月別アーカイブ: 2015年8月

ベールをとれば何が出てくるやら。

<本日の鴨沂>

土曜日の鴨沂は作業の音も静かでした。

年々訪れる人が増える一方の京都。他府県ナンバーに外国からの観光客。街中は車も人も溢れ返って、加えてデモ行進。確か京都もリニアだなんだと言われていますが、その前に市内のインフラはどうする?という位に大騒ぎ。あちこちに人の視線や思いが違う方向に向いています。比べると、鴨沂エリアはなんだか静かです。春日小学校に、鴨川側と大規模工事が行われていますが、なんとも静か。何か、人の気配というものがありません。

写真は今日の、あの鴨沂の図書館です。まるでマジックが始まるみたいに、すっぽりと覆われてしまいました。あのベールをとれば何が出てくるやら。

その前によくよく思い出してみるのです。

司書室のガラスの意匠。階段のタイル装飾。ブロックガラスの踊り場。薄暗い廊下。書庫の重厚感。書庫の鉄製の階段。古いリフト。ああ。あの置き去りになったミッドセンチュリーのソファーはもう、ガラクタ行きか。あのガラスはもう粉々か。立派な日本人形もありました。きっとあれは女学校時代のものでしょうね。貴重な本の数々は全て、また鴨沂に戻ってくるのかな。

そんな事を考えていたら、強い雨が降りました。

もう。秋ですね。皆さんの図書室のお気に入りは、どんな所でしたか?

『鴨沂定時制』の今後について

<明後日の定例教育委員会での議題は『鴨沂定時制』の今後について>

約月一回の頻度で(あるいは不定期で開催される臨時会)で行われるという「定例教育委員会」。明後日の8月21日の議題の中には、鴨沂高校の定時制募集停止が話されると、8月8日付の京都新聞に記載されていました。

鴨沂校舎の関係で、以前1度傍聴した事がありますが、「傍聴席」と言われるだけあってそこでは意見する事も、録音などで記録する事も許されていません。府民として傍観する権利が与えられるという訳ですから、その目の前でお話し合いをされる人達の立場設定は(これらの人々は選挙によって選ばれたのではありませんから)府民代表というよりは教育のプロ、専門家、有識者、という設定になるのでしょう。よって一般府民においては、じかに聞きに行く事でこの会議内容は掌握する事が出来ます。が、その内容が掌握出来る人数も、定員わずか10名。いずれ議事録がPDFで貼付けられますが、それは会話の全貌を把握出来るものではありません。誰が、どんな事を話して、どんな受け答えが成され、そしてどのような流れで物事が決まる材料となるかは資料からははっきりとは分かりません。

以下、日時が京都府教育委員会ホームページに掲載されていますので、インフォメーション。

http://www.kyoto-be.ne.jp/soumu/cms/?page_id=18

8月8日。

京都新聞の電子版の時間で午前8時台という事ですから、紙面上では土曜日夕刊掲載という事でしょう、全体文字数もそう多く無く「来春から鴨沂定時制の募集を停止する方向で検討」という記事があげられました。

http://www.kyoto-np.jp/top/article/20150808000020

記事には募集定員が下回り、(紫野グラウンドに建った)新設校が開校したのでそちらに希望者は流れるだろうと受け取れる内容で、これだけ読めば、希望入学者が少なくなった事によって「(廃止は)いたしかたない」とする向きも。確かに、額面通り受け取ればそうかもしれません。

しかし一方でこの記事は、校舎改築方針の際に関係者から出ていた「この期に及んで定時制も無くすつもりじゃ?」の推察に、「やっぱりね」の声をあげさせるのにも充分でした。

2013年12月から4度に分けて行われた鴨沂全日制の学生に向けた新校舎のアイデアを出し合おうとするワークショップ。そこでは学生からの質問の中で「今後定時制はどうなるのか」との問いに対して、そこに集う教育委員会や設計会社は図面を指し示しながら、鴨沂における定時制の存続を学生達に伝えていたと言います。

