月別アーカイブ: 2015年10月

地下道上部のアスファルト及び補強板が、外されて行く。

<本日の鴨沂>

先週末に鴨沂を訪れた際に気になっていた通行止め告知の看板。

「10月19日~24日まで、道路掘削舗装復旧工事を行います」との文言と共に、荒神口通りは寺町から新烏丸までが終日通り抜け不可になると書かれていました。

先週のフィードでもお伝えしたように、本館校舎敷地内側にあった地下道上屋は撤去され、元あった場所は完全に土砂で埋められていましたから、今度はいよいよ地下道か・・・とは思いながらも、「道路掘削舗装復旧工事」という文言では、地下道をもしや完全に埋めてしまうのか、それとも重量のある工事車両が行き来する為に補強した道路表面の鉄板を剥がして単にアスファルトを張って現状回復するだけなのか、詳細がはっきりしません。ちなみに、敷地壁に貼り出されている今週の作業工程表には、「道路復旧工事」とだけ記載されています。この文言でも、どちらのニュアンスにも受け取れます。

いずれにせよ、確かに解体工事はほぼ終えましたが、今後は資材などをまた大量に投入しての建設工事が始まるのですから、地下道を保存するつもりであれば、これまで仮に補強されていた地下道を守る鉄板は今後も必要である筈です。

以前行われた住民説明会での質問の回答では、地下道については「(明治期からの歴史的価値もあるため)今後はどうするか検討中」と府教委による回答がありましたが、その検討の結果は果たして、我々はどこで知れば良いのでしょう。

そんな訳で、本日はちょうど工事をされている最中の様子を垣間みてみました。

その時の写真がこちらです。

ちょうど向かって左側が北運動場側の上屋の背面で、ショベルカーが伸びているのは地下道エリアにあたります。ここが明らかに、掘られている最中であるのが、見にくいながらも分かると思います。

一方。

府教委管理課における鴨沂関連工事の進捗状況が約4ヶ月振りに更新されていました。

http://www.kyoto-be.ne.jp/kanri/cms/?page_id=41

ここには今行われている校舎中央の、特に講堂や階段について、また図書館の解体の様子、加えて今後の保存方針の検討について写真と共に記載されています。こうした細かな状況説明や今後の方針などが、随時タイムラグ無く掲載されていれば、一般人には見通せない工事状況や保存への方針について主体側がどう考えて、またどう取り組まれているかという事について、透明性は勿論、互いの信頼性というものも高まるように思います。

少なからず、以前「検討中」と述べられた回答に継ぐ結論なり方針発表は、事前に誰もが分かるようにすべきです。また日々、苦心されている事は公開する事で、結果的には良き主体側の宣伝材料になると思うのです。勿論、仕事が増えるのは承知ですが、これが公共の事業である以上、またこうして時には断片的に情報を公開される限りは、時には苦渋の内容、保留されている内容であっても公開すべきであると思います。

不透明であるがゆえ、質問したい事は他にも山ほどあるのです。

話しは鴨沂から反れますが。

近々の事で言えば、行政や企業と一般市民との重要な信頼性の構築という点でフォーカスしてふと、ニュースを見ていて耳障りのあまり宜しく無い情報がありました。それは「高浜原発における再稼働に向けての住民説明会が開催される」というニュースの中で、住民説明会では「質疑応答の時間は設けない。質問は文書から文書で回答する」「説明会の様子はホームページで動画配信する」と、言うものでした。この理由について、「質問は紙で受けた方が回答がし易い」「会場規模に限りがある(から、人数制限を設ける)」等という事をアナウンサーが述べていました。一体、どこかでよく聞く言回しです。

確かに、言われる理由にも一理あります。投げられた質問に対してより詳細な資料が必要な場合には紙でのやりとりは有効でしょう。けれど、その質問に対する返答は、それは質問した本人しか受け取れないのか、あるいは全文公開して誰もが閲覧出来るのかどちらでしょう。また、質問の後の回答に対してまた疑問が生じた場合、口頭でのやりとりは最も有効にはならないでしょうか。人数制限を設ける規模の会場しか無いのであれば、議論がつくせない場合には何度も、何度でも会場をおさえて多くの人の納得を得る努力をせねばならないのではないでしょうか。確かに、インターネットの動画配信は透明性という点では(全時間公開であれば)有効でしょう。けれど、それでは対面の議論は絶対に出来ません。ただ、事実確認出来るだけ。どこまでいっても究極的には一方通行で、議論が尽くせる場にはなり得ません。それは、こうしてネットというものを使っている私たちも重々に、良き点悪い点があるのを認識しています。

