、そういう環境で育った人達にはひとつの文化。そう言えば、テレビの古い学園ドラマやアニメでありがちなシーンで見た事があります。そういう甘酸っぱいものから、上靴に画鋲、下駄箱に嫌がらせのお届けもの・・・なんて、イジメ典型シーンもよく登場していたので、子供ながら、学校の下駄箱って、ちょっと羨ましい反面、なんかコワいしイヤだな、という感想を持った事も思い出しました。その後は体育館の上履きを履き替える事すら面倒な気持ちになって、運動靴入れごと、最多の忘れ物ランキング入りでしたが・・・。

鴨沂高校の前身である女学校時代の方々らからの聞き取りでは、校舎は元々は当時、2足制であったと聞きました。古い校舎の写真を見ると、確かに大容量の下駄箱及び生徒出入り口があった事が確認出来ます。府一時代から戦後、共学時代を迎えた頃にまたがって在校された方々らは、「校舎が土足になってみるみる汚れていった。あっという間にそこら中が傷んでしまった」とも聞きました。

さて。日本における校舎の歴史を振り返ってみましょう。

江戸時代には勿論、和式建築であったため、畳敷、または板敷の床に襖、障子で仕切られた和室が教室でした。このため、生徒も教員も履物を脱いで校舎に入りました。

明治維新後には欧米をモデルとする文部省の基本方針に沿って洋風教室に。旧幕府の学問所施設を利用した官立東京師範学校では、畳を取り払って板張りの上に米国の椅子や机が並べられました。しかしまだこの頃には、市民による捻出金によって維持される小学校の場合には洋風建築による校舎を建てることは財政的に不可能で、寺院や民家を転用して校舎とされたものが多く、江戸時代と同様、和式建築のまま授業が行われていました。

1890年頃にはほぼ、全国的に校舎は洋風建築になりましたが、畳敷から床敷に変わっても、校舎に入ったら「履物を脱ぐ」という習慣は変わることはありませんでした。日本人の日本人による、建物利用慣行に従ったという事でしょう。土足から上履きに履き替える。しかしながらこうした2足制は小中学校では維持されましたが、大学や高等学校では1足制が通常となりました。何故なら、外国人教師の指導により、外国と同様な環境での学習を当然とした近代教育発足の原則を起因としているから。一方で旧制中学で現在の高等学校に関しては、本来は上履きの使用は無かったのですが、外国人教師への依存度が減少し、かつ生徒達が草履から下駄を常用するようになった事で、騒音防止のため2足制を採用される場合が多くなったとされます。

確か、古い鴨沂新聞や鴨沂の先輩方のお話を聞くと、下駄登校の禁止うんぬんの話もあったように思います。

学校建築における上履きの歴史について、埼玉大学で発表されたものがありましたので、以下、詳しい事を知りたい方は↓

http://sucra.saitama-u.ac.jp/modules/xoonips/download.php/KY-AA12318206-5802-11.pdf?file_id=18213

ちょっと以前の記事ですが、朝日新聞の夕刊で面白い連載ものがありました。(どうやら、アーカイブが止まっているので、もう終了してしまったシリーズなのでしょうか?)「ますます勝手に関西遺産」。このシリーズに、神戸の小中学校のお話ですが、土足制の校舎についての記事があります。

http://www.asahi.com/kansai/travel/kansaiisan/OSK201207250036.html

古来、日本では家に入る際には履物を脱ぐのがなわらしであった筈が、小中学校の9割以上を土足制で占める神戸については、何故なのか?という疑問をさぐって、幕末の開港からミナト神戸は外国人におおらかで、西洋の土足スタイルにも抵抗感が薄かったのでは?という見解が書かれています。

土ほこりがあがらないように床板のワックスがけが欠かせない事について、記事に登場する教頭先生の言葉、「卒業生はほこりとワックスの混じったにおいで青春時代を思い出すのです」というのが印象的です。

さて。

校舎の中央棟を残し、新しく建てられる校舎には、旧校舎の床板などの建材が再利用される・・・とは言われていますが、今後は果たしてどのようになるのか鴨沂?元は2足制で、戦後長らく土足制であった校舎に加え、新たに建てられる校舎。

ちなみに2足制にはメリットとデメリットがあり、メリットには先にあげられた在校生の意見として「校内が綺麗に維持出来る」ことや、防音効果もあります。一方でデメリットとして下駄箱や出入り口には普段から緊急時に至る混雑を避けるためにも大容量の面積が必要となります。どっちがいいか。

どうでも良い事と言われればそれまでですが、こんな細かい事も、メリットやデメリットも含め、またこれまでの歴史文化も互いに掌握しつつ、広く話し合いが出来ればいいのにな、とは思います。