鴨沂定時制の学生に向けても、「未来づくりワークショップ」と銘打ち、新校舎のイメージを話し合うという会が2014年1月17日に設けられていました。(以下、学校公式HPにもその様子が僅かですが記録されています。)

http://www.kyoto-be.ne.jp/ohki-hs-tei/topic2013.html

ちなみに、新校舎で南側敷地に新たに建てられる校舎2階には、図面にははっきりと「定時制職員室」がレイアウトされているのが分かります。

http://coboon.jp/memory.of.ouki/?p=5492

加えて、旧校舎で本館中央棟には、以前は事務室だったあたりが「定時制保健室」と新たにレイアウトされているのも分かります。

http://coboon.jp/memory.of.ouki/?p=5512

確かに、新校舎完成年度には、僅かに現在の定時制学生は残ってはいるでしょうが、わずか1、2年で役目を終えてしまう空間。

結局、これは誰に向けた図面であり、誰に向けたポーズだったのでしょう。

紫野グラウンドに関する真相もしかり。

戦後は国の所有であったこの土地は、昭和35年より国から譲渡されて国有地から府有地の普通財産に。立命や府立医科大、そして鴨沂のグラウンドとして使用され、その後昭和63年には立命館との貸与契約は解除されたもののそのまま普通財産として京都府が所管。平成20年まで「普通財産」であったものを「教育財産」へと所管が移されました。そう、京都府教育委員会が願った理由は「鴨沂高等学校の運動場として使用したいため」。そのわずか数年後にはコロリと方針替えが成されて、この地には「(それ以前の)10年前からフレックス学園構想があがっていた。この場所(紫野グラウンド)しか(建設地が)無かった」と、全府教委高校教育課長から落下傘でやって来られた現在の鴨沂高校校長が、説明を求めた学生や保護者に対して認めた通り、また皆さんもご承知の通りにフレックス制の新設高校が今年度より開校されました。

http://coboon.jp/memory.of.ouki/?p=3181

これらの見返りに鴨沂が頂戴したのは、確かに以前から強くて歴史ある水球部用・・・どころか、今は在りもしないシンクロ部が活動出来るという深い水深を誇る立派なプールを持つ設備。そして、北運動場にあった設備を持って来ざるを得なくなった事により、改修では無く改築を選んだ新校舎。立派過ぎる体育施設に、深く掘れば出てくる埋蔵文化財に困惑の、新たに造られる地下施設群。

確か、当初言われていた校舎の改築理由は「耐震性が無い」であった筈。

思うに、わずか1年、2年、長くても僅か数年というスパンで、時世を常に読み取りながら、素早く対応して方針転換をするなんて、行政に出来る話では無いでしょう。あらかじめ既に決められていたシナリオというものが、存在していたと見るのが妥当でありますが、一方で一応なりの民意を元に進めるという形をとらねばなりません。

当たり前ですが、大きなものを造るには、大きなコストがかかります。よって多くを説得せねばならず、会議も、根回しも、相当な時間を掛けて行われていた筈と想像します。

校舎図面を見ても、今後も継続するつもりで居る定時制を、わずか1、2年であっさりと無くしてしまう方針が立てられる程フットワークが軽いのであれば、それでは無くさなくて良いものを壊さない方針に転換する事だって、本来ならば出来るじゃないかという弁も立ちます。

自分達のやりたい事だけはサッと方針を替えてしまう。それを紙の上に小さいながらも残してしまう。それはきっと、見つけて指摘をしない我々すらも、「民意」という名の承認者にしてしまうつもりなのでしょうか。

会議を重ねる。今風の言い方でワークショップを開く。事後報告を説明会と称して行う。それらを細かく分断して、言う事を聞いてくれそうな集まりに対して心地よい言葉を囁いてみる。入学希望者には立派な紫野グラウンドがあるよと言い、在校生にはグラウンドが無くなっても代替グラウンドを用意するよと言い、定時制在校生には今後はもう、無くしてしまう(つもりの)母校の未来について話し合わせてみる。

これまで散々言われた「子供達のため」という言葉は、何のための道具だったのでしょうか。

悲しきかな「民主主義風」。

本当はやりたい事が既にあるだろうに、それを正面から堂々と発表せず、また堂々と国民に問うてみようともしない。責任者はおらず、選んだ訳でも無いのに選ばれたんだからという代表者が舵をとり、論点をずらし、嘘と真をないまぜにしてなんだか分からないものにしてしまう。建前や回りくどさがそれ風にすり替わり、一方受け側もそれらを透かして見る事も無く、額面通りに受け取ってしまうか、無関心にふいを突かれて手遅れになる。

