月別アーカイブ: 2015年4月

かっこいいやんな。上屋。

「いざ美しき、あの鴨沂の地下道上屋」

もはやその存在の猶予はありません。鴨沂の地下道上屋。北運動場側。
昭和11年の写真を、かつての卒業生の方からお伝え頂きました。
勿論、落書きもありません。そして、当時のブロックガラスがはめられていた頃の様子がよく分かります。美しい。
バレー部が、恐らくは明治神宮での全国大会で優秀な成績をおさめた時の記念写真でしょう。中央には当時の鈴木校長先生もおられます。

記念写真と言えば、おおよそゆかりのある場所で、まさしく記念的に撮られるもの。この上屋もご自慢の場所であったというのが伺えます。

是非もう一度、
この姿がこの場所で、美しく改修されて復活して欲しい。
これが、私たちの心からの願いです。

工事は牛歩。

「本日の鴨沂」

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今日は引き続き快晴。
校舎敷地では、工事工程表によると本日より、「仮設現場事務所設置工事」と書かれており、工事によるプレハブ事務所の設置のためであろう、地ならしのような事が行われていました。

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夕刻には来週からの工程表が書き換えられており、来週は基本的に(日・祝日を除いて)仮設現場事務所の設置工事が行われるようです。

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さて、工事のために伐採及び一部移植された元・ウィーンの森の樹木達は、ようやく新芽が出始めていました。が、一説では移植されても3年は樹木そのものの 生命力で芽吹くそうですので、本当に根付いて新たな場所で命を繋ぐのには、しばし、経過観察をせねばならないのだそうです。

北運動場では、部員もなんとか増えた野球部が練習を行っていました。

これからも、諸々、見守ってゆければと思っています。

現在は、いつ始まったのか。

「地下道上屋は何故、あんな形をしているんだろう仮説と共に」

鴨沂高校に現在も残る、明治時代からある地下道と、昭和初期に設けられた上屋。

今もまだ残ってはいるものの、今後の方針では解体し、北運動場側上屋に関しては、新たに出来る本館敷地側の体育館にデザインを再現したものがレプリカで造られる、とされています。

しかしこの上屋。

何故、こんな形のものを当時の設計者は造ったのでしょうか?気になりませんか?

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鴨沂高校にある現在の北運動場には、明治から大正、そして昭和初期頃まで女学校の寄宿舎がありました。よって本館敷地と道路を挟んで隣接する北側には、女学生らが行き来出来るよう地下道が造られました。

大正末期頃より、それまで女子教育に体育授業と言えばお遊戯の延長レベルであったものに、国全体の方針として本格的な教育面でのてこ入れが計られるようになります。1928年のアムステルダム五輪で陸上競技にて銀メダルを穫った人見絹枝さん(この大会から初めて女子選手がオリンピックに参加出来るようになった。ちなみに、この人見さんは後の一時期、府一にて体育教師として迎えられた)、1932年のロサンゼルスオリンピックで水泳競技にて銀メダルを獲った前畑秀子さん(後のベルリンオリンピックでは金メダル)等、世界大会での日本人女性選手らの活躍が大きな気運となったのでしょう。

(↓写真は昭和11年の府一の水泳大会に、ベルリンオリンピックで金賞を獲得した前畑選手と共に映る、府一出身のオリンピック出場選手。背景は府一のプール棟)

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さて、鴨沂高校の前身である女学校、京都府立第一高等女学校と言えば、当時の鈴木校長先生の口癖である「東洋一の学校」に恥じないよう、良妻賢母型教育、というよりはむしろ、次世代に羽ばたく自立したスーパーウーマンを育てるような教育方針でした。つまり、全国でもその名を知られるような、勉強も一番、スポーツも一番。今様のように、安直にも学校の特色を盛るのに部活動や大学進学率を声高に言う風潮とは、全く次元が違います。当時の社会における女性の地位を考えると、その方針は並大抵の考えでは無かったでしょう。卒業後に女性が社会で大きく活躍するため、その基盤となる先駆的な実績づくりをされていたと考えられます。

バスケットボール選手

このような方針に沿って、大正14年、東京・明治神宮で開催された全国大会に府一として籠球部、庭球部が初めて出場。その後はほぼ毎年、全国大会に選手出場を果たし、昭和7年にはいよいよ高等科の女子選手が陸上競技にてオリンピック出場を果たします。

「従来の知育に加えて体育推奨の方法を講じ、その成果を見るに至る。かくて校運隆々たる中に、創立60周年を記念し祝賀することとなる」(鴨沂会沿革史から引用)。

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校舎改築の機会に結ばれたこの言葉と共に、まずは北敷地側の寄宿舎を解体して体育館及びプール棟を竣工。校舎と寄宿舎を結んだ地下道には新たに上屋が設けられ、本館校舎が建設されます。それまでに寄付金の積みたてと共に保護者や卒業生らから要望のあった図書館建設よりも前に、こうした体育施設を建設したのですから、その施設造りの必要性はより大きかったのだろうと想像されます。10313559_707651242611220_1967908655874276284_n

添付写真は恐らく、プール棟が竣工された昭和9年から10年頃の北運動場の様子です。プール棟が完成した頃には、夏休みは近所の子供達が招かれ、水泳を行ったようです。プールで一泳ぎした子供達が運動場でお茶をしている様子と、その左手後ろには、まだ寄宿舎があった頃のままの瓦葺きの上屋が残っている様子が分かります。