信頼性の構築や人間同士の交流によって生じる絆は、全く何も無いよりはマシですが、かなり希薄なものになります。

一体、何を避けているのでしょう。

知っているからこそ、分かる事。

テレビの向こう側、あるいは紙面がただ右から左へと受け流す情報も、受け手側もそのまま右から左と受け流すのでは無く、そこに明確に自分の中で見出した疑問を持つ事で始まる新たな形があると、近頃常、感じる事があります。

行政や企業側都合の効率や時間短縮を優先する手法や、いかようにも受け止める事が出来る言葉にうんざりする前に、もっと多くの人達で、どうあるべきかを語れるか。

このままじゃ、いけないと思うのです。

ついに、本館側敷地にあった地下道上屋が無くされた。

<本日の鴨沂>

ここの所、なんと素晴らしい秋の空に恵まれているでしょう。ついつい、目の前の美しいもの、美しい光景に目がいってしまう今日この頃。痛々しい事からはつい反射的に心が向かなくなりますね。
そんな中、実に3週間ぶりに、鴨沂校舎を訪れました。
敷地内を垣間みる限り、クレーンなどの大きな什器や、ましてや鉄骨などはまるで入っていない様子の鴨沂。すぐ側で今話題の最高額7億円というマンションが 急ピッチで建てられる界隈の様子とは、時間軸がどうやら違う様子。残された校舎中央棟や図書館棟からはあたり一面響く破壊音がする中、勿論建家の中がどう なっているのかは伺い知る事は出来ません。
が、今回大きな変化が起こっていました。それは、写真にあるように、本館敷地内に残されていた地下道上屋が、完全に無くされてしまったという事です。在ったものが無くなる事。かすかな残像も記憶の彼方。空が思いきり、向こうまで抜けてしまいました。
これで、鴨沂からは永遠に、過去と未来を行き来する事が出来た地下道が、失われてしまいました。北運動場では立ち上がりのパルテノンのような地下道上屋は まだ、今の所残ってはいます。そこに今日、野球部が練習をしていて、在校生部員がちょこんと上屋のベンチで座っている様子を見て、あれは確か、数十年前か ら変わらない光景なのにとなんとも言えない気持ちになりました。

そう言えば先日、仕事先で偶然、若い菓子職人の方とお話する機会がありました。
彼は以前、鴨沂の定時制に通っていた事があったのだそうです。
家業を継ぐべく中学を卒業して菓子職人の見習いをしながら、夜は鴨沂の定時制に通っていた頃、学校で一番嬉しかったのは「ダントツで食堂が美味しかった 事」だったとか。仕事を終えて食べる間も無く急いで学校に行くと、顔の見える食堂の方らによる、安くってお財布に優しい、手作りのありがたい食事にありつ く事が出来る。
その後、神戸の菓子店の見習いに転職してまた神戸の定時制に通ったら、そこは食堂は無くて出てくる食事はコッペパンにジャムと牛乳だけ。「若いから食欲も旺盛なのに、あれは辛かったなあ」と。
「もしも僕がみんなのように他の高校を知らなくて、比較するものが無かったら、あの鴨沂がどれだけ特別だったかなんて、かけがえの無いものだったかなんて、分からなかったでしょうね。何もかもあれで普通だって、思っていたのかも」。
この言葉って、とても深いなあと、今、立派な菓子職人になられて美味しいお菓子を作る事が出来る彼と話しをしていて、つくづく思うのでした。

コラム/「自由を着る」という事。

「ギャルソンの川久保玲の孤高さに思いを馳せながら」。

昨日の夜に、NHKをぼんやりと見ていたら、「ニッポン戦後サブカルチャー史Ⅱ DIG 深堀り進化論」という番組で、今回のお題は「不思議の国の『女子高生』」というのがやっていました。