これまで学習した筈の民主主義って、脆くしたのは一体誰でしょう。

実は全体から見ればとても小さくも身近な問題には、その濃縮された社会の在り方、国の在り方にリンクする学習ポイントが潜んでいるのだなあと、時節柄いよいよ痛感します。

バルコニーというのはつい、見渡したり、何か叫んでみたく、なるものらしい。

<本日の鴨沂>

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昨日の終戦記念日は70年を迎え、今日の京都は送り火です。

時々小雨が降る曇り空ですが、昨年の嵐の中も送り火は灯されましたから、今日も無事にご先祖様をお送りする事が出来ることでしょう。そう言えば、昨年は荒神口の交差点から大文字を見ました。今年はお隣の荒神さんのお地蔵さんに手をあわせました。

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今日の鴨沂は久々に行くとどこもかしこもガードされて、東側のちょうど焼却場があったあたりの鉄の扉も、持ち手の所が内側から目張りされていました。これで中の様子も観る事は出来ませんね。そして、そこら中に「監視カメラ」設置のシール。最近は資材泥棒などが多くて工事現場にはこうしたカメラをあちこちに取り付けるんだそうですが、いくら爽やかそうなフォントで書かれたシールも、気がめいるような、そんな効果は確かに充分ありますよ。

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さて、鴨沂本館バルコニー付近には、建設会社さんの看板が。

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かつては左だ右だと、この場所からスローガンを掲げた事が、遠い昔にあったんだそうですね。その後、国旗掲揚も長い事議論された歴史もありますが、近年はバルコニーに校章の旗と共に揺らいでいました。で、今はと言うと建設会社の看板です。

書かれた筆文字は「心を建てる」。

どんなものが建てられるのかそれじゃあ分かりませんが、どうぞせめて「心で」建てて欲しいと思います。

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なんでもくさしたい訳ではありませんが、言葉や文字というのは、気になるものですね。

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山口玄洞という実業家と、鴨沂に残る図書館。

山口玄洞という方を皆さんは知っていますか?

当方は今回、鴨沂の件で色々とお世話になりました大学の先生から初めて教えてもらいました。

山口玄洞は戦前の実業家です。

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1863年(文久3年)、現在の広島県尾道市で医業を営む長男として生まれました。若くして父親が急死したため学業を諦め、家計を支えるために16歳で大阪の洋反物店に丁稚奉公に出ました。その後、事業で大成功を収めて巨万の富を得て、明治37年には多額納税者となり貴族院勅任議員になりましたが、商人が政治に関わる事をよしとしない思いからわずか2年で議員を辞めてしまいます。

その後、日露戦争以降には更に業績を伸ばし、大正6年には56歳で実業家を引退して持病の療養生活を京都の本邸で過ごしながら、信仰にのめり、資産の多くを寄付・寄進に使い、また表千家後援者としても活躍しました。

事業の成功の初期には特に教育関係、また社会事業関係に寄付を重ね、その後の隠居生活では仏教を篤く信仰し、多くの寄進を行いました。生涯に渡る育英や慈善関係の寄付等、当時の金額にして総額7~800万円とも言われて居り、「大正昭和の寄付金王」とも呼ばれています。

この地元京都でも教育関係、あるいはたいへん多くの寺院への寄進を行って寺社関係の存続を守った事で「京都の恩人」とも評されますが、実際、現代にも残る功績を知る人はこの地元京都でも一般にはかなり少ないのでは無いでしょうか。

しかしながら山口玄洞の故郷である広島の尾道では、かつて水不足で悩まされ続けた市民の為の上下水道確保の為の大事業でその予算の大部分の寄付を行った事などから、現在も記念行事や教育の場で、山口氏の名前とその偉業が語られ続けています。

「人は脂汗をしぼって資産を作ったが、自分は血の汗をしぼったのであるから、よもや道楽や名利のために寄付することはできない。ただ、信仰の道に入って、寺院の前途を考えるとき、やむにやまれぬ気持ちから寄進するのだ」と語り、また生前、地元尾道での偉業を称えるべく敬意をはらって銅像を造ろうとする向きがあった際には「銅像はいったん緩急の時には人を殺す材料となる」と言って断ったのだそうです。