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昭和11年の落成記念帖に掲載された地下道上屋の写真です。

この柱の円形に建てられた様子から、なんとなく私たちは冗談で「パルテノン宮殿」などと呼んだりしていました。

モダニズムらしい簡略されたスタイルのそれではありますが、パッと見の印象は確かに、ギリシャ建築のような柱のスタイルを感じます。

1872年の開校以来、国内初の公立女学校として、着々と実績を積み重ね、学力面では既に全国にその名が知られていた府一。これまで体育教育に本格的なてこ入れが成されていなかった時代において存在した、全国から府一へと入学を希望する良家の、そして学力優秀な女学生らが学校に通うべく設備されていた寄宿舎(府一の寄宿舎はその後、校地とは別の場所に建てられたのだそうです)。そして、これまで木造校舎であった頃には中庭にささやかな運動場があった程度の女学校。

この寄宿舎と校舎を繋ぐ動線であった地下道に対し、「勉強も一番、運動も一番」をめざして実績を積み重ねた府一が、まるで現代のリノベーション精神よろしく既存地下道にモダンな意匠の上屋を併設させたのはとても意味深いように感じます。しかも、本館校舎敷地側の意匠はシンプルですが、新たに体育施設を配置した北運動場側の意匠はとても凝っています。(ちなみに、竣工時には道路側はブロックガラスがはめられていて、採光も考えられており、今のように薄暗くは無かったでしょう。出来るなら解体するどころか当時の形に戻して欲しい位です。何故、無粋にもいつの時代かブロックガラスをセメントで固めてしまったのでしょうね。)

その後、昭和11年に開催されたベルリンオリンピックには、府一からは2選手が水泳競技で出場を果たしています。実績を重ねて後の形と成す。これは素晴らしい戦略であり、またその必然性を誰もが感じた事でしょう。

学校より家庭へ/昭和11年11月20日号③

さて。オリンピックの語源と言われると、皆さんもご承知の通り古代ギリシャのオリンピアの祭典をもとにしたものです。ゼウスの神殿のあったオリンポスの名前から成り、この地で古代オリンピックが開催された事がその起源です。

あらためて、ギリシャはペロポネソス半島北西部にある古代ギリシャの都市、オリンピアの画像を集めてみました。

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トロス(円形神殿)。マケドニア王のフィリッポス2世が戦勝記念に建てたもの。柱の下が階段になっています。どこか、地下道上屋の立ち上がりのベンチに、そこはかとない意匠のリンクは感じませんか?

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遺跡奥に進むスタジアムへのアーチ型入場門跡。既存地下道の雰囲気にも似て、ここを通ってあの、新古典主義な匂いもする上屋が眼前に現れる・・・という物語性にもどこかリンク。

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紀元前7世紀に建造された、ギリシャ最古の神殿建築。ゼウスの妻でギリシャ神話の最高女神であるヘラを祀る神殿。このヘラの神殿前で近代オリンピックにおける聖火の採火式が行われます。

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そう連想すれば、あの上屋の屋根の意匠も、古代オリンピックで優勝したアスリートに与えられたオリープの葉冠からインスパイヤされたものとも、妄想出来たり・・・

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オリンピック繋がりで話を進めますと、近代オリンピックで例えばギリシャのオリンピアで採火式から聖火リレーを行ったり、当時まだ多くの国で開発段階だったテレビジョン中継が試験的に行われたり、記録映画(女流映画監督・レニー・リーフェンシュタールによる『オリンピア』。1938年ヴェネツィア国際映画祭金賞受賞)が制作されたりなど、一方では「ヒトラーのオリンピック」とも言われる「ベルリンオリンピック」はあまりにも有名で、その先駆的開催スタイルの数々は、現在のオリンピックの礎を築いたとも言われています。

ベルリンオリンピックが開催されたのは1936年(昭和11年)。ちょうど、府一の校舎が竣工された年度と同じで、あの上屋が完成した年でもあります。

ヒトラー率いるナチスドイツのプロパガンダ効果を期待し、オリンピックを国威発揚の場として意識的に活用したのはヒトラーが最初と言われています。その方針の元、スタジアムや選手村、空港や道路、鉄道やホテルなどが短期間で次々と建設されました。

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写真は現在も残る大規模競技場でベルリン改造構想「ゲルマニア」のひとつとして計画された「ベルリン・オリンピア・スタジアム」で1936年竣工。外観は古代ギリシャやローマ建築を模した新古典主義風。ヒトラー時代の復古主義を感じる建築です。

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この競技施設が不朽の名作と言われて現在も評価されているのには、築約80年にして解体されず、数々の改修を経て、今でも現役で使われている所にあります。

1974年、2006年のサッカーワールドカップ大会もここ。2009年の世界陸上も、ウサイン・ボルトが100m9.58秒を出したのもこの競技場です。

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当初は屋根はありませんでしたが、現在は2006年のワールドカップの際に改修され、観客席は全席屋根付き。「最初から名建築だったというよりも、時間をかけて名建築に育った好例だ」とも言われています。

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ちなみに、あの伝説のベルリンオリンピックでの「前畑がんばれ」で有名な水泳プールも、当時のまま現存しています。