新しいことは、決して先端とは限らない。

<ちょっとヨコミチ/数十年たてばそれは、歴史文化や風俗を読み取る貴重な資料となる>

~資生堂・企業文化誌「花椿」デジタルアーカイブより

            ♢

大正13年に消費者向け機関誌「資生堂月報」及び昭和8年に発行された「資生堂グラフ」を前身とした化粧品メーカー・資生堂の企業機関誌「花椿」。

こちら「花椿」を始めとした機関誌のデジタルアーカイブが閲覧出来るサイトがありますので、リンクをシェア。

欧米の流行事情から文化教養に関する読み物、美容情報などを発信してきたとされる、現在まで続く「花椿」。いわゆる今で言う所のファッション誌のようなものだったのでしょうか。閲覧していると、昭和初期頃の女性達の装いなどとてもモダン。むしろクールにさえ思えてきます。年代毎に追うと、当時女学生たちもこんな装いだったのかな?こんな女性達に憧れていたのかな?と思いを馳せる事が出来ます。

グラフィック面に注目しても、当たり前ではありますが当時はPCなんて、無い時代。手書きフォントやイラストも、まわりまわって大変オシャレ。大正から昭和初期と言えば、世界的にフォトジャーナリズム全盛時代の中でグラフ雑誌も盛んな時期。一方で芸術の領域では様々なアートのイズムが競い合うような時代でもあった・・・そのような時代性のようなものが垣間見えるような表紙など、冒険的な表現も随所にみる事ができます。これほどの豊かな文化誌を、当時の女性達は目にして来たんだと想像すると、ワクワクすると同時に、ある意味では今よりも、上質かつ豊かな時代であったのではないかと思えてきます。

こうして数十年も経てば、これら一般大衆向けに発行されていたものが、現代人や未来の人達に向けて、貴重な歴史文化を読み取る資料となるのですね・・・。

鴨沂高校の前身である京都府立第一高等女学校の膨大な資料は、図書館に、または本館地下に保管、あるいは日の目に当たらず放置されてきました。

これらが今後、いやもうすでに今現在にも、貴重な歴史文化の資料となるには違いないでしょう。当時の教科書や蔵書、また映像などが今後、しかるべく管理され、また活用される事、散在される事の決して無いよう、心から願います。

例えば日本における化粧品メーカーが老舗であるがゆえにこうした貴重な資料を保有しているように。

鴨沂高校の前身である女学校は、日本で最初の公立女学校、だったのですから。

http://www.shiseido.co.jp/hanatsubaki/archive/index.html

京都府における公共事業の在り方を問う。

 京都府は今月の21日に、WTO(世界貿易機関)対象となる鴨沂高校校舎改築工事の一般競争入札を公告する・・・という記事が、業界新聞である「建設通信新聞」電子版にありました。

http://www.kensetsunews.com/?p=40092&utm_source=twitterfeed&utm_medium=twitter

 こうした情報が分かるのも業界の方々らが目にするのみの情報源である事もさることながら、記事冒頭にある「WTO(世界貿易機関)」が、一体建設とどうイコールするのか?建物が建てられるうんぬんの記事にこうした表現を素人ならでは見た事が無かったので、業界の方に聞いてみました。

 「外国企業にも入札業者として門戸を開くという事で、協定を結んでいるという事。つまり、規制緩和というものですね」と教えて頂きました。

              ♢

 これに続き、京都府の入札情報サイトにて、鴨沂高校校舎関連の入札情報が資料と共にアップされていました。全ての資料は勿論、入札参加業者にあてられたもので、我々にはこれらを検証し、一体どのような工事内容となるのかは伺い知る事は出来ません。つまり、読み取りする事が困難な資料情報です。

(↓以下、添付資料PDF)

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 これら資料の中には、新校舎図面が含まれています。

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(↑入札情報内に示された新校舎図面)

 1枚ものの図面を見ると、細かな所でよく分からないながらも、現在京都府教育委員会並びに、鴨沂高校サイト側に告知されている(そして本年3月段階で止まったままの学生向けワークショップの際に提示された新校舎プラン)図面から、内容が変わっている事があります。

新校舎プラン

(↑学制向けワークショップの際に示されたプラン図面)

 学生向けワークショップでは、地下に駐輪場を造るとの事でしたが、新たな図面では校舎南側敷地に駐輪場が計画されているようです。また、図書館に目をやると、「増築」という文字があります。増築とはどういう意味でしょう。また、言われている地下道北運動場上屋が、あらたに造られる体育館の北側(つまり現在の北門側)に一部復元されるという話でしたが、新たな図面ではそれらしい線は引かれていますが、果たしてこれがそうなのか?本当に復元など可能なのか、現状の場所に改修する手だては無いのか。また、本校敷地内側の地下道上屋、及び地下道が一体どうなるのか・・・などという点については、新たな図面を見てもまったく伺えることが出来ません。

 こうした業界向けの資料で、我々京都府民が全く分からない所で行政側の中でのみ話し合いが行われている事、ワークショップから示されたプランから進展した計画案を広く告知もされず、また議論の場も持たれていない事。これは公共事業の在り方として、根本的に間違ってはいないでしょうか?分からない事があればちくいち京都府庁に出向き、京都府教育庁の管理課に行かねば、細かな話は聞かせてもらう事は出来ないのでしょうか?

 本来であれば、計画案を一般の京都府民にも広く分かり易く提示し、是非を求める事からはじめて、工事をスタートするのが正しい公共事業の在り方では無いのでしょうか?