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座右の銘は「明明徳」。設立の際には山口氏の篤志により始まった、大正9年に開校した現在の尾道南高校には、山口氏の書が今も掲げられています。これは中国の古典「大学」の一部を引用したもので、「明徳を明らかにすること」「徳を明らかにすること」という意味があり、「しばしばかすみ、隠れがちな明徳を明徳であらしめようとするのが人の道、人の行い、また学問でならなければならない」、「偏らず不正がない人間として、立派な行動を自分の中ではっきりとさせていく」という真意が込められています。

さて、ここで何故、山口玄洞という人物を取り上げるに至ったのかというのには勿論、訳があります。それは、我々の鴨沂高校にも関わりのある事が分かったからです。

1927年(昭和2年)の事。山口玄洞は鴨沂高校の前身である京都府立京都第一高等女学校の図書館建設に対して1000円の寄付を行っています。

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現在も残り、また今後はもう、図書館としての機能では無く別用途で使われるという方針が、京都府教育委員会により立てられてしまった図書館棟。この建物は、現在改築と改修が進められている校舎本館や、既に解体されてしまったプール棟や体育館よりも先に、これらが昭和初期には木造建家であった頃、女学校卒業生や保護者らが何よりも先にと図書館建設を願い、寄付を募った結果、蔵書に至るまで全額寄付によって建てられたものでした。これには無数の関係者が関わりをもって建設が叶いましたが、その無数の有志の中に、このような著名な人物も存在していた事がこのたび分かったのです。

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一体、山口玄洞が何故、府一の図書館建設のための寄付を行ったのか、そして一体どのような経緯をもって寄付をお願いしたのかは現在の所分かってはいません。けれど、鴨沂の図書館が建つ寺町通りには、ほんのご近所並びに山口玄洞に関連する建物がありました。それは現在、京都市歴史資料館として土地は転用され、残念ながら当時の建物は残っておらず、僅かに山口玄洞の名前が刻まれた石碑が傍らに残る「旧・山口仏教会館」(1923年/武田五一設計)です。こちらの建物は元々、仏教普及のために建設されたもので、戦後は映画館として使われました。また、これもご近所と言って良いでしょう、京都府立病院の裏手には、山口氏の本邸である「旧山口玄洞邸」(こちらも武田五一設計)が現在も残っています。この建物は戦後、進駐軍に接収された後にカナダ人が買い取り、現在はドミニコ修道会聖トマス学院となっています。

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いずれも、これほどまでに近くに山口氏の存在を知る事が出来た筈のものを、私たちは全く、感じないままにこれまで過ごしてきたという訳です。

残念ながら、1937年(昭和12年)に、山口玄洞はその生涯を本邸にて終えました。府一のプール棟、体育館、そして本館と先に建てられた事で竣工の順番が狂ってしまった図書館棟は、その1年後に建てられたという訳です。

あまりにも多くの時間の経過や、戦前と戦後で大きくものの価値や捉え方が変わってしまった現代にあって、多く忘れられ、また埋もれてしまった貴重なもの、また人々の思いというものも多くあった事でしょう。けれども、その本質や根源となる心というものは、決して変わるべきでは無いように感じます。

例えば、生前の山口玄洞という人が残した言葉にも、色々と考えさせられるものがあるように思います。

私たち現代人が、せめて今一度その思いを読み取り、また大切にする事で、次へと伝え、教えられる事は無いでしょうか。

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(参考資料/「安井楢次郎と山口玄洞」日本建築学会近畿支部研究報告集 「山口玄洞のことどもと公共奉仕」大阪大学史記要 「山口玄洞という人」奈良文化財研究所 「山口玄洞が尾道の人々に残したものは?~尾道市の発展に尽くした思い」中村恵 「武田五一」東京文化財研究所)

注/肖像写真並びに書については、フリー画像より転用しております。

地元新聞が伝える、久々の鴨沂関連記事。

<あらかじめ決められたシナリオと共に>

本日の京都新聞にて、鴨沂高校・定時制について募集停止の検討がなされているとの記事がありました。
時世にあわせてという形とお話で、鴨沂高校専用グラウンドには、横文字にして立派なフレックス制の新設高校が出来ました。
全日制に居た者としては、定時制に通われていた多くの鴨沂卒業生の方らとの交流がこれまであまりにも無かった事が悔やまれますが、皆さんはこの記事、どのようにとられた事でしょう。
そしてもうひとつ。
今後、鴨沂の食堂の存続は、どうなってゆくのでしょう。