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さて、竣工年が全く同時代の鴨沂に残るあのたいそうなデザインの上屋と、その学校の歴史背景を考えた時、素人発想から「あのデザインはもしかしてオリンピックに何かインスパイヤしているのかな?」などとは、実に無謀な仮説にしか過ぎません。けれどこの当時の体育施設のデザインに重ねた時、(げんに当時の府一女学生がこのオリンピックに出場もし)、そして新古典主義や復古主義などと並べてゆけば、どこか繋がりがあるのでは無いかと思えてなりません。当時の府一の校風を紐解けば一方では大正時代頃の自由さや聡明さを持ちつつ、国の方針には忠実に従い、また国レベルでは当時のドイツとの友好関係も鑑みれば、何らかの影響を受けていないとは言い切れないと想像する限りです。

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このドイツの競技場を色々検索すると同時に引っかかってくるのは、比較として現在、2020年に開催される東京オリンピックに向けて、全面解体の後に建設される計画が進められている、国立競技場(1964年東京オリンピックのメインスタジアム)のお話です。

そんな中、これらに関連したネット質問版に興味深いやりとりがありました。日本とドイツでの考えはどうしてこうも違うのか?というものに、質問に答えられていたネット回答者の見解がとても秀逸だったので、以下リンク先を。(http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q13131861483

環境保護が盛んとされるドイツ。今あるものをリユースする事で、環境にかける負荷を減らそうという発想が国民自体に在ると同時に、歴史意識の有無の違いが、日本とドイツでは異なっているのでは無いか、との考えを持たれているのが回答者の意見です。自分がいつ始まっているのか。過去との関係性を問い、またそれを個人間で終わらせない。

この文中にある、「現在はいつ始まるのか」という言葉は、とても意味深いと感じます。

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古い建造物に対する保存活用を唱えると必ず、「日本は地震大国だからねえ」という言葉が返って来ます。「そりゃあ、地震の無い国では古いものだって残せるでしょう(だけど日本じゃそれは叶わないんだよ)」。

けれど、こうした考えを聞いてもどこか腑に落ちないのは、危険視される根拠がとても漠然としている事が多いからです。何より今、それは目の前に存在しており、本当に言われる未曾有の大災害に遭って壊れるかどうか、その「壊れる」とされる根拠は、ちまたでささやかれるのは往々にして科学的でなく実に感情的、あるいは感覚的で曖昧なものです。また、一方で単なる事情違いでしっかりと同年代建造物が改修される事例を見聞きすると、とたんにその解体のみこそが安全へのチケット、つまり救いの道という根拠は崩壊してゆきます。老朽化という言葉では一方で同年代建物が同じ時空で存在して居るため説得力が無く、耐震性が無いと言われればその根拠を知る事無く言葉をつぐんでしまう。しかしこのような感覚こそ、「危うい」とは言えないでしょうか。

たとえばドイツにおける戦後姿勢がおおよそ賞賛されるのは、こうした過去を葬り去る事無く事実として受け止め、(過去にどのような背景を背負っていようとも)あらゆる可能性を模索して使えるものは使い、継続性と連続性を質実両方で保ちながら前に進む、というところなんじゃ無いのか・・・と、客観的にとらえていますが、そのドイツの姿勢は賞賛するのに、何故、私たちはほんの目の前の自分史には固執しつつ、過去と現在を分断させ、結果的には広がりを持とうとはしないのでしょう。一方で独裁的で威圧感を発揮するものに拒否する真っ当な精神を持つと自負し、かつ歴史認識が時に歪曲されると感じれば異議をたてながら、けれども実に身近な自分達の現在の始まりに対しては何故あっさりと、知る努力を怠り、また頓着しなくなるのでしょう。

自身に都合が良いもの、悪いもので今後が決まるのも、それは違うと思います。また、たった今という地点だけをとって周囲の関心がある無しで存在を精査されるのは、それは物質として正当な評価を受けたとは言えません。

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世紀をまたぐ既存物には、その始まりと経過には必ず、時代が語る真実が寄り添っています。それは例え小さくも身近な存在であろうと、言われる世界的遺産と称されるものに等しい。物質は、時に人間の都合のよい解釈や上っ面の賞賛を越えて、その時点で何があって、そしてどのような時を人間と共に築いてきたか、というひとつの真実を語ります。

鴨沂の始まりとは一体何で、そしてどのような経過を辿って今現在に存在するのかを考える事は、そこで過ごした私たちの意識レベルを常、計られているとも考えられます。まるでこれまで振り返る事も、また過去を精確に知ろうともしなかった私たち自身の目の前にある鏡のように、その姿でもって、大きな問いかけをしてくれているように思うのです。そうして、今まさに目の前にある既存物は、過去と現在を結ぶ事が出来る大きなきっかけを、私たちに与えてくれているのではないでしょうか。

時代の必然性と、その後の価値観の変容や過去が抱える現代との矛盾も越えて、またそれ自体を活かす道が図れるのは、それは物質を形と成した我々人間であるからこそ出来る事、なのでは無いでしょうか。(勿論、この思考はそのままひっくり返して、人間が造ったものであるからこそ、無くすという選択もあるとも言い換える事が出来ます。が、それらを無くすに際しては、その根本を支える根拠が、造り出した際の根拠に等しく真に正しい正当性を伴い、また正しい判断力によって導き出されたもので無い限りではならない筈で、その判断については議論を重ねられる事、またこの議論の場に際して挑む側も判断力や読解力、知識力を求められているのだと思います)。

諸々の意味合いを含んだ、お互いにとっての不都合な過去を切り落とす事をすなわち既存物の破壊ととらえた時、しかしながら過去を今後も活かす事こそ実は、過去の既存物を個人のメモリアルに封じ込めたり、また過去を個人化、あるいは所有化しない、それは未来にも渡るみんなの財産となるのだという事を今一度、いずれの側の私たちも、考えるべきではないかと思います。