女子高生達が牽引する日本のサブカルチャーに着目し、ファッションや言語など、時代の中で女子高生達が流行らせたムーブメントをひろいつつ、主には「制服」をキーワードに、色んな年代のキャスト達が見解する、という番組内容。ちょっと面白かったのが、女子高生らの独特のカルチャーというもの、何も戦後始まりなんかじゃなくて、それこそ戦前、遡って女子教育が始まった明治初期から、女学生という存在の社会における一種特異な、決して全体ではないからこそ生まれるカルチャーというものがあって、あるいは、まだまだ女子が全体として勉学の出来る環境にいられなかったからこその、周囲からの羨望と嫉妬の目に晒される存在として、ある種マイノリティで特別な存在であった彼女ら独自の、それら好奇の目をはねのけるようなカルチャーが存在した事。制服の着こなし(あるいは着崩し)、彼女らだけの通じる独特の言回し(隠語)などが存在した事も紹介されて、なんだかとても、興味深い内容でした。太宰治が綴った、当時の女学生の日記からヒントを得たという小説も、そうした背景を知るとまた充分に面白さが増しました。

そんなこんなの内容の中、キャストの一人が要約として、「制服」というものを指して今も続く高校生達の「制服の着崩し」を説き、「規制があるからこその、そこから外れたい、自由を得たいとする、まるで自由の無い箱から溢れるがごとく勢いの中で生まれる独特のカルチャー」を論じられた時、そう言えばここ10年程で見られた、かつての自由な(あるいは自由過ぎたとも他方では言われた)箱であった鴨沂にあって、「なんちゃって制服」がやたら流行ったというあの感じというのは、当時の鴨沂生の精神的な部分って、どういう構造だったのかなあ、なんて、振り返ったりしました。そう思えば、単純に制服というものへの憧れとイコールしての鴨沂の「制服化」は、ちょっとどころかだいぶ、ピントがズレた落とし所だったのかもしれません。

さて。

ちょっと以前の記事ですが、以下のリンクは日本における孤高のファッションデザイナー・川久保玲が1969年に設立したファッションブランド「コム・デ・ギャルソン」が今年春夏の紳士服のテーマを「反戦」とし、ブランド広告にも「自由を着る」というタイトルを打ち出した、という記事。軍服の構造を崩し、ヒョウ柄などのパンクの要素が軍服の要素を駆逐するようなデザインが、パリコレクションでのランウェイを闊歩しました。(注/元リンクの朝日デジタルでは全文を会員登録していないと読めないので、全文通して読めるものをリンクに貼りました。)

「自由の意味をもう一度新たに確認したいからです。ひとは武器を持って強くなるわけではなく、皆が自由であることが強い。また、強い服を着ることによっても、自由になれる。強い服を着たい時は、自分が強くなりたい時です。自分を解き放つ、人と違う意見が持てる。それが自由だと思う」とは、川久保玲の弁。

今、日本で起こっている論争や、今一度「反戦」を問う世情にあって、直球的な川久保玲のアプローチと、その思いが読める言葉達が深く、私たちに問いかけます。リンク先には、他にも語録が書かれていますので是非。

全文記事リンク↓

http://tenpomap.blogspot.jp/2015/09/interview-20159.html

朝日デジタルリンク↓

http://www.asahi.com/articles/ASH8L5K72H8LUCVL015.html

そう言えば。

鴨沂の軽音部の楽器を保管している部屋の扉に、お世辞にも上手いとは言えない、けれど味のある筆文字で「武器より楽器に 皆入って軽音部」なんてビラが、長い間不格好も気にせず、貼られていたのを思い出します。それも、ほんの3年前までのお話。今まさに現在の鴨沂は、どんな風ですか?

昨今の他方では、大学生や高校生らも、かつての学生運動とは全く異なった、新しく、センスの良いアプローチで(だからこそ、戸惑われる世代も多いのかもしれませんが)社会への問いかけを行う、そう、社会的関心が無かったであろうレッテルの貼られていた人達によるムーブメントを目の当たりにする事も多い日々。

自身のほんの目の前の事、スカートの丈がどう、髪先がどう、髪色がどう、校則がどう、学校評価がどう、という小さなカルチャーだけでは無く、自身の在り方で世の中を体現し、社会へと問いかける隠喩が自らをもって成された、そういう10代が、これから育って欲しいなと、世の潮流を見ていて今一度、一鴨沂卒生とは願うばかりです。