これが学校校舎であればそれは、過去の卒業生や在校生、またその場所でかつて教壇に立った、あるいは今まさに教壇に立つ人達の所有物とはけっして言えない。仮に今後もそれらが繋がった時には、無数に渡る未来の学生らや先生らの集う場所になります。しかしながら切り落としてしまえばもう、永遠に過去を知る人以外のものでは無くなってしまいます。

これがかの独裁者が造った夢のスタジアムであれば、それらが今もまさに世界新のレコードを刻むスポーツの殿堂たる存在している事も、そして多くの悲劇を乗り越え感動を生む場所として存在しているのも、かつてどうしてそれらが生み出されたのかを我々には容易に忘れさせてはくれない事も、こうした矛盾や悪夢、そして喜びや感動といった複雑な感情の背景を体現している存在こそは、私たち人間が造ったものであるが故であり、過去からすれば未来でもある私たちが背負わされるべく財産であると、そう思うのです。

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※使用写真は一部、フリー画像より添付しております。

 

勉強会報告。

「京都市歴史的建築物の保存及び活用に関する条例」についての勉強会報告。

 

先週金曜日のお話ですが、大阪弁護士会会議室にて行われた、大阪弁護士会の研究会が主催された勉強会に参加してきました。

テーマは京都市が制定した「京都市歴史的建築物の保存及び活用に関する条例」について、京都市の担当職員を招いての講義と、これと同様な条例を制定したいと検討されている河内長野市の担当者の方らの講義及びディスカッションといったものでした。

 

以前もフィードで触れた事がある、テーマの主軸である「京都市歴史的建築物の保存及び活用に関する条例」。京町家などの木造建築、並びに近代建築などの非木造建築等、歴史都市・京都の景観を形成し、生活文化を伝える景観的・文化的に重要な建造物の伝統的な意匠形態を保存しつつ、安全性の維持・向上を計り、建築基準法の適用を除外する事で、これまで困難だった建築行為を可能として良好な状態で保存・活用を計るものとして、平成24年にまずは木造建築を対象に、そして平成25年には非木造建築を対象範囲として広げ、条例が制定されたものです。

↓条例の詳細内容はこちら

http://www.city.kyoto.lg.jp/tokei/page/0000157989.html

 

今回の勉強会での講義並びに質問内容から分かった事を以下にまとめてみました。

 

◎今回の京都市の条例では、これまでの所、適用建築物となったのは木造建築で3案件(龍谷大学深草町家キャンパスと、あと2件は寺院)。そして非木造建築での適用建築物となったのは現在までで1案件のみ。それは本・京都府立鴨沂高等学校の中央棟。つまり、現在まで非木造建築では、最初の対象事例にしてオンリーワンの建物である。

◎この条例に関しては、景観的、文化的に特に重要なものとして位置づけられた建物である、建築基準法施行(昭和25年)前に建築された建物が対象となり、所有者は保存しながら使い続けるための建築計画や安全性の向上、維持管理に関する計画を記載した「保存活用計画」を立案し、京都市長へ登録の提案を行うものとされる。つまり、鴨沂校舎の場合には所有者である京都府教育委員会より「保存活用計画」が提出されたものであり、この件を京都市の担当者に質問した所、府教委側の計画では、校舎全体では無く、校舎中央棟部分の保存活用計画が提出されたとの事だった。

◎提出された「保存活用計画」は審査され、京都市から保存建築物に登録される。また、今後、所有者は増築等を行う前に市長の許可を受けたり、適切に維持管理が行われるようになり、定期的に市長に報告を行うよう取り決めされている(3年ないしは5年毎の報告)。つまり、今後の鴨沂校舎中央棟に関しては、これまでのようなメンテナンスの滞った状態に陥る事が起こりえない筈、となる。

◎今回の条例の施行については、国による指針に沿った形でつくられたものであり、それらを受けて京都市が取り組んだものである。

◎ただし、この条例についても文化財指定を受ける受けないと同様に、所有者側の意向有る無しによって、条例自体が活用されるかというのが大きな問題となる。

 

第二部のパネラーとしてお話された大阪府河内長野市の文化財保護を担当されていた元職員の方は、主には京都と高野山を結ぶ高野参詣道として歴史を刻む河内長野市に多く残る街道風情や、その文化財指定を受けた建造物の経緯を説明されました。そこには建造物の所有者側に対する働きかけについても触れられていました。また、残す事だけでは長期的保存の道とは言えないとされ、それら木造建築に必要な材木や萱などの育成にも市をあげて取り組まれている事も紹介されていました。そこには、担当者の方の、未来に渡って市民の貴重な財産を残し、伝える事の使命感や熱意を強く感じました。

 

こうした心ある人の力の呼びかけによって、意識は変わるのかもしれないと感じたと共に、講義を受けながら、本来は京都市の条例の対象範囲である(と、以前京都市長への質問状からの回答でもそう述べられていた)あの、鴨沂に残る地下道上屋の貴重さについて、果たしてどう、投げかけてゆけば多くの方の意識は変わるのだろう・・・と、果てしない気持ちになりました。

このような条例の対象になるような、あの学校校舎はそれほどの建物だったのですよ、という事から、今だ意識を持たれなければならないのかもしれません。

また、こうした条例があっても、それを活用し、発展させるもさせないも、私たち市民次第なんだと思うのです。守る事や残す事は、何も単調な意味での保守ではありません。お飾りのようにただ残すだけの為では無い、残し、今後も安全に活用するという方針を持った条例なのですから、その意味を知り、保存と活用の両立が、未来へと続く歴史になるのだという考え方に、展開してゆければと願っています。

形と校風 〜鴨沂アンビバレンスなバランスの行方。

モノの形というものには、本来、必ずや作り手の込めた意味が備わっています。

これが例えばその「形」を「学校校舎」とした場合、その建物環境には切っても切れない、特に竣工時には、このような学校にしたい、こんな風に学生らに育って欲しい、という作り手らの思いが反映している、つまり、校風と学校校舎は本来一体と成しているものだと思います。

ただし、これが長い歴史を経過した建物となると、当初の方針とは合致し得ない部分が生じて来ますので、その点が厄介なのでしょう。例えば、戦前には女学校で、戦後の教育改革で取り急ぎ、これまでの文脈が詰まった箱を強引に空っぽにして、共学高校に仕立て上げたとも言えるのが現在の鴨沂高校です。引き継いだのは明治時代から名乗られていた女学校同窓会「鴨沂会」からの名前を冠した事と、恐らくはそうリスペクトもせず、ただ結果残留した数々の貴重な資料や備品等。そして校舎群。けれどもあの鴨沂は、言われる自由な校風にしてあの風貌だからこその、なんとも言えないギャップ感が、奇妙にも時間と折り合いをつけて、固有の匂いを放っていたのでは無いかとも思います。

「で、あるから新しい校風を打ち立て、今後はこんな学校にしたい。だからこんな形にしたいんですよ」。本当はそう、この度の作り手側としては、最も言いたい所であったのかもしれません。が、そこを正直に語り、説得あるいは提議するのではなく、耐震性やらなんやらと、別問題にすり替えて議論の余地すら無い状況にさせたのは、これは断じて誠実な態度とは言えなかったと思います。

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以前NHKのアート系番組で、日本の美意識について語られた話が印象に残っています。

それは絵画を指して、日本のそれは「引き算の美学」であり、一方で西洋絵画のそれは「足し算の美学」であると言われていました。西洋では、例えば墨絵などのように白場を残す、つまりキャンバスの白地を残したままの絵など、タブー中のタブーなんだそうです。ですが、日本ではその描かれていない白場にこそ、意味がある。そこが日本人特有の美意識や精神性を表しているのだそうです。

が、この引き算の美学なるもの。粋の極みが要求されます。無駄削ぐのと、ただやみくもに白場を残すのでは、そこで素人と玄人の差がはっきりと分かれてしまいます。これは絵画に留まらず、工芸にせよ建築にせよ何にせよ、無駄をはぶく、しかしながら必然性の極みを表現する、あるいは、無駄を削ぎつつ、今あるものを残し活かすには、その作り手の見極め能力がまさに問われます。

美しく、意味深く、そして機能的でもある。かつ無駄が無い。これらの極み。

その好例が、一般の方にも広く親しまれている陶芸ではないでしょうか。作陶のやり始めには嬉しくなって、なんだか色んな柄とか絵とか、造作とかをやらかしてしまいます。パッと見には良い形には仕上がっていても、色んないらないモノがいっぱいついていて、お手本の先生のものと同じ材料を使っているにも関わらず、残念なものに仕上がってしまう。あの感じです。

そして一方では、こうした粋を読み取ったり、その形の意味や価値について、受け手側も常に、その審美眼や、謙虚な心を求められます。しかしながら、昨今には悲しい現象も見られます。分からない。あるいは分かろうともしない。そんな昔の話なんか興味ないわ、と、本質を見極める手前でふんぞり返ってしまう。形よりも中身が大事という意見はごもっともですが、本来最もバランスが良いのは、外見と中身とが調和する事でしょう。そうしたバランスを保った形というのは一体、どういう形なのか。時に自問し、また見極める力を養わなければなりません。

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2013年に開催した「鴨沂高校の校舎を考える会」のシンポジウムで登壇下さった、建物構造の専門家で関西大学の西澤英和教授による講演は、今だその言葉の数々を振り返って身にしみる内容です。

(ちなみに、当日の講演映像は当時、内容を区切って順次公開していましたので、通しで見れない状況ではありますが、パート1から5まで通して見て頂くと、その内容は全て掌握出来ます。参照→http://coboon.jp/memory.of.ouki/?p=2303

建築構造の話を軸に、歴史物語まで紐解かれたそれは、西澤先生のまるで大喜利のようなユーモアがふんだんに盛り込まれていて、当日は難しい話の中でも会場中の爆笑を誘う、といったものでした。そう言えば全く笑っていなかったのは、当時、校舎新築設計プランのコンペ直前にあって、どこから聞きつけたのか入札参加に名乗りあげた各設計会社の方々ら。笑えないのもさもありなん。この時点までは校舎設計の府教委による方針は全面解体で新築でしたから、「校舎を壊すとは何事ぞ。壊さずとも充分、しかも安価で改修出来る」と、構造専門家が、であるからこその問題点や不正とも思える点を指摘し、しかも充分な根拠を持って、大勢の前に示されてはたまったものではありません。その後行われた入札プランでは、1社を除いていずれもがほぼ、現在のような部分保存を唱え出したのは一体、それは偶然だったのでしょうか。

さて、お話が反れてしまいそうなので、その当日にお教え頂きました、昭和10年頃の建築の教科書に書かれていた、学校建築に関する、有り様についての哲学のような文言の引用を、以下に。

「高等専門学校はいずれも一国文化の中心である。学術研究の殿堂であると共に、学生の人格を陶磁し、徳性を涵養するのをその使命とするから、建物の外観も従って是等の内容を盛るにふさわしいものでなければならない。

特に感受性強き青年を敬容することであるから、建物の外観等の具象的環境の彼等に及ぼす感化力は相当大なるを思い、その色彩と形態とを充分に考慮を備うべきである。

すなわち華美を捨てて質実に、軽快よりはむしろ荘厳に、清新にして品位あり、そこに醸し出される真面目な雰囲気をもって、その中に遊学し、研究する心に真・善・美に対するするどい感覚を植え付けるものでなければならない」。

学校校舎を形つくるには、そこに必ず意味あるべきとする指針です。

しかしながら振り返って現代日本の都市光景には、こうした揺ぎない哲学をもった建物が一体、どれほどあるのかが分からなくなります。難解になった訳ではけっしてありません。表現を借りれば、「荘厳よりも軽快に」「斬新かつカジュアルに」と言うか、真・善・美の3つの柱のいくつかが、欠けているように思うのです。これが流行と言われれば話が終わってしまいますが、建物たるもの、個人が好みの服装で街を闊歩するような動体ではありません。造るには莫大な予算が必要で、ひとたび建ってしまえば良くも悪くもその街の顔となってしまいますから、そう簡単に、まあいいんじゃない?自由にやらせておけば、と例え外野であっても楽観視するものでは本来ありません。それが公共施設となれば尚の事です。

戦前の思想的なものはもろとも受け入れ難いとされる向きもあるかもしれませんが、君主主義と、民主主義というものをそれぞれに考えた時、議論も果たさず、現状に疑問も感じず、情報精査能力も衰え、受け身で批判的精神も矢印違いな現代のそれと、仮にも揺ぎない見極め能力とセンスを持ったとされる絶対権力の居た時代と対比すれば、何か、言うに言えない感覚になります。

君主的でも無いが、決して民主的でも無い。それはいい時代だ、バランスがとれて?が、さりとて誰が責任者たるか所在も分からず、民主的に物事が進められる訳でもないという昨今の気味悪さは、果たしてこれは我々の求めた「形」だったのでしょうか。

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前出の学校建築考には、完成にあたっては使う側に対して、その思想を押し付けてる訳で無く、そこはかとなく感じるか、感じないか位で留められています。そこには作り手側の、未来ある若者に対する普遍的な愛情や在るべき姿への信念のようなものを感じます。ちなみに、鴨沂の校舎もまさにこの時代に建てられています。ですからそれが遠い昔話となるこちら側には時に難解にして、現代においてはベタで分かり易い、ただ効率的な「新しい建物」に、あっさり「いいね」となるのかもしれません(勿論、新しい建造物の中にも優れたものはあります。何も古いもの全てが善と言っている訳ではありません)。

しかし、これも近頃の流行か、例えば新築された病院や学校などでよく言われる、欧米由来のカラーコーディネイトが、その建物空間をカラフルに彩るに際し、使う側の、その心象に与える影響などと声高に言われて「へえ、そうなんだあ」と、軽く許容出来るのであれば、先人らが残してくれたものに対して読み取りを行い、実はその根本精神によって、学校環境というものがいかに自分達に影響を与えてきたかという事について検証し、守り、伝える事も、大事な「余白」には、なりはしないでしょうか。

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古いものに囲まれていては新しいものが創造出来ない、若い感性が育たない、若い子たちが可哀想だ、なんて一方で言われたりしますが、それは大変な誤解で偏見じゃないかと思います。都合良く欧米比較をするのは簡単ですが(と念押しした上ですが)、例えば世界的なファッションショーも、世界的な展覧会も、世界的な映画祭も、いわゆる創造の極みである発信拠点は全て、歴史的景観都市です。その中でもアメリカのNYは例外じゃない?と、挙げ足を取りたくなるかもしれませんが、そんな方は是非、実際にNYに行ってみて下さい。アメリカなんて歴史が浅いなどと小馬鹿にしてきた日本人も、今やちょっと恥ずかしくなる位に50年超えなんか当たり前、100年超えの建造物も群を成して活用されて、その都市が成り立った近代史へのリスペクトを随所に感じる、実に落ち着いた大都会です。ちなみに、ICT化というのが昨今の教育行政側はお気に入りのようですが、アップル、グーグル、フェイスブック等の名だたるネット企業が軒並み本社を置くのは大都会では全くありません。アメリカ・サンフランシスコから車で1時間程の、温暖な気候が快適な、のんびりとした郊外にそれらは存在しています。対比として虚無の極み、近未来炸裂がお好みであれば、ドバイあたりはどうでしょう。夢のゼネコン天国が広がって、確かにお金とか、それらにまつわるコネクションは創造出来るのかな、とは思います。

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さあ。落ち着きのある環境、古い事、歴史がある事って、そんなにネガティブな話でしょうか。

まるでお兄ちゃんお姉ちゃんのお古の服を、お下がりで着せられるのは可哀想だというような、スケールの小さい話ではありません。

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と、大きく例をとってまた、ミニマムなお話に戻るとして。

そういう意味をとってみても、例えばあの、鴨沂に今もギリギリ残されている地下道及び上屋について、「何故、あんなのを造ったのかな」と思いを巡らせるのも、個のノスタルジーだけに留まらない、壮大なロマンを感じませんか?

上屋に至っては、別にあんなたいそうな形にせずとも、ちょっとした屋根さえあれば、用途だけを考えたら事足りた筈。ですが何故、あんなにもたいそうな造作物を造ったのか。モダニズムとかアールヌーボーとか言われるけれど、その言葉の意味も、またその読み解きすら、誰も終えていない筈です。けれど一切合切、「ぼろくてみっともないから壊してしまえば?レプリカを別の場所に造ってもらえるからいいやん」と、審美眼など無いだろうレッテルが貼られがちな若者よろしく、品位と知性を兼ね備えた筈の大人も同調してしまうのは、それは大人として粋な事とは思えないのです。

歴史の浅い学校はそれで良し。効率優先の快適さを追求した環境が好きであればそれも良し。しかし、今や京都もこれまでの受験制度とは変わって、自分の行きたい学校が一応なりにも選べるのですから、某ラーメン屋ではありませんが、あっさりが好きな学生はあっさり味を選べば良いし、こってりが好きならこってり味を選べば良い。そしてそのフレーバーチョイスとして、やたら謎だらけで歴史物語をたくさん保有している学校が京都の中でひとつ位あっても、そしてそれらをしっかりと検証した上で大いに自慢しても、悪い話では無いでしょう。卒業生だってこれまで通り、母校自慢を高らかにしていれば良いし、また行政側だってそうしたバックグラウンドを持つ学校として、学生側に発信すれば良いのでは?と思うのです。

既に散々、なんらかの美意識かで大いに引き算をされたのですから、今まだギリギリ残されているものはもう、特色のひとつとして、これからは堂々と活かすべきだと思います。

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我々のような既に外野に居る者達が出来る事として、言葉を悪くすれば何にも「ケチ」をつけるのは、それは方向性として間違っており、我々も充分に自身らの言動について気をつけたいと思っています。が、それと共に鴨沂高校の形、すなわち校舎や校風に関する「引き算」と「足し算」の数々について、それらが公平に、公正に、そして確かなプロフェッショナルによる選択によって導かれているものであるかについては、しっかりと見極め、時には間違いを指摘したり、問題提議をするのは必要な行動では無いのかとの思いがあります。

果たして議論は果たされたのか。充分に検討された上での最善の選択か。また、当事者らと真に合意形成を得た上で成された事なのか。・・・と、言った懸念です。

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競争原理に強者優先と言われる資本主義社会の中にあって、しかしながら我々側にも少なからず、選択する自由というものは存在します。何らかのプロジェクトが生まれる際には、プレゼンテーション側はA案、B案、C案・・・と、捨て案をいくつか用意し、また選択する側である我々はそれらを選び、または選ばない権利も有しています。これが何からのプロジェクトに限らずとも、例えば商品ひとつとっても、我々は常に「選ぶ」という行為をその生活の中で行っており、商品開発側は常に選ばれ、また選ばれない存在でもあるのです。

今回一連の鴨沂の件でよく分かった事は、恐るべきかな作り手側は、選ばれる側であるにも関わらず、このようなプレゼンテーションのやり方を知らず、また、それをまかり通してきたという事です。いずれのプレゼンもA案、つまり1案のみ。これは「案」とは言っても選択に余地がありませんから、それは案では無く世間では「決定事項」と言います。また「検討は既に重ねてきた」と言われますが、似たような価値観の者同士孤立した仲間内で会議を重ねているのは、それは検討では無くある方角に向いた「アイデア出し」というものに過ぎず、「Yes」を言ってくれる仲間づくりにだけ奔走し、「No」をひたすら排除するのは、それは「討論」する形を全く成していません。

それもこれも全て慣例とさせたのは、我々による過信か、あるいは無関心や諦めの成せた業だとも感じています。

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グラウンド及び体育施設だけをとってみても、在校生らへの合意形成もとらずに奪ってしまった「紫野グラウンド」と、それに替わる代替グラウンドも用意されない事は、やはり許されざる大きな問題です。

よくもまた議会でこうした方針が疑問も持たれず通過したものだと呆れると同時に、そうしたフィルターなど通過させる巧みさだけは素晴らしい役人の方らの台詞と、一応なり批判的質問を文書化される事も計算されているのだろう議員の方々らの台詞の数々には、その世界でだけでは通用するシナリオとして、これもまた長年に渡って続けられたのであろう「形」というものを感じてなりません。

が、こうしたシナリオにも多くの抜け落ちた真実があるのは言うまでもありません。

耐震性については府教委側の発表にも耐震改修で活用出来るとされた旧体育館、プール棟を解体し、北運動場を今後の鴨沂のグラウンドとされるとは言われても、結局は直線で100mすらとれない運動場には変わりません。そしてこの手狭な運動場を強いられる理由については言い訳のような「今後は工夫して使って頂く」という言葉に、いつの間にか「外部グラウンドの移動の手間を無くし、かつ安全性の確保」という美談話からすり替わっています。そしてそもそもは確か、言われる校舎解体の理由は「耐震化が計れない」というのが大義だった筈ですが、真っ先に解体されたのは、その対象には本来あたらない建物たちでした。そしてこれら、失った体育館やプール棟を新たに補うべく選ばれた場所は、ただでさえ手狭な本館校舎側の敷地。この計画によって、校舎の大部分を解体してそれらを押し込めざるを得なかったのは、敷地全体の図面を見れば一目瞭然です。またこの、地下プールを含む新しい体育館の図面詳細を見ると、今は部活動さえありもしないシンクロも出来るプールとすべく、地下10m強を掘削されるそうです。現在レコードを数多く持つ女子水球部による水球競技より、更に水深を確保せねばならないシンクロが出来るプールをこしらえる理由は何かと問えば、前期同窓会理事会には「東京オリンピックを目指して」と、校長側から説明があったと聞きます。さて。2020年まであと僅か。確かに工事は間に合いますが、果たしてオリンピック強化選手は本当に、鴨沂に入学するでしょうか。いや、入学した所で、その新しいプールで泳ぐ事はあるでしょうか。恐らくは海外遠征の日々で、それは実現しないでしょう。

かつて女学校時代には、戦前の2大会に渡り、オリンピック選手を輩出したという歴史があります。しかし、当時の校長先生は策士であられた。つまり現在の校舎を新築するよりも前にこうした成績を残す生徒を育て上げる事で実績をもって周囲を説得し、だからこそ卒業生やその父兄らから寄付を募る事が出来てはじめて、当時、室内プール棟等の建設に着手出来たのです。物事を進める上での順序すら、先人に学ぶ事は多々あるように思います。

が、その上でも矛盾が生じるのは、「学校の部活動はそもそもは授業の一環では無い」として、グラウンドを奪われた部活動部員やその保護者には返答しているにも関わらず、ですから、これではやはり、その言動のいびつさについても指摘せざるを得ません。

いずれにせよ、最も必要であったグラウンドを強引に引き算された事によって全ては始まって居り、その引き算を補うものの足し算が、一体どれほど矛盾に満ちたものなのかという事については、今一度多くの方々と共に考えねばならないのでは無いかと言うのが、その象徴として地下道及び上屋に繋がるととらえています。

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これら一連が今後の鴨沂高校の在り方を考えるべく最高のアイデアにして、引き算や足し算による極められた「形」であるとするなら、設計会社も、その発注元の京都府教育委員会も、新しい学校を造る訳で無く、同じ校名を名乗る限りは少なからず、「鴨沂」の形を造る事が出来るプロフェッショナルとは言えません。よって、少なからず卒業生である我々には、同じ校名の元で過ごす在校生達が声を挙げた事について応援したり、声を聞いたり、またこれは違うだろうと、鴨沂という形を知る者、つまり鴨沂のプロとして意見するのは必要なのではないでしょうか。

こうした働きかけは、本来であれば、学校側や鴨沂生らと常近い存在であろう同窓会組織が機能せねばならなかった筈であり、また我々はそうこれまで過信していました。しかしながら実際には、紫野グラウンドを喪失した件では府教委側からいち早く報告を受けたにも関わらず留まり、加えて「同窓生の総意」という言葉を盛り込んでの校舎全面解体の要望書を我々の知らぬ間に作成して提出。また、任意団体であるにも関わらず、今年度より学校側と話をつけた上で、鴨沂の新入生から同窓会費を徴収される・・・。

これが、あの学校の卒業生代表が集うとされる組織であるなら、それは本質的な在るべき「形」を成しているとはとても言い難いと思います。

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果たして高校生活というのは、ただひとときの記憶とその通過点であり、恐らくは奇妙な夢を見ていたような、また好きとも嫌いとも言い難い日々であられた方も一方でおられるかとは思います。歴史の長かった学校ですから、あまりにも多くの、そして色んな考えの卒業生の方々らがおられて、その感情をひとまとめにすれば、実にアンビバレントな学校と表現するのが正確なのかもしれません。

色んな考え方がある。色んな捉え方がある。言わない中にも見守りたいとする方もおられる。

いずれもそれぞれの立場からでは間違っては無いであろう、思う形。

けれどもよく調べ、話を聞き、そして考えた上でも「これは誤り」と言うべきものについて、それぞれから指摘や行動がなされないというのは、それはやはり、あの学校に育まれた筈の人の在り方として、間違っているのでは無いかと、そう思えてならないのです。

このように問題点や現状あるいびつな形を列挙すれば、「もう、いったん全て無くしてしまえ」と、ちゃぶ台をひっくり返してしまいたくなるという衝動もあるやもしれません。姿形や有形物に固執しないとするスタンスの考えを持つ人ほど、そうした傾向が一方ではあるようにも感じます。しかしそれこそ実は「形」に固執している、とも、言えないでしょうか。モノの形がそこに存在するからこそ、「無くせ」とも言える訳ですから、その点に気付かず、「モノにあたらない」という昔からの教えのようなものに立ち戻る謙虚さを忘れ、感情論の対象として形あるモノを引き合いに出すのは、それは次元として間違っていると思います。そして逆側の論調を展開している我々としても、その「残せ」という意味について、純粋でありたいと常、振り返りつつ自分達の言動には、注意を払いたいと思っています。

「校風と校舎は別次元で考えるべし」という、一方で関係者から聞く言葉は、その実それらを愛してやまない人の考えと、その逆で鴨沂を全く知らずに愛着も無いがゆえ(またはバイアスをかけ続けた方らによって)に無くそうとする人の考えとで、もたらす結果が同じというのは、とても悲しい皮肉のように感じています。

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本当に、最も形を正さなければならなかったものは、物質的なもの、だったのでしょうか。